⑤②話 懐剣袋の願い
蔵の中は、火薬の一件で一時ざわついたものの、千宗易の落ち着いた手つきと柔らかな声音によって、再び静寂が戻っていた。
彼が居間の隅に設けた小さな炉に火を入れ、鉄釜に張られた水が次第に湯気を立て始める。ほう、と微かに立ち上る音――それは不思議と、胸の奥に残ったざわめきを、優しく撫でてくれるようだった。
私はその音に耳を澄ましながら、火薬の匂いと小谷城の記憶を、ゆっくりと遠ざけていった。
硝煙の臭いが鼻をつき、あの日見た城の炎が脳裏を過ぎっても、それらを上書きするように、千宗易の穏やかな言葉と、茶の香が現実へと引き戻してくれる。
「茶々様、こちらへおいでください」
その柔らかい声に導かれ、私は炉の前に歩み寄り、静かに板張りの床へ腰を下ろした。
宗易はすでに茶筅と茶杓を手にしており、無駄のない動きで抹茶を点て始めた。湯の音、茶筅の音、そして立ちのぼる湯気――まるで朝露のような静けさが広がってゆく。
碗の中で深い緑が揺れ、湯気に混ざってほのかに香る抹茶の香りが、私の胸をふっと軽くする。
「姫様の心が乱れた時、茶の湯はそれを整える。戦の世でも、この一瞬は奪われんよ」
宗易の声は、どこか母上様の口癖と似ていた。品のある声に、私は自然と頷いた。
差し出された茶碗を、両の手で包む。まだほんのり熱をもったその器を口に運ぶと、苦味の中に柔らかい丸みがあった。
「……美味しゅうございます」
短くそう告げて碗を返すと、宗易はゆっくりと微笑み、それを丁寧に片付けてから言った。
「火薬のことは忘れて、好きなものを見つけてみなさい。お近づきの印に差し上げると約束したままですのでな、商人の意地でおます」
少し申し訳なさを覚えつつも、その言葉に背中を押されて、私は再び蔵の中を歩き出した。
南蛮の香水、異国の硝子細工、見慣れぬ模様の反物たちが、まるで夢の国のように私を包んでくれる。気づけば、火薬の匂いなどもう感じなかった。
そして――
その中に、ふと目を引かれる反物を見つけた。
短く裁たれた藍色の布。金の糸が織り込まれており、光に当たるたび、控えめにきらめく。派手ではないが、気品のある静かな輝きだった。
指先でそっと撫でると、その滑らかさに心が落ち着いていく。私はその布を手に取り、宗易の方へ向き直った。
「私、これが欲しいのじゃ」
彼は少し驚いたように眉を上げた。
「茶々様、でしたら一着仕立てられるこちらにいたしては?」
差し出されたのは、豪奢な赤と金の反物。花模様が織られ、まるで南蛮の宮殿の絨毯のような贅沢な品だった。
しかし、私はゆっくりと首を振る。
「私は……母上様からいただいた懐剣を入れる袋が欲しいのじゃ。これだけあれば、十分じゃ」
その言葉に、宗易は一瞬目を丸くしたものの、すぐに頷いた。
私は懐から、母上様にいただいた懐剣をそっと取り出す。
短いが鋭い刃を持ち、柄には小さな花の彫刻が施されたその小さな剣は、まるで私の心の一部のようだった。
「これは、父上様の小太刀を打ち直した物と、母上様が仰った……。この懐剣を、私はずっと大切にしたい」
柄をそっとなぞる私を、宗易は黙って見つめていた。商人としての目ではなく、一人の人としてのまなざしだった。
「……なるほど。懐剣袋、でございますな。では、こちらで仕立てさせます」
宗易は優しく微笑み、私の選んだ反物を大切に抱き上げた。その姿は、どこか祖父に似ていた。――気難しいところもあるけれど、あたたかくて、頼りになる。
「ありがとう、千宗易殿」
私が頭を下げると、宗易は軽く手を振り、店の者に反物を渡して仕立ての指示を始めた。
私は懐剣を握りしめ、蔵の隅に腰を下ろす。
宗易が話す声が遠ざかり、再び静けさが戻る。懐剣の柄に刻まれた花を見つめながら、私は父上様の面影を探していた。
小谷城が炎に包まれたあの日の記憶。伯父・信長のもとで暮らす日々の中で、父上様の温もりは遠くなったように思えた。
けれど――
この懐剣を手にするたび、私は父上様と母上様に守られている気がした。そして今、異国の布で作られる袋がその想いを包み込んでくれる。
絆は、形にすることで、消えずに残る。そう思えたのだった。




