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②⑨話 脱走

数日後の朝、私は決意した。


母上様や近習の隙を突いて、城の外に出る。


止められていた外出。


けれど、この城の中での生活があまりにも窮屈で、息が詰まるようだった。


手習いと生け花の日々は、私の心を縛る鎖にしか思えなかった。


私は自由が欲しかった。


そして、何より、信長の支配するこの世界の外を、自分の目で見てみたかった。


裏門のそばで近習が目を離した瞬間、私は素早く動き出した。


小さな木戸を抜け、石垣の陰を進む。


足音を殺し、息を潜めて城の外へ出た瞬間、冷たい春の風が頬を撫でた。


初めて味わう解放感に、胸が震えた。


だが、同時に、母上様の言葉が頭をよぎる。


「戦が近いのですから、城の外に出ようなどとは以ての外」


その警告を無視した罪悪感が、ほんの少しだけ心を刺した。


守山城の外の町は、確かに小さかった。


一時も歩けば一周できてしまうほどだ。


通りには賑わいなどなく、菜っ葉や干した魚を売る下々の者たちが、ぼんやりと並んでいるだけ。


岐阜のような華やかさはなく、物珍しさもない。


私は少し失望しながら、城に戻ろうと踵を返した。


その時、一人の僧侶が目にとまった。


僧侶は道の片隅に立ち、笠をかぶり、杖を手にしていた。


口からは呪文のような言葉が繰り返し漏れている。


「なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ・・・・・・何枚だ?」


私は一瞬、何を数えているのかと首を傾げた。


近づいて耳を澄ますと、それは「南無阿弥陀仏」という念仏だった。


後に知ることだが、これは『托鉢』という行為だという。


僧侶が民から施しを受け、祈りを捧げるものらしい。


私は興味を引かれ、しばらくその僧侶を見つめた。


彼は私の視線に気づいたのか、動きを止め、膝を地面につけた。


そして、笠をずらして顔を見せた。


年の頃は五十を過ぎているだろうか。


皺だらけの顔に、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「どこぞの姫子かの? 恐いものを見せてしまったのぉ、申し訳ない」


その言葉が終わる前に、背後で怒声が響いた。


「織田家の領地で一向宗が托鉢とは、度胸があるのか馬鹿なのか、斬って捨ててやる!」


振り返ると、一人の武士が太刀を抜いて僧侶に斬りかかっていた。


その姿から、大叔父・織田孫十郎の家来だろうと推測できた。


私は息を呑んだ。


だが、次の瞬間、僧侶は杖を素早く構え、太刀を受け止めた。


金属音が響き、太刀が弾き飛ばされる。


「僧侶風情がこしゃくな!」


武士は怒りに顔を歪め、腰刀を抜いて再び斬りかかった。


だが、僧侶は冷静に杖を振り、武士の左肩を突いた。


武士は呻き声を上げ、後ろに転がった。


「おのれ、こしゃくな!」


騒ぎを聞きつけた町人たちが集まり始めた。


彼らは僧侶に向けて拍手喝采を送り、武士には罵倒を浴びせた。


中には石を投げつける者まで現れ、武士は慌てて太刀を拾い、逃げるように走り去った。


僧侶は静かに手を挙げ、群衆を制した。


「皆の者、やめよ。かの者にも事情があってした行為。阿弥陀如来様はきっと許して下さる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


その穏やかな声に、私は目を丸くして見つめていた。


僧侶はそれに気づき、私に軽く会釈した。


「おっと、これはいかん。またどこかでな」


その時、遠くから足音が聞こえた。


先ほど逃げた武士が仲間を連れ、槍を手に走ってくるのが見えた。


僧侶は素早く群衆の陰に身を隠し、路地へと消えていった。


「おい、娘、貴様はあの僧侶を知っているのか?」


武士の一人が私に近づき、鋭い声で問うた。


私は首を振った。


だが、彼らは疑いの目を向けた。


「この娘、あの坊主の仲間やもしれぬぞ」


「一向宗門徒か?」


「捕まえておびき出すのに使うか?」


一人が手を伸ばしてきた。


私は反射的にそれを払い、身を引いた。


「小娘のくせにこしゃくな!」


「小娘ではない。我が名は浅井茶々じゃ」


「浅井?」


「おい、それが本当だとまずいぞ、殿がお預かりになっている姫だ」


「あっ」


「怪しいがほっておこう」


「うむ、仕方あるまい」


私の名を聞いた途端、彼らの顔色が変わった。


青ざめた顔で互いに目配せし、これ以上関わらないようにと、僧侶を追う名目で散っていった。


その滑稽な姿に、私は思わず笑いをこらえた。


だが、心の奥では別の感情が渦巻いていた。


浅井の名が、こんな小さな町でもまだ重みを持つことに驚きつつ、それが信長の手下たちの恐怖を引き起こすことに、ほのかな満足を感じていた。



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