④話 夜襲
前田又左衛門利家が挨拶に来て、手勢を警護として残していった日の夜のことだった。
寺に身を寄せる私たちにとって、その日は静かな夕暮れから穏やかな夜へと移り変わるはずだった。
寺の境内は深い闇に包まれ、木々の間を抜ける風が枯れ葉をそっと揺らし、遠くで虫の音が微かに響いていた。
私は母上様とお初、お江と共に寝所に横たわり、薄い障子越しに差し込む月光を眺めていた。
障子の桟に映る木の影がゆらゆらと揺れ、まるで静寂の中で生き物のように蠢いているようだった。
囲炉裏の残り火が小さく赤く光り、その暖かさが布団に染み込んで、私を眠りに誘おうとしていた。
だが、その静けさは突然、鋭い怒号によって切り裂かれた。
「敵襲、出合え出合え!」
その声は夜の闇を震わせ、寝所の障子越しに映る人影が慌ただしく駆け回るのが見えた。
私は瞬時に目を覚まし、布団の中で身を起こした。
月光だけが寺の境内を淡く照らし、火の灯らぬ暗闇の中で、無数の影が蠢いているのが分かった。
足音が土を踏み鳴らし、刀の鞘が擦れる金属音が不気味に響き渡る。
私は胸の奥で冷たいものが広がるのを感じた。
敵襲――その言葉が頭を支配し、心臓が激しく鼓動を打った。
母上様が素早く立ち上がり、私たちを部屋の隅に集めると布団を被せた。
その動きは迅速で、まるで予期していたかのように冷静だった。
お初の手が私の腕を掴み、その小さな指先がかすかに震えているのが伝わってきた。
私はお初の手を握り返し、彼女の恐怖を少しでも和らげようとした。
「茶々、お初。目を閉じていなさい」
母上様の声が響いた。
その声はいつもより低く、決然としていた。
私はその声音に一瞬驚き、
「母上様?」
と呼びかけたが、彼女は答えず、私たちを布団で覆った。
母上様の息遣いが近くで聞こえ、その緊張が私にも伝わってくる。
私は布団の下で目を閉じようとしたが、心の奥で何かが囁いていた。
逃げてはいけない、目を逸らしてはいけない――その声は、父上様を奪った伯父・織田信長への憎しみと結びつき、私に現実を見つめる覚悟を強いた。
私は布団の隙間からそっと目を凝らし、事の成り行きを追った。
「お市の方様と姫様を傷つけることなく捕らえよ!」
襖が勢いよく開かれ、突風が部屋に吹き込んだ。
その風は冷たく、月光に照らされた黒装束の男たち――三人ほどが姿を現した。
彼らの顔は布で隠され、目だけが獣のようにぎらついているのが見えた。
だが、庭の外にはさらに無数の影が蠢き、闇の中でざわめきが広がっている。
私は息を呑み、布団の下で身を硬くした。
男の一人が抜き身の太刀を手に持つと、その刀身が月光を浴びて鋭く煌めいた。
刃先から滴る血が畳にぽたりと落ち、赤黒い染みが広がる。
その異様な光景に、部屋全体が緊張に包まれた。
私はその血を見ながら、胸の奥で疼く感情を抑えきれなかった。
あの血は誰のものなのか。伯父・織田信長の手先が流したものなのか。
それとも、私たちを守るために流されたものなのか。
その後ろを追うように、藤掛永勝がよろめきながら現れた。
彼の右手には太刀が握られていたが、左手で右腕を押さえ、袖口を伝う血が滴となって床を赤く染めていた。
月光に照らされたその姿は痛々しく、深い傷が彼の体を蝕んでいるのが分かった。
私は藤掛永勝の顔を見た。
彼の額には汗が滲み、苦痛に歪んだ表情が月光に浮かんでいた。
お初が、
「姉上様、怖い・・・・・・」
と小さく呟き、布団に顔を埋めた。
私はお初の肩を抱き寄せたが、自分自身もまた恐怖に震えていた。
しかし、私は目を逸らさなかった。
心の奥底で囁く声が、私を現実に向き合わせていた。
母上様がすっと懐剣を抜いた。
その動きは流れるように自然で、彼女の決意がその刃に宿っているようだった。
男たちがじりじりと間合いを詰め、部屋に漂う緊張がさらに高まった。
私は母上様の背中を見ながら、彼女の強さに胸が締め付けられた。
母上様は私たちを守るために、命を懸ける覚悟を決めているのだ。
「どこの手の者です。答えなさい」
母上様の声は鋭く、静寂を切り裂いた。
男の一人がけらけらと笑い、その眼が獣のようにぎらついた。
「浅井の残党狩りよ。浅井の姫様を連れて行けば、高く買い取ると聞いてな。大人しく捕まれば、痛い思いをしなくて済むぜ」
その言葉に、私の心が凍りついた。
浅井――父上様の名が、こんな形で私の前に現れるとは。
伯父・織田信長が父上様を滅ぼした後、その残党が私たちを狙うなんて。
私は唇を噛み、憎しみが胸の中で渦巻くのを感じた。母上様の懐剣が月光に鋭く光り、彼女の声が響いた。
「たとえこの身がどうなろうとも、娘達だけは・・・・・・」
その言葉に、私は母上様の覚悟を見た。
しかし、その決意も虚しく、男の太刀が一閃し、懐剣が弾き飛ばされた。
金属が畳に落ちる音が響き、私は息を呑んだ。その瞬間、侍女のさつきが悲鳴を上げて男に飛びついた。
「御方様、今のうちにお逃げください!」
