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⑤④話 茶室の絆(続き)


 千宗易が茶室を後にしたあと、私は一人、畳の上に正座したままだった。


 沈黙の中、障子の外からかすかに響く馬の蹄の音と、使者の低く押し殺した声が、静寂を切り裂くように耳に届いてくる。その音のひとつひとつが、現実を突きつける刃のようだった。


 私は膝の上に置いた懐剣袋を、そっと両手で包み込む。藍染めの絹地に、月光が反射してほのかに光っていた。


 この袋の中にある懐剣は、父・浅井長政から授かった、私にとって唯一無二の護り刀。けれど今、この小さな袋が、私の胸の奥に広がる不安を抑えるには、あまりにも頼りなく感じられた。


 伯父・織田信長の使者――。


 その言葉が脳裏をよぎるたび、小谷城が紅蓮の炎に包まれたあの夜の光景が甦る。


 炎に照らされた城門。火縄銃の激しい音。母上様が私を腕に抱え、燃えさかる城を後にした、あの息苦しい夏の夜――。


 岐阜に移ってからも、信長様の威光は、まるで空気のように私たちの周囲に満ちていた。そして今、あの偉大な存在が、千宗易殿すらも自らの野望の一部に取り込んでいく。


 私は静かに目を閉じ、唇を噛んだ。


 しばらくして、茶室の戸が再び静かに開かれた。


 千宗易が戻ってきたのだ。


 彼の顔には、先ほどまでの穏やかさに、わずかな疲労の色が重なっていた。それでもその瞳は、どこか澄んでいて、揺らぎがなかった。


「茶々様、お待たせいたしました」


 彼は私の前に座り直し、深く一礼する。私はその所作の中に、変わらぬ誠実さを見出していた。


「伯父上の使者は……何を?」


 私の問いに、千宗易は小さく息を吐き、ゆっくりと答えた。


「堺に戻れとの御命にございます。南蛮との交易をさらに進めるべく、茶道具や珍品を揃えよとの仰せじゃ」


 その言葉に、私はしばし言葉を失った。


 信長の野望は、刀や鉄砲のみならず、遠く海の向こうの文化や品々にまで及んでいたのだ。そして千宗易の動きもまた、その大きな野心の一端に組み込まれている。


「……もう、会えなくなるのですか?」


 私の声は、思っていたよりも細く、震えていた。


 けれど千宗易は、その声に穏やかに笑みを返してくれた。


「いや、またお会いできますとも。茶の道を極める者は、場所を越えてつながっております。茶々様がこの道を歩み続ける限り、わしは姫様の師でございます」


 その言葉に、胸の奥が温かくなった。


「……是非とも、名乗ってくださいませ。浅井長政の姫・茶々の、いちばんの師匠と」


「ありがたき幸せにございます」


 千宗易の声には、武の世を超える力――言葉と信の力が宿っていた。


 私は、懐剣袋をもう一度しっかりと握りしめ、力を込めて言った。


「私、茶の道を続けます。父上様のためにも、そして、自分自身のためにも」


 千宗易は満足げに頷いた。


「その心がけが、なにより大切でございます」


 そう言って、彼は静かに湯を汲み、茶筅を手にした。


 シャカシャカ、と音が鳴り、茶室に湯気が立ちこめる。その香りとともに、私は初めて彼から茶の湯を教わった朝のことを思い出していた。


 硝煙の記憶に苛まれていた私に、初めて安らぎを与えてくれたのは、この茶の時間だった。


 彼が差し出した茶碗を受け取り、私は静かに口をつけた。


 抹茶のほろ苦さが、私の胸に巣食う不安を、少しずつ溶かしていくようだった。


 茶を飲み干した後、千宗易は茶器を一つ一つ丁寧に包み始めた。


「茶々様、わしは明日、堺へ発ちます。岐阜での時は短うございましたが、姫様と茶を共にできたこと――それは、わしにとっての誇りにございます」


 私は唇を結び、こみ上げる涙を堪えながら頷いた。


「私も……師匠と過ごした時を、宝にいたします。ありがとうございました、千宗易殿」


 彼は穏やかに微笑み、


「姫様なら、大丈夫じゃ」


 とだけ言い残し、静かに茶室を出て行った。


 その背中を見送り、私は茶室の外へ出た。


 岐阜城下の屋敷に戻ると、窓の外に広がる長良川の流れが、月の光に照らされてきらきらと揺れていた。


 私は懐剣袋を開き、懐かしいその刃を手に取る。柄に彫られた花の模様を指でなぞりながら、そっと呟いた。


「父上様……私、強くなります。茶の道を歩みながら、この世を生き抜いてみせます」


 その決意が、私の胸の奥に、小さな灯火をともしてくれた。


 翌朝、千宗易が岐阜を発ったと、侍女がそっと告げた。


 その馬車の音は、私の耳には届かなかったけれど――心の中で、師の姿が鮮やかに浮かんでいた。


 別れは終わりではない。これは、私の新しい始まり。


 私はふたたび茶室に向かい、茶杓を手にした。


 手に伝わる木の温もり。それは師の教えの記憶と重なる。


 湯を沸かし、茶を点てる。


 抹茶の緑が茶碗の中で静かに揺れた。


 この一服こそが、千宗易との絆の証。


 私は目を閉じ、その温かさを胸いっぱいに感じていた。

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