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③⓪話 僧侶・宇津呂

守山の町は狭い。


一時も歩けば端から端まで見えてしまうほどだ。


それでも、歩いているうちに腹が減ってきた。


冷たい春の風が頬を撫で、足元の土埃が舞う中、どこからか漂ってくる香ばしい匂いに、私は思わず立ち止まった。


目を凝らすと、通りのはずれに小さな店があった。


粗末な屋根の下で、店人が米を潰した団子に味噌を塗り、炭火の上でじりじりと焼いている。


煙が細く立ち上り、風に運ばれて私の鼻をくすぐった。


その匂いは、城の膳で出される上品な料理とはまるで違う、野性的で素朴なものだった。


私の足は自然とそちらへ向かってしまった。


店先に立つ。


串に刺さった団子が、赤々と燃える炭火の上で少しずつ焦げ目を帯びていく。


味噌が熱で溶け、滴り落ちるたびに小さな火花が散った。


店人の手は慣れた動きで団子をひっくり返し、時折、汗を拭うために袖を顔に押し当てていた。


私はただ見つめるだけだった。


手が動かない。


いや、動かせない。


銭を持ってきていないのだ。


銭。


その言葉が頭に浮かんだ瞬間、私は自分の無知に呆れた。


城で閉じこもった生活の中で、欲しいと思ったものは全て、母上様に言えば誰かが買ってきてくれた。


それが当たり前だった。


侍女が持ってくる菓子や、岐阜から届けられる反物。


私はただ受け取るだけで、その裏にある銭のやり取りなど考えたこともなかった。


けれど今、町に出て初めて気づかされる。


人として生きていくのに、こんな基本的な常識すら知らない自分に。


浅井の姫だというのに、こんな簡単なこともできないのか。


胸の奥に、苛立ちと恥ずかしさが混じった熱いものがこみ上げた。


「なんだい、べべは良いの来ているのに銭なしかい? 親から銭貰って出直してきな」


店人のぶっきらぼうな声が耳に突き刺さった。


彼は団子を焼く手を止め、私を一瞥すると、さも面倒くさそうに手を振った。


追い払われたのだ。


確かに、銭を持たずに来た私が悪い。


怒るわけにもいかず、私は後ずさりをした。


その瞬間、後ろに立っていた誰かにぶつかった。


振り返ると、そこにいたのは先ほどの僧侶だった。


彼は笠を少し傾け、皺だらけの顔を覗かせていた。


その目が私を捉え、穏やかな笑みが広がった。


風に揺れる僧衣が、埃っぽい通りの中で妙に清潔に見えた。


「姫子、先ほど武将に何を言ったんだい? 私を追うより慌てて屋敷に帰っていたぞ、あの者共は。おかげで命拾いした。ん? 腹が減っているのか? 節操が味噌団子を買ってやろう」


