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③⑧話 秋風の報せ・天正2年9月29日(1574年10月13日)

暑い夏が過ぎ、夕方には涼しい風が秋虫とともに流れ出した日のことだった。


守山城の小さな広間に、私たちは集まり、夕飯を終えたばかりだった。


膳が片付けられ、屋敷の中には静けさが満ちていた。


虫の音が遠く響き、時折どこかで吹く風が障子を揺らし、秋の訪れを感じさせた。


私は母上様とお初と共に寝る支度を始めていた。


灯籠の火がゆらめき、畳に淡い影を落とす。


その穏やかな夜に、突然、異変が訪れた。


「開門、開門されたし!」


小さな城に響き渡る使い番の声に、私は思わず顔を上げた。


その声は切迫しており、普段の穏やかな夜には似つかわしくなかった。


普段なら夜に使い番が訪れることはない。


ましてやこのような緊迫した声での報せは、ただごとではないと直感した。


私は布団を手に持ったまま、耳をそばだてた。


すぐに城門が開く音がした。


重い木の軋みが夜の静寂を切り裂き、慌ただしい足音が広間へ向かっていくのが聞こえた。


「ただならぬ様子。私も使い番が何を告げに来たか聞いてきます。さつき、茶々たちのこと頼みましたよ」


母上様は静かに立ち上がると、広間へと向かっていった。


その後ろ姿は、いつもより背筋が伸び、どこか硬く見えた。


戸の向こうへ消えていく彼女を見送りながら、私は不安を感じずにはいられなかった。


胸の奥で、何かがざわめき始めた。


「姉上様、どうしたんでしょうね?」


傍らでお初が不安げに私を見上げた。


まだ幼い彼女には、この夜の異変が何を意味するのかまでは分かっていないのだろう。


その純粋な瞳に、私は一瞬だけ心が和んだ。


だが、その不安を隠すように、私は努めて平静を装った。


「どうせ長島攻めの勝ち戦の伝令でしょう」


私の声は軽く、だがどこか強がりに聞こえた。


大叔父・織田孫十郎信次は、他の織田家一族とともに伊勢長島一向一揆攻めに加わっていた。


夏の間、度々届く使い番の報せは戦況を伝えるものばかりだった。


伯父・織田信長は大軍を率いて伊勢長島を包囲し、兵糧攻めを続けていた。


一向宗門徒たちの降伏は時間の問題だと、つい先日も報せがあったばかりだ。


勝ち戦の知らせが届くのは時間の問題——私はそう信じて疑わなかった。


だが、その確信は、母上様が戻ってきた瞬間に崩れ去った。


しばらくして広間から戻ってきた母上様の顔は、まるで血の気が引いたように真っ青だった。


その姿を見た瞬間、胸の奥が凍りつくような感覚に襲われた。


彼女の瞳は虚ろで、手は微かに震えていた。


いつも冷静で、どんな時も私たちを守る強さを見せる母上様が、こんな表情を浮かべることはなかった。


お初は待ちくたびれて布団に横になり、眠りに落ちていたが、私は眠い目をこすりながらも母上様の様子を見つめた。


「母上様、いかがなされました? 具合でも?」


私の声は掠れ、彼女に近づこうとした。


だが、母上様は一瞬私を見た後、静かに口を開いた。


「大叔父上様が討ち取られました」


その言葉が、耳を通して心の奥深くへと突き刺さった。


織田孫十郎信次が討ち取られた。


大叔父が、戦場で命を落とした。


それはすなわち、戦の流れがただの勝ち戦ではなかったということを意味していた。


私は一瞬、言葉を失った。


「えっ・・・・・・? では、ここから逃げるのですね?」


私の声は震え、混乱の中で母上様にすがるように尋ねた。


大叔父が死に、織田家の軍が敗れたなら、この城も危険に晒されるのではないか。


だが、母上様は首を振った。


「いや、それは大丈夫。ここは長島とは離れておりますから。しかしながら、明日からどうなるやら・・・・・・」


母上様はどこか遠くを見るような目をしていた。


その表情に、私はかつての小谷城落城の夜を思い出した。


あの時も母上様は、こんな目をしていた。


炎に包まれた城の中で、私とお初を抱きしめながら、遠くを見つめていた。


その瞳には、絶望と覚悟が混じり合っていた。


今、彼女の目に宿るのは、同じ覚悟だった。


「さつき、小太郎たちにこの城の者が謀反の動きを見せないか注意させなさい。どのくらいの損害が出ているかわかりません。もし織田家に甚大な被害が出ているなら、武田に内通し、我らを人質として差し出そうと考える者が出てくるやもしれません」


母上様の声音には、冷静ながらもわずかに揺らぐものがあった。


城を守るためには、この場にいる者たちの心の動きにも気を配らなければならない。


敗北が見えたとき、人は生き延びるために何をするかわからない。


私も幼いながら、そのことはよく理解していた。


小谷城が落ちた後、裏切りや逃亡がどれほど身近にあったかを、母上様の話から知っていた。


「はっ、すぐに」


私は襖を開けると、すぐに小太郎のもとへ向かった。


彼は城の警備を預かる者のひとりであり、母上様が最も信頼を寄せる人物だった。


廊下を進むと、彼が城門近くの詰所に立っているのが見えた。


灯籠の光が彼の顔を照らし、鋭い目がこちらを捉えた。


「小太郎、母上様よりの命です。この城の者たちに謀反の気配がないか、注意深く見張ってください。」

「承知いたしました」


小太郎は短く答えると、すぐに動き出した。


その背中を見送りながら、私は自分の手のひらが汗ばんでいるのを感じた。


彼の冷静な態度に安心しつつも、その背後に潜む緊張が私にも伝わってきた。


私は再び母上様のもとへ戻った。


部屋に入ると、母上様は静かに遠くを見つめていた。


その瞳には、深い疲れと、何かを決意したような光が宿っていた。


「姉上様・・・・・・?」


お初が騒ぎで目を覚まし、不安げに私の着物の袖を引いた。


その小さな手に、私は一瞬だけ心が和んだ。


私は母上様にお初が目覚めたことを小声で伝えた。


すると、遠くを見つめていた母上様はふと我に返り、優しく微笑んだ。


「大丈夫ですよ。さあ、もう夜も更けました。おやすみなさい」


その声は穏やかで、いつも通りの優しさがあった。


だが、その瞳にはどこか別の覚悟が宿っているように見えた。


私はお初の手を握り、布団に導いた。


彼女は再び眠りに落ち、静かな寝息を立て始めた。


だが、私は布団に入りながらも、眠れるはずがなかった。


母上様の言葉が頭を離れない。


大叔父上様の死が意味するもの。


それは、単なる敗北ではない。


織田家の力が揺らげば、それに追随する者も出てくるだろう。


城の中にも、裏切りの影が潜んでいるかもしれない。


私は目を閉じても、その不安が尽きることはなかった。


秋虫の音が、遠くで途切れなく響いていた。


その音が、まるで私の心のざわめきを増幅するようだった。


この夜、母上様同様、私も眠れぬまま朝を迎えることとなった。



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