さつきが渾身の力で男の腰にしがみついた。
彼女の小さな体が男に押し潰されそうになりながらも、必死に抵抗する姿に、私は目を見開いた。
だが、無情にも男が腕を振り払い、さつきは勢いよく庭へと転げ落ちた。
土と草が跳ね上がり、彼女の体が月光に照らされて横たわる。
私は思わず、
「さつき、大丈夫ですか!」
と叫んだが、母上様の声が震えながら重なった。
「さつき、大丈夫ですか!」
他の侍女たちは身を縮め、恐怖に震えるばかりだった。
私は母上様の手を握り、彼女の震えを感じた。
男たちが一斉に動き、母上様の手を一人が掴み、もう一人が布団に手を差し伸べた。
私はお初を強く抱きしめ、目を閉じようとしたが、その時――
「ぶおおおおんっ!」
轟く風切り音が部屋を震わせた。朱色の槍が壁に突き刺さり、その衝撃で障子が揺れ、部屋中に余韻が響き渡った。
私は驚きに目を見開き、その音の主を見た。
「ちっ、厠にもおちおち行ってられねえとはな。だが、この前田慶次利益が来たからには、もう安心しな!」
悠然と現れたのは、乱世を渡り歩く傾奇者・前田慶次利益だった。
彼は煙管を咥え、にやりと笑いながら部屋に踏み込んだ。
月光に照らされたその姿は異様に大きく、長い髪が風に揺れ、豪快な雰囲気が漂っていた。
私はその姿に一瞬呆気にとられたが、心のどこかで安堵を感じた。
彼は伯父・織田信長の手先ではないかもしれない。
だが、彼が伯父・織田信長の命に従う者であるなら、私は完全には信頼できない。
「おい、おめえら、遠慮はいらねえぞ! 皆斬っちまえ!」
その言葉を合図に庭の人影が一斉に動き出した。
敵と味方が入り乱れ、血しぶきが宙を舞った。
刀がぶつかり合う金属音、叫び声、土を踏む足音が混じり合い、静かな寺の庭が一瞬にして修羅の場と化した。
私は布団の隙間からその光景を見た。
月光に映る血の雨が、まるで夢のように現実感を失わせた。
何が起こっているのか、頭が追いつかない。私はただ、目の前の混乱を呆然と見つめていた。
前田慶次利益は壁に突き刺さった槍を引き抜くと、指示を出していた男に向かって勢いよく振るった。
布が裂ける音が響き、覆面がぱらりと落ちた。
だが、逆光でその顔は見えなかった。私は目を凝らしたが、闇に溶け込むその姿に真相は隠されたままだった。
「おっと、やはりそういうことだったか。ちぃとまずいんじゃねえか、おめえさん達」
慶次の声に冷ややかな響きが混じった。
男が、
「顔を見られたからには始末してくれる」
と返すと、慶次は笑い声を上げた。
「この首、そんな細腕で獲れるもんかよ!」
槍の石突が男の腹に突き刺さり、男は吹き飛んだ。
畳に叩きつけられたその体が動かなくなり、私は息を呑んだ。
気を失った男を抱え、残る者たちが逃げ去り、庭に散った影がそれを追った。
私はその光景を見ながら、胸の鼓動が収まらないのを感じた。
「もう大丈夫ですぜ、お市の方様、姫様方」
慶次の声が静寂を取り戻した部屋に響いた。
母上様が、
「助かりました。礼を申します」
と応じると、慶次は煙管を吹かしながら笑った。
「なぁに、これが俺の仕事ってやつよ。それより叔父貴には内緒にしといてくんな。厠に行っている間に敵襲に遭ったなんて知れたら、何言われるか」
母上様が、
「藤掛永勝は大丈夫なのですか?」
と尋ねると、彼は家臣の肩に寄り掛かりながらよろよろと歩み寄った。
月光に照らされた彼の顔は青白く、血に濡れた袖が痛々しかった。
「なんの、これしきの傷。大したことではございません。しかし、前田殿がおられなかったら、どうなっていたやら・・・・・・」
私が、
「前田慶次、先ほど覆面の男の顔を見ましたね? あやつは誰です?」
と問うと、彼は煙管を手に持ったまま首をかしげた。
「さぁ〜知らねえ顔でしたぜ。さっ、もう敵は居なくなったんで、休んでくだせえ」
母上様はそれ以上何も言わず、私たちのもとに寄った。
彼女は布団をそっと剥がし、私とお初、お江に怪我がないことを確かめると、安堵の息を漏らした。
お初はまだ震え、布団に顔を埋めていたが、お江は騒ぎをものともせず眠っていた。
私はその無垢な寝顔を見ながら、微かな羨ましさを感じた。
庭に投げ出されたさつきは軽傷で済み、よろめきながら立ち上がると、襖を直し、布団を敷き直した。
母上様はたすき掛けをして、廊下に座した。
彼女の背中には、再びの敵襲に備える覚悟が宿っていた。
慶次が、
「お市様は中で寝ていてくれねぇか」
と言うと、母上様は静かに答えた。
「姫達を守る為です。気にせず」
「そう言われてもなぁ~こりゃ~困るわ」
廊下の会話が微かに聞こえてきた。
私は布団の中で母上様の背中を見つめ、心の中で呟いた。
母上様、私はあなたを守る。
伯父・織田信長の手が及ばぬ場所で、いつか彼に報いる日が来るなら、私はその時を待つ。
外からは夜風が草をそよがせる音だけが響き、静けさが戻っていた。
私はお初の手を握り、母上様のそばで目を閉じた。