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⑤⑤話 桃の花と伯父上の来訪

1575年の春。


私は母上様とお初、お江と共に、岐阜城下の屋敷の庭で桃の花を眺めていた。


岐阜城下は伯父・織田信長の領地の中心に位置し、山の上にそびえる岐阜城を見上げる場所にある。城は堅牢な石垣の上に築かれ、眼下に広がる町を睥睨するその姿は、まるで威厳そのものだった。


私たちが暮らす屋敷はその城から少し離れた平地にあり、城下の喧騒から離れた静謐な佇まいを湛えている。庭には一本の桃の木があり、その枝々に咲いた淡紅色の花々が春風に揺れていた。ひとひら、またひとひらと舞い落ちる花びらは、どこか寂しげな余韻を残す。


「母上、この桃の花、どこか寂しく見えますね」


私がそう呟くと、母上様は優しい微笑みを浮かべ、


「そうかしら、茶々?でもね、美しい花は、どんなに静かでも、その美しさに意味があるのよ」


と、穏やかな声で返してくださった。その声音は私の胸の奥に染み入り、心がふっと軽くなるようだった。


お初は七歳。私より二つ下の妹で、お淑やかな子だ。彼女も花に目を細め、


「確かに美しいですね。けれど、少し哀しい気もします」


と、小さく呟いた。


一番下のお江はまだ四歳で、母上の裾をしっかりと握りながら、黙って頷くだけだった。言葉少ななお江だが、その瞳には好奇心と感受性が宿っている。


私は彼女の手を優しく取り、


「お江、この桃の花、どう思う?」


と問いかけると、彼女は少しだけ眉を動かし、か細い声で、


「……好きです」


と答えた。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。その小さな笑みに、私は胸が温かくなるのを感じた。


こうして母上様と妹たちと静かな時間を過ごすことが、今の私にとって何よりも大切なひとときだった。


岐阜に移ってから、母上様と過ごす時間は以前よりも減ってしまった気がする。けれど、今日のような穏やかな日には、少しだけ昔に戻れたような気がした。


母上様は、時折遠くの山並みを見つめては何かを思案している様子だった。けれど、その胸中を私たちに語ることはない。それでも、そばにいてくださるだけで、私たち姉妹の心は安らいだ。


その時だった。


門の外から馬の蹄の音が勢いよく響き、私は思わず立ち上がった。緊張が走る。誰かが屋敷に近づいてくる。


やがて、聞き慣れた声が朗々と響き渡った。


「お市はいるか! お市! 町を一回りしてきて喉が渇いた。水を所望じゃ!」


庭に勢いよく踏み込んできたのは、我らが伯父、織田信長だった。


甲冑は纏わず軽装であったが、腰には太刀を佩き、その鋭い眼光と堂々たる佇まいは、誰もが自然と頭を垂れたくなる威厳に満ちていた。


背は高く、歩みはまるで地を割るように力強い。土埃を舞い上げながら庭へと進み出ると、母上様が私たちの前に立ち、平然とした声で応じた。


「兄上様、おいでくださったのですね。水がご所望とのこと、井戸はあちらにございます。どうぞ、ご自分でお汲みくださいませ。誰か、柄杓を」


侍女のささつきが慌てて盆に柄杓と茶碗を載せて駆け寄ったが、信長はそれを手で制し、


「不要だ」


と一言。


そして、井戸の傍に歩み寄ると、手桶も使わず両手で水をすくい、豪快に喉を鳴らして飲み干した。水はその顎から滴り落ち、陽の光を反射して地面に弧を描いた。


「ふぅ、美味い」


と、信長は満足そうに呟く。


私はその粗野とも思える仕草に、思わず笑みをこぼした。伯父上は、自由で豪放磊落な方だ。誰よりも厳しく、誰よりも人間らしい。


たとえ、父上の敵であっても。


母上様は少し歩み寄り、静かに問いかけた。


「兄上様がご自分で町をご覧になるとは、何かございましたか?」


信長は井戸の縁に手をかけ、低い声で答えた。


「戦が近い。町の様子を自ら見ておきたかった」


戦——その言葉に、私は背筋がひやりとした。


「左様ですか……お町の方々は、変わらず賑わっておりましたが……お相手は、どちらに?」


母上様の問いに、信長はわずかに眉を上げて答えた。


「武田だ。信玄の三回忌を終えてから、家臣どもが活発に動き始めたと、猿が忍ばせた者が報せてきた」


「武田勝頼……」


母上様がその名を呟くと、その眼差しがわずかに揺れたのを、私は見逃さなかった。


お初がそっと私に寄ってきて、耳元で囁いた。


「茶々姉様、武田って、強いの?」


私は小さく笑い、


「さあ、でも織田家が勝つと思うわ」


と返す。


お江は無言のまま、母上の裾をぎゅっと握りしめた。


すると、信長が突然、目を細めて私たちを見つめ、


「市の許に、武田の者が来てはおらぬか? 情報を引き出そうとするような輩が」


その言葉に私は息を呑み、母上様は即座に首を横に振った。


「来てはおりません。なぜ、そのようなことをお疑いに?」


「浅井が、武田と結んでいたからだ」


その名が出た瞬間、私の胸はぎゅっと締めつけられた。


浅井——それは父上、浅井長政のこと。


父上の名を口に出す時、母上様はいつも少しだけ目を伏せる。私たちは、母上のその哀しげな表情を見るのが辛くて、父上の話題にはあまり触れなかった。


母上様は顔を上げ、毅然とした声で答えた。


「私は織田に帰した身。娘たちの命を危険に晒すような愚は、決して致しません」


信長はしばし黙り、母上様の瞳をじっと見つめた。


やがて、静かに呟いた。


「……市は、儂をよく理解しておるな」


その視線は鋭くもあり、どこか寂しげでもあった。二人の眼差しが交差する様は、まるで目で言葉を交わすようで、見ている私たちまで息を呑んでしまう。


お初が私の袖を引いて、そっと囁いた。


「茶々、母上様って……とても強いのね」


私は大きく頷いた。


「ええ、本当に……誰よりも素晴らしい方よ」


お江はまだ母上の裾を握りしめたままだったが、その小さな体が少しだけ母上に寄り添うように動いた。


母上がそばにいる限り、私たちは大丈夫。


桃の花がまた一枚、風に乗って宙を舞い、私の肩にふわりと落ちた。


その花びらは、まるで母上様の強さと優しさを象徴しているように思えた。



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