③②話 母の怒り
城に戻った瞬間、私は凍りついた。
裏門を抜け、薄暗い廊下に足を踏み入れたその時、母上様が立っていた。
夕陽が差し込む窓から漏れる赤い光が、彼女の白い顔を不気味に照らしていた。
その瞳は鋭く、私を射抜くように見つめていた。
そして、次の瞬間、彼女の白い手が私の頬を強く打った。
乾いた音が廊下に響き渡った。
頬に熱い痛みが走り、目に涙が浮かんだ。
私は唇を噛み、母上様を見上げた。
その顔には怒りと、深い悲しみが混じっていた。
「城の外に出るなと申したではありませんか」
母上様の声は低く、震えていた。
いつも穏やかな彼女が、こんなにも感情を露わにするのは珍しかった。
私は痛みを堪え、言葉を絞り出した。
「申し訳ありません、母上様・・・・・・。言いつけを破ってしまいました。しかしながら、城に閉じこもった生活は窮屈で仕方ありません。このような小さき城に・・・・・・」
私の声は途中で掠れた。
この守山城の狭さ、手習いと生け花に縛られた日々。
それがどれほど私を苛立たせ、息苦しくさせていたか。
母上様にそれをわかってほしいと願った。
だが、彼女の答えは冷たく、重かった。
「それが負けた武士の家族の定め。他家に預けられ、細々と暮らすのは仕方のないこと。受け入れなさい」
「嫌にございます!」
私は思わず叫んだ。
負けた家の定め。
その言葉が、私の胸を鋭く抉った。
浅井長政の娘として生まれ、かつては近江の誇り高き姫だった私が、こんな小さな城で幽閉されるように生きるなんて。
受け入れることなどできるはずがない。
「茶々、今は城の外は危険なのです。わかりなさい」
母上様の声が柔らかくなった。
その瞳には、私を案じる光が宿っていた。
「一向宗門徒・・・・・・と織田家の戦のため?」
私は宇津呂の告白を思い出しながら、慎重に尋ねた。
彼が「織田家に一矢報いるため、長島の一向宗徒に手を貸している」と語ったことが頭をよぎった。
母上様は静かに頷いた。
「そうです。それが落ち着いたら、兄上様にお願いして、もう少し広いところで暮らせるよう頼みますから・・・・・・。お願いだから、母に心配をかけないで」
彼女は私を強く抱きしめた。
その腕は細く、だが力強く、私を包み込んだ。
母上様の温もりがあまりに優しく、私はそれ以上口答えすることができなかった。
彼女の胸に顔を埋め、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
だが、胸の内にはどうしようもない悔しさが渦巻いていた。
負けた家の姫として生きることの無念さ。
この城に幽閉されたも同然の日々。
何より、かつて誇り高き浅井の姫として生きた日々が、夢のように遠のいていくことに耐えられなかった。
父が生きていた頃、小谷城で笑い合った記憶は、もう私の手には届かない。
そして、その全てを奪ったのは織田信長だ。
母上様の腕の中で、私は唇を噛み、静かにその名を呪った。
「茶々、あなた・・・・・・焼き味噌の匂いがいたしますね? 城の外で食べたのですか? 銭は? まさか盗んで・・・・・・?」
母上様が私を離し、鼻を軽く動かして言った。
その声には、驚きと疑いが混じっていた。
私は慌てて首を振った。
「母上様、それは断じて違います! とある僧侶が、大叔父様の家来と揉めていたので助けに入ったのです。そしたら、その僧が礼にと、ご馳走してくださいました」
「そう・・・・・・。それなら・・・・・・。盗人などと疑った母を許してください。それより、その僧は?」
母上様の目が鋭くなった。
私は一瞬、言葉に詰まった。
宇津呂のことをどこまで話すべきか。
彼が浅井家の家臣の家系だと名乗り、織田家に一矢報いたいと志していることを明かすべきか。
だが、それはあまりに危険だ。
母上様が信長の妹であることを思えば、彼女にそんな話をすれば、私たちの立場がさらに危うくなるかもしれない。
私は曖昧に答えた。
「さあ・・・・・・どこぞへと消えましたが」
母上様は私の顔をじっと見つめた。
その視線に、私は息を呑んだ。
彼女が何かを感じ取ったのではないかと、一瞬恐怖が走った。
だが、母上様はそれ以上追及せず、ただ小さくため息をついた。
「おお、茶々は無事だったか。城を抜け出すなど、御館様・・・・・・信長殿の気性に似ている姫よ。あまりおてんばが過ぎると、嫁のもらい手がなくなるぞ」
その声に、私は振り返った。
城の廊下を進んできたのは、織田孫十郎信次だった。
母上様の叔父であり、今や私たちの保護者でもある男。
彼は背が高く、顔には戦の傷が刻まれていた。
織田家の中ではさほど地位が高いわけではないが、それでも私たちの命運を握る者の一人だ。
その口から「信長」という名が出た瞬間、私の胸が締め付けられた。
「それより、お市。我はこれより一向宗攻めに出陣する。城の守備兵は少ない。姫たちが勝手な振る舞いをしないよう注意してくれ。姫たちになにかあったら、御館様は我を責めるどころか、首を取るやもしれぬからな」
信次の声は重く、どこか疲れていた。
彼の背には、織田家の重圧がのしかかっているように見えた。
「はい、叔父上様。大人しく城内にとどまるよう、躾けを疎かにいたしませぬ」
母上様が静かに答えた。
その言葉に、私は唇を噛んだ。
またしても、私の自由は奪われる。
「うむ、それでいい。ではな」
信次はそう言い残し、重々しい足取りで城門の方へと向かった。
その背中が遠ざかるのを見ながら、私は拳を握りしめた。
彼が一向宗攻めに出るということは、宇津呂が言っていた長島への戦が始まるということだ。
私の知る僧侶が、その戦の渦中にいるかもしれない。
「・・・・・・また、戦が始まるのですね」
私が呟くと、母上様は小さく頷いた。
彼女の顔には、深い疲れが刻まれていた。
戦が続く限り、私たちに安寧の時は訪れない。
いつか織田家が滅びれば、私たちは自由になれるのだろうか?
そんな夢のような考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
叶わぬ夢だ。
信長の力はあまりにも強く、私たち浅井の残党には抗う術がない。
けれども、私は浅井長政の娘だ。
いつまでも織田家の庇護の下で、ただ従順に生きるつもりはない。
この小さな城から出る日を、私は待っている。
そして、いつか織田家に報いる時を。
宇津呂の言葉が、胸の奥で静かに響いていた。
「織田家に一矢報いる」
彼がその志を果たすなら、私もまた、その道を歩むかもしれない。
母上様の温もりを背に、私は目を閉じ、復讐の炎を心に灯し続けた。




