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③⑥話 人殺し

部屋に戻ると、私は座らされた。


畳の上に膝をつき、障子から漏れる薄い光が私の影を長く伸ばしていた。


部屋は静かで、遠くから聞こえる修復の槌音だけが、かすかに響いていた。


その静寂の中で、私の手を見つめた。


そこには血が付いていた。


乾いてどす黒くなった血が、指の間や爪の隙間にこびりつき、まるで私の罪を刻み込んだかのようだった。


その血は、私が男を斬った証だった。


浅い傷だったはずなのに、その感触がまだ手に残っている。


剃刀を握った時の冷たさ、刃が肉に触れた瞬間の僅かな抵抗。


その記憶が、私の手を震わせた。


侍女のさつきが、静かに近づいてきた。


彼女は小さな桶に熱い湯を満たし、布を手に持っていた。


私の手をそっと取り、血を洗い流し始めた。


熱い湯が手に染み、指先に鋭い痛みが走った。


その痛みが、私を現実に戻した。


さつきの動きは丁寧で、だが無言だった。


彼女の瞳には、私を咎めるような色はなく、ただ穏やかな哀しみが宿っていた。


私はその視線に耐えきれず、目を伏せた。


血が溶け出した湯は、桶の中で赤黒く濁り、まるで私の心の混濁を映しているようだった。


そこへ、母上様が現れた。


彼女の足音が畳を踏むたび、私の胸が締め付けられた。


さつきが一礼して下がり、母上様が私の前に座った。


彼女は新しい布を取り、私の手を拭き始めた。


その手は冷たく、だが優しかった。


冷たい布が血の残りを拭い去るたび、私は母上様の温もりを求めるように、指を軽く握った。


「だから言ったのですよ。どのような者がいるかわからないからと」


母上様の声は静かだったが、その中には確かな怒りが滲んでいた。


その怒りは、私に向けられたものではなく、私を守れなかった自分自身への苛立ちのようにも聞こえた。


私はその声に押され、思わず俯いた。


「ごめんなさい」


幼い頃からそうだった。


母上様に叱られると、私は何も言えなくなる。


その瞳に見つめられると、心の奥底まで見透かされているような気がして、言葉が喉に詰まる。


「あなたは人一人殺したのですよ」


「えっ?」


思わず顔を上げた。


母上様の瞳が、私をじっと見つめていた。


その言葉が、頭の中で反響した。


「私、襲った男を軽く斬っただけなのに? えっ、あの傷で?」


私が剃刀で斬りつけたのは、男の腕の表面だけだった。


浅い傷。


血は滲んだが、深く斬る力など私にはなかった。


あれで人が死ぬとは到底思えない。


私の声は震え、母上様にすがるように見つめた。


彼女は静かに首を振った。


「違います。茶々が斬った傷は大したことはなかった。しかし——城で姫を襲ったとなれば、それは主への反逆。捕らえられた男は即刻打ち首となったのです」


私は息を呑んだ。


打ち首。


その言葉が、冷たい刃のように私の胸を貫いた。


頭の中で、男の顔が浮かんだ。


怒りに燃えた目、獣のような笑み。


そして、彼が私に振り上げた手。


その男が、今、首を落とされ、死んだというのか。


「そんな・・・・・・でも、あの男はもともと何か企んでいたのでは? 私を捕まえて武田に売ると言っていました」


私の声は掠れ、必死で弁解を重ねた。


あの男は悪人だった。


私を襲い、売り飛ばそうとした。


私が斬ったのは、自衛のためだ。


だが、母上様の表情は変わらなかった。


「それでも、あなたが城を出なければ、彼は今日、死を迎えることはなかったでしょう。あなたを襲い、傷つけ、無礼を働く。それは罪となる。罰があるのです」


母上様の言葉が、重くのしかかった。


私の軽率な行動が、人の命を奪った。


その事実に、胸が締め付けられた。


私は男を殺すつもりなどなかった。


ただ、逃げたかっただけだ。


だが、その結果、彼は死に、私は血に塗れた手を洗うことになった。


その理不尽さに、喉の奥から嗚咽がこみ上げそうになった。


「私たちはお預けの身ではありますが、織田家の者でもあるのですよ」


「織田家の者・・・・・・」


その言葉が、どうしても受け入れられなかった。


私にとって、織田家は敵だった。


父、浅井長政を殺し、小谷城を焼き払った織田信長。


その男の血が、私の中にも流れているという事実が、私を苛んだ。


浅井家こそが私のすべてだった。


織田家の血を引いていようとも、私は織田家の者ではない。


今でもその考えは変わっていない。


母上様はそんな私の内心を見透かしたように、静かに言った。


「納得できないでしょうが、私は紛れもなく織田信長の妹。裏切った浅井家に嫁ぎ、そして再び織田家に戻った。あなたも、織田家の者となったのです」


「いや・・・・・・っ!」


私は思わず声を上げた。


その言葉が、私の心を切り裂いた。


織田家の者?


そんなはずはない。


私は浅井茶々、父の娘だ。


信長の姪である前に、浅井長政の血を継ぐ者だ。


だが、母上様は私の叫びを静かに受け止め、続けた。


「茶々——とにかく、あなたの軽率な行動が人を死に追いやるということを理解しなさい」


母上様はそれだけ言うと、そっと私の手を離した。


その冷たい手が離れる瞬間、私は一抹の寂しさを感じた。


彼女の瞳には、怒りと悲しみが混じり合い、私を見つめていた。


その視線に、私は何も言えなかった。


侍女のさつきが、着替えを用意して待っていた。


血と土埃にまみれた着物を脱がされ、新しい衣に袖を通す。


その間、私はぼんやりと考えていた。


あの男は、私がいなければ死ななかったのか?


いや、私がいたからこそ、私を狙ったのではないか?


理屈は分かっている。


彼が私を襲ったのは、私がそこにいたからだ。


だが、私が城を出なければ、彼は生きていた。


その二つの事実が、私の頭の中で絡まり合い、解けない結び目となった。


私は血を流した。


だが、その血が別の命を奪った。


その重さに、胸が締め付けられた。


着替え終わると、さつきがそっと囁いた。


「姫様。どこかへ行かれるときは、必ず小太郎をお連れください」


「小太郎?」


「お市の方様の命で、小太郎が茶々様付きとなりました」


「そう、小太郎が私の家臣に・・・・・・」


それはつまり——。


さつきは、さらに言葉を続けた。


「先ほど、お市様が仰った『軽率な行動で人は死ぬ』ということですが、小太郎は茶々様の家臣となった以上、もし茶々様に何かあれば、責を負って腹を斬らねばなりません。それを知っておいてください」


「そっ・・・・・・そう。そうなるのね」


その言葉に、私は息を呑んだ。


母上様が私の脱走癖を止めさせるために、足枷をつけたのだ。


私が一人で好き勝手に動けば、小太郎が責められる。


場合によっては切腹となる。


その責任が、私の肩にのしかかった。


私は小さくため息をついた。


「はぁ・・・・・・こんな狭い城に、私はいつまで閉じ込められるのだろう・・・・・・」



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