④②話 岐阜の檻
私達は再び岐阜城で暮らすこととなった。
金華山の麓、伯父・織田信長の居館にほど近い場所に、新しい屋敷が用意されていた。
長島一向一揆攻めで討ち取られた織田一族の誰かがかつて住んでいたらしいと、母・お市の方がぽつりと漏らしたことがある。
その屋敷は確かに立派で、守山の寂れた城とは比べものにならない。
磨き上げられた床板は足音を優しく反響させ、手入れされた庭には苔が静かに息づき、池には鯉がゆったりと泳いでいる。
だが、私にはその美しさが牢獄の装飾にしか見えなかった。
信長が私たちを縛るための新たな鎖――それがこの屋敷の本質だ。
昼下がり、城下の賑わいが遠くから風に乗って届いてくる。
私は居間の縁側に腰を下ろし、ぼんやりとその音に耳を傾けていた。
遠くで商人の呼び声が響き、馬車の車輪が石畳を軋ませる音が混じる。
守山の田舎暮らしでは聞こえなかった喧騒が、岐阜の空の下では日常だった。
なのに、私の心は一向に軽くならない。
胸の奥で冷たく光る刃――信長への憎しみが、どんな音にも色にも染まらず、私を締め付ける。
父上様・浅井長政を殺したあの男がすぐ近くにいると思うだけで、息が苦しくなるのだ。
母が静かに口を開いた。
「茶々、お初、兄上様からこの屋敷を頂戴いたしました。これからここが我が家です。茶々、くれぐれも町に一人で出ようなど考えないこと。良いですね」
その声は穏やかで、母らしい優しさに満ちていた。
お初が母の膝にちょこんと座り、小さな手を母上様の袖に絡ませている。
私は目を伏せ、畳の目を数えるようにして小さく答えた。
「はい」
その声があまりに小さく、冷たく響いたせいか、お初が首を傾げて私を見た。
「姉上様、少し変ですよ。ずっと元気がない様子」
無垢な瞳が、私の心の刃を突き刺す。
母上様が穏やかに続ける。
「そうですね、どこか調子でも悪いのですか?」
「その様な事はありません」
私は視線を逸らし、縁側の柱に刻まれた細かな傷を見つめた。
そこには誰かが刀で引っ掻いたような跡があり、まるで私の胸の中を映しているようだった。
お初がなおも食い下がる。
「守山の田舎城暮らし嫌っていた姉上様が岐阜に帰ってきた事喜ばないなんて変です」
その言葉に私の心が一瞬軋んだ。
守山の静けさは確かに嫌いだった。
あの田舎城では、風の音と鳥の声しか聞こえず、退屈が私の心を蝕んだ。
だが、ここ岐阜は違う。
信長の息遣いが聞こえる場所だ。
あの男がこの山の頂に君臨し、私たちを見下ろしていると思うだけで、憎しみが胸の中で渦を巻く。
「お初、しつこいです。私はなにもおかしくはありません」
声が思わず尖り、母上様が眉を寄せた。
「茶々、お初は貴方のこと心配していると言うのになんたる言い草ですか?」
「ごめんなさい。ただ私は一人になりたいです。申し訳ございません、しばらく一人にしていてください」
私は立ち上がり、居間を後にした。
足音が廊下の板張りに響き、心の中のざわめきが抑えきれなかった。
信長の影が、この屋敷の隅々にまで染みついている。
庭の苔も、池の水面も、すべてがあの男の支配下にあるように思えてならなかった。
自室へと向かう途中、廊下の向こうから前田松が歩いてくるのが目に入った。
彼女は私を見つけると、眩しい笑顔を浮かべた。
「茶々様、ごきげんようでございます。また姫様にお目にかかれますこと、光栄に存じます」
その明るさが、私の暗い心に一瞬だけ光を差し込んだ。
だが、すぐに刃がそれを切り裂く。
「気遣い無用じゃ」
私は視線を逸らし、素っ気なく返した。
松が少し驚いたように目を瞬かせた。
「あら? もうお忘れですか茶々様? 前田又左衛門利家の妻、松でございます」
「わかっています。今少し物事を考えていただけです」
私の声は冷たく、どこか刺々しかった。
松はそれでも笑みを崩さず、柔らかく続ける。
「そうでしたか? 失礼いたしました。お市様が岐阜に戻ってきたと聞き及びまして、挨拶にまかりこしました。茶々様もお元気な様子で良かった」
「松は相変わらずね」
私は小さく呟いた。
彼女の明るさが、なぜか私の心を苛立たせる。
「はて?」
松が首を傾げたが、私はそれ以上言葉を重ねず、母上様の居場所を告げた。
「母上様はこの先の居間よ。私は失礼するわ」
踵を返し、自室へと足を進めたその時、松が振り返って声を掛けてきた。
「茶々様、帰蝶様から伝言がございます。訪ねてくるようにと仰っておりました」
「帰蝶様が私を?」
私は思わず立ち止まり、振り返った。
帰蝶――信長の正室にして、私の伯母にあたる女性。
彼女がなぜ私を呼ぶのか、頭の中で疑問が渦を巻く。
「はい」
松が頷き、私は一瞬考え込んだ後、口を開いた。
「そう・・・・・・そのうちお邪魔させていただくと伝えなさい」
松が軽く会釈して去り、私は自室の障子を閉めて畳に座り込んだ。
なぜ帰蝶様が私を呼ぶのか。
その疑問は頭の片隅で燻り続け、同時に、屋敷を出る口実になるかもしれないという思いが浮かんだ。
この閉ざされた場所で、信長の影に縛られ続ける日々。
私の胸の刃は、静かに、だが確実に研がれていく。




