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④③話 松とお初の貝合わせ

◆◇前田松◆◇


「失礼させていただきます」


私は侍女に案内され、お市様とお初様が待つ部屋へと足を踏み入れた。


岐阜城の麓に広がるこの屋敷は、朝の陽光に照らされて静かに佇んでいた。


磨かれた廊下の板張りが私の足音を優しく反響させ、窓の外には金華山の稜線が朝霧に霞んで見える。


庭の苔はまだ湿り気を帯び、池の水面には鯉がゆったりと泳ぎ、時折小さな波紋を広げていた。


小谷城が織田信長様の手によって焼き払われてから1年、お市様とその娘たちは守山の城を経て、再び岐阜に戻ってきた。


私は前田又左衛門利家の妻、松として、お市様への挨拶と、戦の混乱で居を移した姫様たちへの見舞いのためにここを訪れた。


岐阜の空は澄んでいたが、その下に漂う空気はどこか重く、長島一向一揆の血と煙の記憶がまだ消えていないように感じられた。


部屋に入ると、お市様が穏やかな笑みを浮かべて私を迎えた。


「あら、松、いの一番に挨拶に来るなんてあなたらしいですね」


その声は柔らかく、27歳の若さとは思えぬ落ち着きを帯びていた。


私は軽く会釈し、笑顔で応じた。


「お市様、それは褒めているのですか?」


「勿論ですよ。それだけ私達を気にしてくれていると言う事なのですから」


お市様の瞳には、長い苦難を耐えてきた者の静かな強さが宿っていた。


小谷城が落ちたあの日、彼女がどれほどの悲しみを抱えたか、私は知らない。


だが、その笑顔の裏に隠された影を、私は見逃さなかった。


彼女の隣には、お初様が小さな体を寄せて座り、母の袖を握っている。


その無垢な姿が、この屋敷の重苦しさを一瞬だけ和らげた。


案の定、茶々様は少し心が乱れているようだった。


先ほど廊下で行き会った時、その冷たい瞳と硬い声に、私は何かを感じていた。


「私も幼少の頃辛い事がありましたので」


私がぽつりと呟くと、お市様がすかさず尋ねた。


「篠原一計の事ですか?」


実父の名を聞いて、私の胸が一瞬締め付けられた。


篠原一計が戦で命を落とし、叔母の家に引き取られたあの幼い日々。


寒い夜に布団の中で震え、父の顔を思い出すたび涙した記憶が、今でも心の底に沈んでいる。


「実父の死、そして叔母の家に引き取られた事、幼き時つろうございました。しかし、利家殿とこうして結ばれたので今となっては良かったと・・・・・・今日は姫様方のお慰みにとこれを持ってきました」


私は侍女に漆塗りの箱を渡し、それがお初様の前に置かれた。


お初様が、小さな手を伸ばして尋ねた。


「開けて良い?」


「もちろんです」


私が答えると、お市様がこくりと頷き、開けるよう促した。


そっと蓋が開かれ、中から現れたのは色鮮やかな貝合わせの貝殻だった。


「わぁ~綺麗。母上様、貝合わせにございます。しかも凄く煌びやかな」


お初様の声が弾み、部屋に小さな明るさが広がった。


その無垢な笑顔に、私の胸がわずかに温かくなった。


貝殻は赤や青、黄金色に塗られ、朝日を受けてキラキラと輝いている。


戦の影に閉ざされた姫様たちの心を、少しでも解きほぐせればと願った贈り物だった。


お市様が驚いたように目を丸くした。


「まぁ~松、これは中々高い拵えの物ではないですか?」


「はい、確かに少々高こうございました。でも、金勘定ばかりしている利家殿が私に是非姫様方が少しでも気が晴れるならとこれを持って行けと」


私がそう言うと、お市様がくすりと笑った。


「まぁ~ケチで有名な利家殿が?」


「はい、ふふふふふっ」


私もつられて笑い、お初様が首を傾げた。


「母上様、前田又左衛門はケチなのですか?」


お市様が軽くたしなめた。


「お初、子供がその様な事は言うものではありませんよ。それより松に礼を」


お初様が貝合わせの箱を抱え、にこりと笑った。


「ありがとうございます。松、これで姉上様と遊びます」


侍女に箱を持たせ、お初様は軽やかに部屋を出て行った。


その小さな背中を見送りながら、私は幼子がこんな暮らしの中で笑えることに、ほのかな安堵を覚えた。


入れ違いに、私の前に茶と茶菓子が運ばれてきた。


湯気の立つ茶碗からはほのかに香ばしい匂いが漂い、茶菓子は素朴な餅菓子が二つ。


「私なんぞにおかまいなく」


私が遠慮すると、お市様が柔らかく首を振った。


「松、気に掛けてくれて本当にありがとう」


「もったいなき御言葉」


「これから岐阜暮らし、頼りにしていますよ」


「なんなりとこの松におもうしつけください」


私は深く頭を下げたが、お市様の次の言葉に一瞬言葉を失った。


「茶々の事頼みたいのですが・・・・・・いや、これは忘れて下さい」


その声には、深いためらいと、隠し切れない憂いが混じっていた。


「茶々様、すこし心が乱れはじめておられる御様子。先ほど廊下で少し言葉を交わしましたが」


私がそう切り出すと、お市様の瞳がわずかに曇った。


「気づきましたか? まだ幼子故に割り切れていないのです」


「浅井家を滅亡に追いやった織田家、だがその織田家は母親の実家、そして棟梁は伯父」


私が静かに言うと、お市様が小さく頷いた。


「そうです。武家に生まれたしまった女子の定めと私は割り切っていますが、茶々はまだ幼子。小谷城の炎が、彼女の心に深い影を落としているのでしょう」


「難しいですね」


「何か頼る事があったら呼びます。その時はよろしく頼みますよ、松」


「はい、すぐにはせ参じます」


お市様の言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。


廊下で出会った茶々様の姿が脳裏に浮かぶ。


あの姫は、私を見上げたその瞳に、冷たく暗い光を宿していた。


「茶々様、ごきげんよう」と私が挨拶した時、彼女は小さく呟いただけだった。


「気遣い無用じゃ」


その声は硬く、幼さの中にもどこか刺々しさがあった。


私は驚きつつも、笑顔で応じた。


「あら? もうお忘れですか茶々様? 前田又左衛門利家の妻、松でございます」


「わかっています。今少し物事を考えていただけです」


彼女の言葉に、私は何かを感じた。


幼子が度々居を移す暮らしは、安心できない辛さだろう。


だが、それ以上に、彼女の心にはもっと深い傷があるように思えた。


お市様との会話が終わり、私は屋敷を後にした。


外に出ると、春の風が頬を撫で、遠くから城下の賑わいが聞こえてくる。


商人の呼び声、馬の蹄の音、子供たちの笑い声。


だが、私の心は重かった。


茶々様のあの瞳が、頭から離れない。


浅井長政を失った悲しみ、そして信長への憎しみ。


少女がそんな感情を抱えているとしたら、それはどれほどの重荷だろう。


屋敷に戻った私は、利家殿に会うなり言った。


「早く戦のない世にしてください」


その日、私にできたのは、夫の尻を叩くことだけだった。



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