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③話 前田又左衛門利家

夕陽が本堂の戸に差し込む光は、まるで燃えるような赤と金が混じり合い、薄暗い室内に最後の温もりを投げかけていた。


古びた木の柱に刻まれた傷が、長い年月を物語るように影を落とし、床にはほこりが薄く積もって、静寂の中でかすかに舞い上がっていた。


私は母上様の隣に立ち、妹のお初とお江をそばに寄せながら、その光をじっと見つめていた。


外から響く風の音が、屋敷の古い戸を微かに震わせ、どこか遠くで鳥の鳴き声が寂しげに響き渡る。


すると、その静けさを切り裂くように、力強い声が本堂の戸の前で轟いた。


「お市の方様、前田又左衛門利家がお迎えに上がりました。もう心配ご無用」


その声は、夕陽の残光を背に立つ男から発せられた。


大きな声には自信が溢れ、まるで戦場で鍛えられた不屈の意志が宿っているようだった。


私はその声を聞きながら、胸の奥に微かなざわめきを感じた。


前田又左衛門利家――母上様が時折口にするその名は、伯父・織田信長の家臣として名を知られた武将だ。


彼がここに現れた意味を私はまだ測りかねていたが、母上様の肩から力が抜けていくのが分かった。


「又左衛門殿が来てくれましたか・・・・・・これで一安心です」


母上様の声は穏やかで、肩にこわばっていた緊張が溶けるようにほぐれていくのが私にも伝わってきた。


母上様は侍女のささつきに目配せし、戸を開けるよう静かに命じた。


ささつきが古い戸を軋ませながら開けると、夕陽の光が一気に本堂に流れ込み、母上様の顔を柔らかく照らし出した。


その瞬間、母上様の唇に浮かんだ微笑は、ほっとした安堵と、どこか疲れを含んだ優しさで満たされていた。


私はその微笑を見ながら、心の中でそっと呟いた。


母上様はいつもこうやって、私たちを守るために笑ってくれる。


でも、その笑顔の裏に隠された思いを、私はまだ知らない。


「又左衛門殿、久しいですね」


母上様がそう言うと、戸の向こうに立つ男が一歩踏み出し、深く頭を下げた。


「おーお市様、無事な様子で何より。それに姫様達もおいでで良かった」


前田又左衛門利家の声は豪快で、まるで戦場で号令をかけるような響きがあった。


私は彼の姿をじっと見つめた。


夕陽に照らされたその体躯は頑丈で、長年の戦で鍛え抜かれた筋肉が鎧の下に隠れているのが分かる。


額には深い皺が刻まれ、風雨に晒された肌は荒々しさを感じさせたが、その眼光には鋭さと同時に人情を重んじる温かみが滲んでいた。


彼の手に握られた朱色の槍は、落日の光を受けて鮮やかに輝き、その存在感を一層際立たせていた。


私はその槍を見ながら、胸の奥で微かな嫌悪感が湧くのを感じた。


あの槍もまた、伯父・織田信長の命に従い、どれだけの血を浴びてきたのだろう。


父上様の血も、その中に混じっているのではないか。


「ご安心ください。上様から姫様達には手出しならんと命を受けております」


又左衛門の言葉が響いた瞬間、母上様の顔色がわずかに変わった。


私はその変化を見逃さなかった。彼女の瞳が一瞬揺れ、唇が微かに引き締まった。


「には・・・・・・やはり・・・・・・」


母上様の声がかすかに震え、言葉が途中で途切れた。


私はその意味を測りかねたが、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような感覚が広がった。


母上様が何かを悟ったような、あるいは覚悟を決めたような表情を浮かべているのが分かった。


お初が私の袖をぎゅっと握りしめ、その小さな手が心なしか震えているのを感じた。


私はお初の手をそっと握り返し、彼女の不安を和らげようとしたが、私自身の心もまたざわついていた。


伯父・織田信長からの命――その言葉が、私に重くのしかかる。


彼が私たちに手出しをしないと命じたのは、私たちを守るためなのか、それとも彼の支配をさらに強めるためなのか。


私はその答えを知りたくて、母上様の顔をじっと見つめた。


「又左衛門殿、それで私たちはどうしよと兄上様は申されているのですか?」


母上様の声は落ち着きを取り戻していたが、その裏に秘めた感情が私には感じられた。


又左衛門は槍を地面に軽く突き立て、堂々とした姿勢で答えた。


「はっ、もう数日ここにとどまった後、岐阜城に移ります。そこで上様と御対面の儀を」


「兄上様は織田家に帰参せよとのことですか?」


