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④④話 茶々とお初の貝合わせ

◆◇お市◆◇


松が帰った後、私は茶々とお初の様子を見に行くことにした。


居間を出て、廊下を歩きながら、私は朝の出来事を振り返っていた。


松が来る前、茶々は庭の池をじっと見つめていた。


「お初と遊んでおいで」


と私が声をかけても、彼女は小さく首を振っただけだった。


その瞳に宿る暗い光が、私の心を締め付ける。


浅井長政――私の夫であり、彼女の父を奪ったのは、兄上だ。


天正元年(1573年)、小谷城が炎に包まれたあの日から1年、私は茶々の小さな背中にどれほどの重荷がのしかかっているのか、想像するしかない。


7歳の娘が、母である私の前でさえ心を閉ざす時がある。


その寂しさが、私の胸を冷たくする。


縁側に近づくと、お初の明るい声が聞こえてきた。


二人は松が持ってきた貝合わせで早速遊んでいた。


私は足音を忍ばせ、襖の陰に身を隠した。


心配していた茶々だったが、あの美しい貝殻に触れるうちに、幼心が戻ったようだった。


その笑顔を見て、私はほっと胸をなでおろした。


茶々が貝を手に持ち、お初に言った。


「お初、そなたの手にあるその貝、なかなか美しい紋様ね。まるで春の川面に映る桜のようだわ。どこで選んだの?」


お初が小さな手を貝に添えたまま、目を輝かせて答えた。


「姉上様のお褒めに預かり恐縮です。これは、先ほどあの籠の隅で見つけたもの。確かに、他の貝とは一線を画す趣があるかと。私も気に入っております」


その言葉に、茶々が小さく笑った。


「ふふっ、そなたの目利きは幼いながらも確かね。では、私のこの貝と合わせてみようかしら。ほら、白と金の縁取りがまるで貴人の装いを思わせるでしょう?」


お初が貝を手に持つ茶々の手を覗き込み、感嘆の声を上げた。


「おお、なんとも雅やかでございます。姉上の貝と私の貝を並べれば、さながら宮廷の宴の一幕のよう。勝負というより、見て楽しむのも一興かと存じます」


「さすが初、そなたには風流な心があるわね。勝敗を競うばかりが能ではないもの。次はどの貝を選ぶか、私も少し吟味してみようかしら」


茶々の声に、どこか大人びた響きがあった。


お初が負けじと応じる。


「私も負けじと選びますよ、姉上。次の一手で驚かせてみせましょう」


なぜか大人びた口調で遊ぶ二人。


きっと、私や長政が話す姿を真似ているのだろう。


その微笑ましい姿に、私は思わず笑みをこぼした。


襖の陰からそっと覗きながら、私はこの穏やかな時間が永遠に続けばと願った。


我慢できず、私は襖を開けて二人の輪に加わった。


「これはどうかしら? この貝の模様は、秋の野に舞う紅葉のようでしょう?」


私が貝を手に持つと、お初が目を丸くした。


「まぁ、母上もなかなかの選び手ですね! では、私も負けてはいられません」


茶々が私の貝を見て、柔らかく笑った。


「姉上と母上の選んだ貝、とても見事ですね。どちらが勝つのか、ますます楽しみになりました」

そんな和やかな時間が流れ、私は娘たちの笑顔に心が温かくなった。


茶々の瞳に宿る暗さが、少しだけ薄れたように見えた。


すると、後から侍女のさつきが末娘のお江を連れてきた。


1歳になったばかりのお江は、小さな手で何かを掴むのが大好きだ。


さつきが縁側に腰を下ろし、お江を私の膝に預けた。


「あっ、お江、それは食べ物ではありません。口に入れてはなりませんよ」


お江が貝をつまみ、口へ運びかけていたその瞬間、さつきが慌てて手を伸ばして止めた。


茶々とお初がくすくすと笑い声を上げた。


お初が優しく言った。


「お江姫はまだ小さいから、何でも食べ物に見えてしまうのでしょうね」


茶々が目を細めてお江の手元の貝を見つめた。


「でも、お江の手にある貝もなかなか素敵ですよ。ほら、波の模様がまるで月夜の湖のように見えます」


私が頷いて続ける。


「本当ですね、姉上。お江も知らずに良い貝を選んだのかもしれません」


お江は意味も分からぬまま、ただにこにこと笑っている。


その愛らしさに、私たちの笑みがさらに広がった。


茶々が貝を手に持ったまま、ふと私を見上げた。


「母上、戦が終わったら、またこのように皆で貝合わせができるでしょうか?」


その言葉に、私の胸が一瞬締め付けられた。


茶々の声は穏やかだったが、その奥に何か深いものを感じた。


私は娘たちの顔を見渡し、静かに答えた。


「ええ、きっとできるわ。だから、今はこのひとときを大切にしましょう」


彼女たちが無邪気に笑っている姿は、まるで夢のようだった。


戦の世にありながら、こうして笑い合える時間があることが、どれほど幸せなことか。


その幸せが、いつまでも続けばよいのに――そう願わずにはいられなかった。


だが、その願いがどれほど儚いかを、私は知っている。


兄上・信長の影は、この岐阜のどこにでも漂っている。


長島一向一揆を血で染めたあの男が、私の娘たちを見下ろしている。


茶々の瞳に宿る暗さが、いつか憎しみに変わるのではないか。


その予感が、私の心を冷たくする。


私は貝を手に持ったまま、そっと茶々の頭を撫でた。


「母上?」


茶々が不思議そうに私を見上げた。


「なんでもないよ。ただ、そなたが笑っていてくれて嬉しいだけ」


私はそう言って微笑んだが、心の奥で祈っていた。


この子が、憎しみに飲み込まれませんように、と。



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