③③話 浅井長政の首
大叔父・織田孫十郎信次が出陣すると、守山城の門は固く閉ざされた。
その音は、重い鉄の軋みとともに私の耳に響き、胸に冷たい重しを落とした。
城の周囲は織田家の領地であり、留守の間に攻められる可能性は低いとされていた。
それゆえに、城を守る兵の数は少なく、出入りも厳しく制限された。
戦火の気配が遠のいた静かな城内で、私は妹の初と共に日々を過ごしていた。
窓の外では、春の風が木々を揺らし、かすかな葉擦れの音が聞こえるだけ。
だが、その静けさが、かえって私の心を締め付けた。
「姉上様、手習いの稽古をいたしましょう」
お初の声が、部屋の静寂を破った。
彼女は小さな手を伸ばし、筆を手に持つ。
その無垢な笑顔に、私は一瞬だけ心が和んだ。
「そうね、何もすることがないし」
私たちは畳に座り、筆を取り、和歌を詠み、文字を綴った。
墨の香りが鼻をくすぐり、紙に筆が触れるかすかな音が耳に心地よい。
これが私たちの日常だった。
お初の字はまだ拙く、時折墨が滲んでしまうが、それでも彼女は楽しそうに笑った。
私はその笑顔を見ながら、ふと、この小さな世界に閉じこもる日々が永遠に続くのかと考える。
手習いの後、私たちはままごと遊びに興じた。
だが、それは単なる遊びではなかった。
侍女のさつきがそばに立ち、私たちに礼儀作法を教え込む時間でもあった。
木の椀に茶を模した水を注ぎ、給仕の心得を身につける。
やがて嫁ぐ身として、これが私に必要なのだと、さつきは言う。
「姫様は武家の娘。礼儀を疎かにしてはなりません」
その言葉に、私は小さく頷いたが、心の奥では反発が芽生えていた。
嫁ぐ?
誰に?
織田家の誰かにでも差し出される日が来るのか?
その考えが、私の胸を冷たく刺した。
城の中は穏やかな時が流れていた。
妹のお江は、ようやくつかまり立ちを覚え、ふらふらとした足取りで歩き始めた。
小さな手で柱にしがみつき、よろめきながらも笑うその姿を、母上様は優しく見守っていた。
彼女の瞳には、深い愛情が宿っていた。
私はその光景を眺めながら、ふと呟いた。
「意外と、この落ち着いた生活が幸せなのでは?」
その思いが胸をよぎった瞬間、私は自分に驚いた。
こんな小さな城で、織田家の庇護の下で生きることが幸せだなんて。
だが、次の瞬間、その考えを打ち消すように、別の感情が湧き上がった。
父上様のいない生活は、やはり寂しい。
浅井長政が生きていた頃の記憶が、遠い夢のように私の心を締め付けた。
——父上様の御遺骸はどうなったのだろう?
突然、その疑問が頭をよぎった。
これまで考えないようにしてきたが、お江の無垢な笑顔を見ていると、父の不在が一層鮮明に感じられた。
私は意を決し、母上様に尋ねた。
「母上様、父上様たちはどこに葬られたのです? 墓参りをしたいのですが」
母上様の表情が翳った。
いつも穏やかで、強い意志を秘めた彼女の顔が、一瞬にして暗く沈んだ。
その変化に、私は息を呑んだ。
「近江の小谷近くの寺に御遺体は葬られたと聞いております。しかし・・・・・・首は、首実検のあと、どうなったのか・・・・・・私は知りません」
母上様の声がかすかに震えていた。
普段は冷静な彼女が、これほど動揺するのを私は初めて見た。
その震えに、何かを隠している——その直感が胸に広がった。
彼女の瞳が一瞬逸れ、私から視線を外した。
それは、母上様が真実を語れない何かを抱えている証だった。
討ち取られた武将であろうと、首実検の後は手厚く葬るのが慣例だと聞いている。
だが、父上様たちは裏切り者とされ、特別な扱いを受けたのだろうか?
晒し首にでもなったのか?
それとも、元家臣たちがその首を奪い去り、行方知れずとなったのか?
私は勝手に想像を膨らませたが、それ以上問う勇気が出なかった。
母上様の震える声が、私の心を締め付け、言葉を封じた。
「茶々、いずれ長政様の菩提寺を建てます。それまでは近江の方を向いて手を合わせなさい。父上様はきっと、あなたの祈りを受け取るでしょう」
母上様の言葉は優しかったが、その裏に隠された悲しみが、私の胸を刺した。
「母上様・・・・・・」
私は目を閉じ、心の中で父上様に手を合わせた。
近江の空を思い浮かべ、小谷城の記憶を呼び起こす。
だが、その祈りの先に、父の笑顔は見えなかった。
代わりに、燃え盛る炎と、信長の冷たい笑みが浮かんだ。
数日後のことだった。
城の裏庭で、お初と花を摘んでいた時、侍女たちの噂話が耳に入った。
彼女たちは井戸のそばで水を汲みながら、小声で何かを囁き合っていた。
私はお初の手を離し、そっと近づいた。
その内容は、あまりにも衝撃的だった。
「聞いた? 織田信長公は、浅井長政様、浅井久政様、そして朝倉義景様の髑髏を金箔で装飾し、それを盃にしたらしいですよ」
「え? 盃に?」
「そうだ。それで、天正二年(1574年)の正月の宴に、大名や家臣たちの前でその盃を披露し、酒を振る舞ったのだとか・・・・・・」
私は凍りついた。
足が地面に縫い付けられたように動かず、耳に届いた言葉が頭の中で反響した。
髑髏を盃に?
父上様の首が、そんな辱めを受けたというのか?
まさか——そんなことがあるのだろうか?
信じられない。
いや、信じたくない。
作り話だ。
ただの噂話、誇張された戯言に違いない。
私はそう自分に言い聞かせた。
だが、心の奥で別の声が囁いた。
織田信長ならやりかねない。
あの男は、第六天魔王と呼ばれるほどの冷酷さを持つ。
裏切った者を許さず、その存在を徹底的に踏みにじる。
父上様が、祖父上が、朝倉義景が、そんな仕打ちを受けたとしても、不思議ではない。
。
怒りがこみ上げた。
全身が震え、喉の奥から嗚咽が漏れそうになった。
いくら裏切ったとはいえ、討たれた者たちがそのような辱めを受けることが許されるのか?
父上様の首が、金箔で飾られ、信長の手で盃として使われた。
その光景を想像するだけで、胃が締め付けられ、吐き気がした。
私は震える手を胸に当て、目を閉じた。
母上様に真意を確かめたかった。
あの震える声の裏に、この噂を知っていたのではないかと疑った。
だが、彼女に問えば、さらに悲しませることになる。
母上様は信長の妹だ。
その兄が、夫の首を盃にしたという事実を、彼女が知っていたらどうなる?
その苦しみを思うと、私は口に出せなかった。
私はただ、天を仰いだ。
守山の空は灰色で、重たい雲が垂れ込めていた。
その雲の下で、私は父上様に呼びかけた。
「父上様——あなたは、何を思われましたか・・・・・・?」
だが、答えは返ってこなかった。
風が冷たく頬を撫で、遠くで鳥が鳴くだけだった。
私の胸には、信長への憎しみが、さらに深く根を張った。
いつか、この手で報いを果たす。
その決意が、静かに、だが確実に燃え続けていた。