僧侶の声は軽やかで、どこか親しみを感じさせた。


だが、私は即座に首を振った。


武士の娘としての誇りが、知らぬ者からの施しを拒んだ。


「遠慮いたします。これでも武士の娘、知らぬ者から物を貰うなどありえません」


そう言い切った瞬間、腹の虫がぐぅ~と鳴ってしまった。


顔が一気に熱くなり、恥ずかしさで目を伏せた。


僧侶はくすりと笑い、杖を地面に軽く突いた。


「おう、そうかそうか。私の名は宇津呂と言う。先ほど助けてくれた礼をいたしたい。いや、礼をさせてください、姫子」


「名乗り・・・・・・それに礼・・・・・・」


私は一瞬言葉を止めた。


「そうです。礼です」


名を明かしたことで、彼はもはや「知らぬ者」ではない。


そして、礼をしたいという気持ちは、私が武士の娘として理解できるものだった。


腹の鳴る音がまだ耳に残り、味噌の匂いが鼻を離れない。


私は少し迷った後、意を決した。


「なら、買わせてあげます。私はあれを一つ所望する」


「はい、姫子、是非とも」


宇津呂は笑顔で頷き、私を店先の粗末な椅子に座らせた。


その椅子は木が剥がれ、座面にひびが入っていたが、不思議と落ち着けた。


彼は店人に声をかけ、串刺しの味噌団子を二本買い、一本を私に差し出した。


私はそれを受け取り、隣に座った宇津呂が


「ふぅ~ふぅ~」


と団子を冷ましながら食べ始めるのを横目で見た。


「お~、これは美味い。姫子も遠慮せずに」


「いただかせていただきます」


私は彼を真似て団子を軽く冷まし、一口かじった。


熱々の団子に濃厚な味噌の味が広がり、素朴ながらも深い旨味が舌を包んだ。


米の甘さと味噌の塩気が混ざり合い、熱が口の中でじんわりと広がる。


こんな美味いものを、城では味わったことがなかった。


岐阜の菓子は確かに上品だが、この団子の粗野な力強さは、私の心を掴んで離さなかった。


しばらく黙って食べていると、宇津呂が口を開いた。


「姫子はどこかの御家中の娘か?」


私は黙ってこくりと頷いた。


団子を噛む音だけが、二人を包む静寂の中で響いた。


「名を聞かせては下さらぬか?」


私は口の中の団子を飲み込んでから、静かに答えた。


その瞬間、心臓が少し速く打ち始めた。


名乗るべきか迷ったが、すでにここまで来てしまった。


「茶々と申す。浅井茶々じゃ」


「なっ! なんと、もしやお市の方様の姫君!」


宇津呂の声が一瞬高くなり、私はしまったと思った。


名乗るべきではなかったか?


町の通りで、こんな場所で、浅井の名を明かすのは危険すぎる。


母上様の警告が頭をよぎった。


「あなたたちをさらって伊勢の長島に幽閉するかもしれません」


だが、名乗ってしまった以上、嘘をつくのは卑怯だ。


私は目を細め、彼の反応を見た。


宇津呂は驚きの後、目を潤ませた。


そして、味噌団子を皿に置き、地面に片膝をつき、深々と頭を下げた。


笠が地面に触れ、彼の顔は見えなかった。


だが、地面にぽたりと雫が落ち、土が濡れた。


彼が泣いているのだと気づいた瞬間、私の胸に複雑な感情が渦巻いた。


「そうじゃ、父は浅井長政、母はお市。浅井の娘だからと哀れられる覚えなどない」


私の声は少し尖っていた。


哀れまれるのは嫌だった。


浅井の名は、私にとって誇りであり、同時に呪いでもある。


信長に滅ぼされた家の娘として、誰かに同情されるのは我慢ならなかった。


「哀れむなどとんでもございません。お許し下さい。この宇津呂、もとは浅井家家臣の家系。父に私は武士にはむかんと寺預けとされ坊主になりましたが、代々浅井家を主家として育った身にて、姫様の顔を拝めたこと嬉しくてつい涙が」


その言葉に、私は息を呑んだ。


浅井の家臣。


父上が生きていた頃、数え切れないほどの忠義者が近江の地を守っていた。


だが、小谷城が落ち、父上が信長に討たれたあの日、全てが灰と化した。


それでも、こんな小さな町で、浅井を慕う者がまだ生きているなんて。


私の心に、温かいものと冷たいものが同時に流れ込んだ。


温かさは、宇津呂の忠義に対する感謝。


冷たさは、信長への憎しみが再び燃え上がったからだ。


「そうであったか。宇津呂とやら、浅井を懐かしむ心、有り難く思うぞ」


私の声は少し柔らかくなっていた。


宇津呂の涙が、私の尖った心を和らげたのかもしれない。


「その御言葉、うれしく思います」


私は隣に戻るよう促した。


宇津呂は懐からこ汚い布を取り出し、顔をゴシゴシと拭いて椅子に戻った。


その仕草に、私はふと笑みをこらえた。


彼の粗野な動きが、味噌団子の素朴さと重なって、妙に愛おしく感じられた。


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