④⑥話 帰蝶と信長
開けられた障子の外に立っていたのは、織田信長だった。
「おっ、確か茶々であったな? 息災だったか? 守山でゆるりと静かに生活できればと思ったのにな……」
そう言いながら腰を下ろすと、帰蝶様は茶を立て始めた。
私は返事をせず、ただ黙っていた。
「なんだ? 儂が怖いか? 取って食ったりはせぬぞ」
「怖いわけではありません」
「だが、恨んでいる。そうであろう?」
「はい……」
小さく返事をしたところで、帰蝶様が茶を差し出す。茶碗の七割ほどに、薄めの茶が注がれていた。
それを信長は、くびぐびと喉を鳴らして飲み干す。
「ふぅ~……もう一杯」
茶碗が置かれると、帰蝶様はそれを手元に戻してゆすぎ、再び茶を点てた。今度は茶碗の四割ほどに、先ほどより濃い目の茶が注がれ、湯気がふわりと立ち昇る。
信長は、先ほどとは打って変わって丁寧に、ゆっくりとそれを飲んだ。
「ぬはははははっ、やはり茶は帰蝶よな」
私は意味がわからず、思わず信長の顔を見つめてしまう。
「茶とは、飲む人へのもてなし。今、儂が何を欲しているか帰蝶はすぐに見抜いた。鷹狩りから帰ってきたばかりで喉がカラカラだった儂に、温く薄い茶を出し、二杯目には落ち着かせる茶を出した。出来る姫とはこういう女子よ」
「着替えているとはいえ、鷹の臭いがプンプンいたしますよ」
「ぬはははははっ、そうかそうか、鷹臭いか? なら湯を浴びねばな」
茶に満足したのか、信長はすぐに立ち上がり、部屋を出て行った。
その背中を、私は睨みつけた。
それが、今の私にできる精一杯の仕返しだと思った。
信長の背中が見えなくなると、帰蝶様が私の方を見つめた。
「茶々、お前は信長殿をまだ心底恨んでいるのね」
「……ええ、そうです」
「無理もないわね」
帰蝶様は自分で点てた茶を静かにすする。
私は拳を握りしめた。
「帰蝶様は……どうしてあの方を憎いと思った事はないのですか?」
帰蝶様は目を細め、静かに微笑んだ。
「憎しみはね、身を焦がすものよ」
「でも……」
「茶々、お前は強い子だわ。でもね、強さとは憎しみを抱えることではなく、受け止めて前を向くことよ」
帰蝶様の言葉に、私は目を伏せた。
「私には、まだわかりません……」
「それでいいのよ。無理にわかろうとしなくていい。人の心は水と同じ、時が経てば形を変えるわ」
帰蝶様の言葉が、胸に深く染み込んでいった。
その夜、私はなかなか寝つけずにいた。
月が障子越しにぼんやりと輝いている。
信長の言葉が頭を巡る。
「おっ、確か茶々であったな?」
「守山でゆるりと静かに生活できればと思ったのにな……」
何を今さら。すべてを奪っておきながら。
私は布団の中で、そっと涙をぬぐった。
「父上、御祖父様、兄上様……」
心の中で呟く。
憎しみは消えない。けれど、帰蝶様の言葉もまた、心に引っかかっていた。
「憎しみは身を焦がすものよ」
月を見上げながら、私はそっと目を閉じた。
眠りの中で、何か答えが見つかるだろうか。
翌朝、私は庭に出た。
爽やかな風が頬をなでる。
ふと、信長がいることに気づく。
「おはよう、茶々」
「……おはようございます」
私の返事に、信長は微笑んだ。
早朝遠駆けを済ませて母上様の顔を見に寄ったらしい。
「昨日の茶は美味かったぞ」
「……帰蝶様が点てたものですから」
「そうだな」
信長は少し笑い、私をじっと見つめた。
「茶々、お前は強いな」
「……」
「憎しみを抱えたままでも、前に進める。そのことを、儂は知っているぞ」
信長の言葉が、心に重く響いた。
「……私は、どうすればいいのでしょうか?」
「それはお前が決めることだ。儂にはわからぬ」
そう言い残し、信長は去って行った。
残された私は、拳を握りしめた。
「私は……」
自分の気持ちがわからなかった。
けれど、確かに何かが変わり始めている気がした。
新しい風が、私の心をそっと撫でていった。