母上様の質問に、又左衛門は少し首をかしげ、豪快な笑みを浮かべた。


「拙者にはそのような難しいことはわかりかねます」


その答えに私は内心で苛立ちを覚えた。


彼は伯父・織田信長の命を忠実に実行するだけの男なのか。


それとも、私たちの運命を軽く見ているのか。


母上様の顔には優しい笑みが残っていたが、私はその笑みが本心から出たものではないことを感じた。


彼女の瞳は遠くを見つめ、まるで過去の記憶をたどるように揺れている。


私はその視線の先に何があるのか知りたかったが、母上様は私にその答えを教えてはくれなかった。


彼女の手が私の肩にそっと触れ、その温もりがふわふわとした毛衣のように私とお初を包み込んだ。


私はその温かさに身を委ねながらも、心の奥で不安が消えないのを感じていた。


「私たちはずっと母上様と一緒ですよね」


私がそう言うと、母上様はわずかに目を細め、満面の笑みを浮かべた。


その笑顔は、まるで春の陽光のように温かく、私たちの不安を溶かしてくれるようだった。


彼女は私とお初をしっかりと抱きしめ、その腕に力が込められているのを感じた。


私は母上様の胸に頬を押し当て、母上様の心臓の鼓動を聞いた。


その音は穏やかで、しかしどこか切なげだった。母上様の目は遠くを見つめ、私たちのいつもの温かさを振り返るかのようだった。


私はその視線を追いながら、心の中でそっと呟いた。


母上様、あなたは私たちを置いてどこかに行ってしまうのではないか。


そんな気がしてならなかった。


お初が私の腕をぎゅっと掴み、小さな声で囁いた。


「母上様、どこにも行かないで・・・・・・」


その声はあまりに頼りなく、まるで風に吹かれて消えてしまいそうなほど儚かった。


私はお初の髪をそっと撫で、彼女を安心させようとしたが、私自身の胸もまた締め付けられるように痛んだ。


母上様がどこかへ去ってしまうかもしれない――その予感は、私の心に暗い影を落としていた。


お江が母上様の裾を握り、黙ってその温もりに寄り添っているのを見ると、彼女もまた同じ不安を抱えているのだと分かった。


私たちは三人で母上様を取り囲み、まるで母上様がこの世から消えてしまわないように守ろうとしているかのようだった。


「これからしばらく身辺の警護は我が甥、慶次利益が行います。腕だけは確か、ご安心下され。では頃合いになったらお迎えに参ります」


前田又左衛門利家がそう言い残し、静かに背を向けた。


彼の足音が土を踏むたび、夕陽に照らされたその背中が長く影を伸ばし、本堂の戸に映り込んだ。


私はその影を見ながら、さらに胸の中がざわつくのを感じた。


見知らぬ武士に守られるということは、それだけ私たちが危険な状況にあるということではないか。


慶次利益という名は初めて聞くが、彼が伯父・織田信長の命に従う者であるなら、私は彼を完全に信頼することはできない。


伯父・織田信長の手駒として、私たちを監視するだけではないのか。


そんな疑念が、私の心を冷たく締め付けた。


又左衛門の姿が夕陽の向こうに消えていくと、本堂は再び静寂に包まれた。


戸の隙間から吹き込む風が、囲炉裏の灰を微かに舞い上げ、部屋に冷たい空気を運んできた。


お初が不安そうに私の袖を引き、か細い声で尋ねた。


「茶々姉さま、これからどうなってしまうの・・・・・・?」


私は答えられなかった。


夕陽の光が本堂の床に赤い筋を引く中、私は母上様の手をしっかりと握りしめた。


その温もりは柔らかく、私を包み込むようだったが、同時に、どこか遠くへ消えてしまいそうな儚さを感じさせた。


私は母上様の顔を見上げ、彼女の瞳に宿る深い思いを読み取ろうとした。


だが、その瞳は夕陽の光に反射し、私にはその奥を見透かすことができなかった。


母上様の手が私の髪をそっと撫でた。


私はその感触に目を閉じ、心の中で誓った。


母上様、私はあなたを守る。


たとえ伯父・織田信長が私たちを岐阜城へ連れ戻し、彼の支配下に置こうとしても、私はあなたを離さない。


そして、いつか彼に報いる日が来るなら、その機会を逃さない。


私は母上様の手を握りしめながら、不安と決意が交錯する胸の中で、静かに時を待つ覚悟を決めた。


お初とお江が私のそばに寄り添い、三人で母上様を取り囲むその瞬間は、まるで小さな砦のように、私たちを繋ぎ止めていた。



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