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⑤⑧話 出陣の日と秘めた祈り


 長篠へ向けて、伯父・織田信長が出陣する朝が来た。


 岐阜城下の屋敷の庭には、家臣や足軽たちがすでに集まり、甲冑に身を包み、整然と列を成していた。肩に担がれた鉄砲の先端が、朝陽を受けて鈍く光っている。


 私たちは、母上様とお初、お江と共に通りへ出て、凛とした空気の中、見送りに立った。


 風はまだ冷たく、桃の花びらが一枚、私の肩に落ちた。


 伯父・信長は、黒光りする南蛮甲冑を身にまとい、堂々と馬上にあった。まだ血や泥の気配はないその姿は、異国の将軍のようで、威厳と冷酷さを兼ね備えた空気を放っていた。


 私はその姿を見つめながら、胸の奥で疼く感情を押し殺していた。


 ――この甲冑の下に、父上の命を奪ったその手がある。


 伯父が口を開いた。


「市。儂が戻るまで、母上様の子とを頼むぞ。そして茶々、お初、お江――伯父が勝利を収めて戻る。待っておれ」


 その言葉に私は一歩前へ出て、声音に力を込めた。


「伯父上様、どうか武田を打ち倒してくださいませ!」


 口調は礼儀正しく、声も大きく通った。けれどその中身は、心からの願いではなかった。ただの形式、感情のこもらぬ声。


 お初が私の袖を引いて笑った。


「茶々姉様、声が大きすぎますよ」


 お江は母上様の裾をぎゅっと握り、かすかに手を振っていた。


 母上様は目を伏せ、小さく祈るように呟く。


「兄上様が勝利を収めますように……そして、どうか娘たちに、平穏な日々を……」


 私はその手をそっと握り返した。


「母上様、私も祈ります。伯父上が、勝利を収められますよう」


 ――だが、その言葉の裏には、別の祈りが渦巻いていた。


 彼が勝つのなら、その勝利がやがて彼自身を破滅へと導くように。そんな、誰にも言えぬ暗い願いが、私の胸を支配していた。


 伯父・信長の馬がゆっくりと動き出し、兵たちもそれに続いて行軍を始めた。馬の蹄が土を打ち、足軽たちの足音が徐々に遠のいてゆく。


 私たちは沈黙の中で見送り続けた。やがて騎馬の影が小さくなり、やがて通りの角で姿を消す。


 静寂が岐阜城下に戻り、風だけが桃の枝を揺らしていた。


「伯父上様は鉄砲で武田を倒すのですね?」


 私が母上様に尋ねると、その声にはわずかな冷ややかさが混じっていた。


 母上様は静かに応じる。


「そうね、茶々。鉄砲は強力な武器よ。でも、戦は時の運でもあるわ」


 私は口元に微笑を浮かべた。


「その力……その運とやらを、一度は見てみたいものですわ」


 けれどその微笑も、仮面にすぎなかった。


 心の中では――その鉄砲が、いつか彼を裏切るように。運命が彼に背を向けるように――と、そんな願いが、ひそかに芽吹いていた。


 「茶々、それは危険だからやめておきなさい」


 母上様は冗談めかして笑った。


 私も笑って応じたが、その笑顔の奥には、仄暗い決意が隠れていた。


 その後、私たちは屋敷へ戻り、囲炉裏の火を囲んで静かな時を過ごした。火がぱちぱちと音を立て、部屋にやわらかな橙の光を投げかける。


 侍女のささつきが、お茶を運んできた。


「お市様、お嬢様方。どうぞ、温かいお茶でございます。上様がご無事で戻られますよう、お祈り申し上げます」


 私は茶碗を手に取り、問いかけた。


「ささつき。伯父上様が勝利されたら、また盛大な宴が開かれるのでしょう?」


 その声には、ほんの僅か、皮肉が混じっていた。


 ささつきは微笑んで答える。


「はい、姫様。きっと賑やかになりますよ」


 私は茶を一口すすりながら、内心では別の情景を思い描いていた。


 ――宴の喧騒の中で、誰にも気づかれぬまま彼が失墜する瞬間。そのとき、私は笑えるのだろうか。


 お初が瞳を輝かせて言った。


「茶々姉様、伯父上様が勝ったら、私たちも一緒に祝えますね?」


 私は優しく応じた。


「ええ、お初。勝利は祝うべきものですわ」


 しかしその声に、心からの喜びはなかった。


 お江が小声で尋ねる。


「茶々姉様……怖くない?」


「いいえ、お江。母上様がそばにいてくださるから、何も怖くはないのよ」


 私はそう答えたけれど、心の奥には安らぎなどなかった。


 私は祈るふりをして、彼が膝をつく日を夢見ていた――それは私だけの、秘めた祈り。


 夕暮れが近づき、庭の桃の木が長い影を落とし始めた。


 私は母上様と肩を並べて歩き、落ちた花びらを拾い上げた。


「母上様。伯父上様が戦場におられる今、私たちにできることは何でしょう?」


 母上様はゆっくりと頷いた。


「待つことよ、茶々。そして、祈ること」


「……はい、母上様。仰せの通りにいたします」


 けれどその瞬間、私の中にもう一つの決意が芽生えた。


 ――私は、待つだけではない。いつか彼に報いる機会が訪れるなら、決してそれを逃さない。


 夜、風が強まり、屋敷の戸がかすかに揺れた。


 私は母上様のそばで眠りについた。


 夢の中でもなお、黒き甲冑の影が、遠ざかる蹄の音と共に揺れていた。



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