③④話 嵐
春の嵐が守山城を襲った夜、私は眠れなかった。
風が屋根を叩き、雨が石垣を洗う音が、城内に不気味な響きを立てていた。
翌朝、嵐が去った後、城の外壁が損傷していることがわかった。
濡れた土が崩れ、石がいくつか転がり落ち、城の東側に小さな穴が開いていた。
留守居役はすぐに職人たちを手配した。
守山の町から集められた男たちが、数日後、城にやってきた。
「茶々、お初、城に知らない男たちが出入りする。壁の修復のためだ。今は城を守る者が少ない。だから、おとなしく部屋にいるのだよ」
母上様の声は穏やかだが、どこか緊張を帯びていた。
大叔父・織田孫十郎信次が出陣し、城の守備兵が減っている今、彼女の心配は当然だった。
お初は素直に頷き、母上様の膝に寄り添った。
だが、私は違う。
知らない男たちが城に入るという事実に、心がざわついた。
危険かもしれない。
だが、その危険を見極めたいという衝動が、私を突き動かした。
母上様の言いつけを守るつもりはなかった。
私は自分の身を自分で守ればいい。
部屋に戻ると、私は母上様の化粧箱に近づいた。
木箱の蓋を開け、鏡や櫛の間を探る。
そこに、小さな剃刀があった。
刃は短く、柄は木でできている。
母上様が髪を整えるのに使うものだが、私には武器になる。
私はそれを懐に忍ばせ、侍女のさつきが茶を運びに出た隙をついて、修復現場へ向かった。
廊下を抜け、裏庭の隅から外を覗く。
風がまだ強く、土埃が舞っていた。
修復現場に着くと、泥まみれの職人たちが働いていた。
彼らは上半身を裸にし、汗と泥に塗れた姿で石を運び、土を固めていた。
その動きは乱暴で、時折笑い声や怒鳴り声が飛び交う。
私は木陰に隠れ、彼らを観察した。
だが、私の存在など気にも留めない様子に、拍子抜けした。
誰も私を見ていない。
危険どころか、ただの退屈な労働の場に思えた。
私は小さくため息をつき、踵を返そうとした。
その時、彼らが昼休みに入った。
職人たちは道具を置き、木の下に集まって弁当を広げ始めた。
「そろそろ戻ろう」
私がそう呟いた瞬間、背後から強い力が私を襲った。
口を塞がれ、抱え上げられた。
突然のことに、私は目を丸くした。
抵抗しようともがくが、相手の腕は鉄のように硬く、声も出せない。
息が詰まり、頭がくらっとした。
だが、次の瞬間、懐に忍ばせた剃刀を思い出した。
必死で手を伸ばし、小さな刃を探り当てる。
そして、渾身の力で相手の横腹を切りつけた。
「痛っ、ちきしょう!」
男が悲鳴を上げ、私を地面に放り出した。
硬い土に叩きつけられ、息が詰まった。
全身に鋭い痛みが走り、膝が震えた。
振り返ると、男が傷を押さえながら立ち上がっていた。
その目は怒りに燃え、私を睨みつけていた。
顔は泥で汚れ、髪は乱れていたが、職人たちの粗野な姿とはどこか違う。
その目には、獣のような光があった。
「せっかく高く売れそうな娘を見つけたと思ったのによ・・・・・・。お仕置きしてから武田に売り飛ばしてやる」
その言葉に、私の体が凍りついた。
武田。
織田家の敵、武田勝頼の名が頭をよぎった。
恐怖が全身を包み、心臓が激しく鼓動した。
逃げなければ。
だが、落とされた衝撃で足をくじいていた。
痛みが鋭く、立ち上がろうとしても膝が崩れる。
「足が痛い、走れない」
私は必死で後ずさった。
男がにやりと笑い、ゆっくりと近づいてくる。
その足音が、土を踏むたびに重く響いた。
逃げようと手を伸ばすが、足が言うことを聞かない。
男の手が私の肩を掴んだ。
「おとなしくしろよ!」
その声に、私は全身が硬直した。
最後の抵抗として、剃刀を振り回した。
だが、男は持っていた手ぬぐいで刃を弾き飛ばした。
剃刀が地面に落ち、乾いた音を立てた。
「手ひどくやられた礼をしてやる!」
男の手が振り上げられた。
その影が私の顔を覆い、恐怖で息が止まった。
「ひっ・・・・・・」
声にならない悲鳴を上げ、私は目をぎゅっと閉じた。
強く鼓動する心臓の音だけが耳に響く。
——助けて。
その言葉が頭をよぎったが、叫ぶことすらできなかった。
ただ怯え、震えることしかできなかった。
男の手が振り下ろされる、その瞬間——




