②話 囚われの身
寺に匿われて三日が過ぎた。
薄暗い寺の一室に差し込む朝の光は埃が舞う中で細く揺れ、畳の冷たい感触が私の足に染みていた。
藤掛永勝という男は確かに私たちに危害を加えることはなく、家臣たちにも厳しく静観を命じていた。
母上様・お市の方、妹たち、そして一緒に逃げてきた侍女たちは、この狭い部屋でひっそりと過ごしていた。
広さは決して十分ではなかった。
壁には古びた仏画が掛けられ、線香の薄い煙が漂う中、木の軋む音が時折響く。
寝食に困ることはなかったが、粗末な粥と干した魚が配られるたび、かつての小谷城での豊かな食卓が遠い夢のように思えた。
私は木の椀を手に持つが、その味はほとんど感じられず、ただ空腹を満たすためだけに口に運んだ。
それでも、身の安全が守られていることに安堵するしかなかった。
窓の隙間から外を見ると、寺の庭には枯れた草が風に揺れ、遠くで鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。
だが、その静けさは不自然で、まるで戦の残響が空気に染みついているかのようだった。
私は目を細め、庭の隅に立つ小さな石仏を見つめた。
その表面は苔に覆われ、長い年月を耐えたように静かに佇んでいる。
私はその姿に、なぜか父上様の背中を重ねてしまった。
あの最後の瞬間、刀を手に部屋を出た父上様の姿が、頭から離れない。
硝煙の臭いと炎の熱が記憶に焼き付き、目を閉じるたびに蘇る。
母上様はすでに何かを悟っているのか、本堂で住職が読経をすると、後ろに座って静かに手を合わせていた。
その横顔には諦観とも覚悟ともつかぬ静謐な表情が浮かんでいる。
薄い着物の裾が畳に広がり、長い髪がわずかに揺れる姿は、まるで絵画の仏様のように美しかった。
私はその姿を寄り添うお初と共に見ていた。
幼い妹は、私の袖をぎゅっと握りしめている。
その手の震えが小さな胸の内に渦巻く不安を如実に伝えてきた。
私はお初の手を握り返し、冷たい指先に自分の温もりを分け与えようとした。
お江は侍女の腕に抱かれ、幸いなことに今はすやすやと眠っている。
その小さな寝息が部屋の静寂にわずかな安らぎをもたらしていた。
私はお江の小さな顔を見ながら、彼女がまだ何も知らないことにほのかな羨ましさを感じた。
「姉様、城に帰りたい。父上様に会いたい」
お初が震える声で訴えた。
その言葉に、私の喉が詰まる。
目の前にお初の大きな瞳が揺れ、そこに映る涙が私の心を刺した。
私は目を伏せ、畳の模様を見つめながら、どう答えたらいいのか分からなかった。
「お初、もう城には帰れないのですよ」
私の声は小さく、まるで自分に言い聞かせるようだった。
お初の顔がくしゃっと歪み、涙が頬を伝う。
私はその涙を見ながら、胸が締め付けられるように痛んだ。
「どうして? 父上様にも、兄上様にも、お祖父様にも会えないの?」
お初の問いに、私は言葉を失った。
答えられない。
だが、真実を隠し通すこともできない。
私は唇を噛み、震える声で呟いた。
「お祖父様と父上様は・・・・・・もう・・・・・・」
それ以上は言えなかった。
兄上様もきっと・・・・・・。
頭の中で、小谷城が燃える赤い炎がちらつき、遠くで響いた火縄銃の乾いた音が耳に蘇る。
硝煙の臭いが鼻をつき、父上様の背中が炎の中に消えていく。
私は目を閉じ、その記憶を振り払おうとしたが、涙が溢れて止まらない。
「なんで? なんで? どうして?」
お初が叫ぶように泣き出す。
その声が部屋に響くと、私の胸にも抑えていた悲しみが押し寄せてきた。
涙が頬を伝い、私はお初の小さな肩を抱き寄せた。
「お初、私だって会いたい……」
言いながら、涙が止まらなかった。
負けたのだ。もうすべては終わったのだ。
小谷城は灰となり、父上様の背中は永遠に遠ざかった。
あの温かい手も、優しい声も、もう二度と戻らない。
私はお初を抱きしめながら、自分の震えを抑えきれなかった。
侍女がお初をぎゅっと抱きしめ、泣き止むように優しく諭していたが、その侍女の目もまた赤く腫れている。
彼女の声は震え、涙をこらえるのがやっとのようだった。
部屋の中には、嗚咽と静かな息遣いだけが響き合い、皆が涙をこらえながら、それでも必死に静けさを保とうとしていた。
これが敗者の運命なのか。
私たちはこの先、どうなるのだろう。
不安に押しつぶされそうになりながらも、私はぐっとこらえていると、読経を終えた母上様が私たちの方へ歩み寄り、お初と私をしっかりと抱きしめてくれた。
母上様の腕は細く、けれど力強く、私たちを包み込むその温かさに、私は一瞬、幼い頃の記憶が蘇った。
小谷城の庭で母上様に抱かれながら花を見たあの穏やかな日々。
だが、その記憶はすぐに炎に飲み込まれ、硝煙の臭いに塗り潰された。
母上様の声が静かに響く。
「貴女たちのことは、この母が必ず守ります。だから安心しなさい」
「御方様……」
私は母上様の胸に顔を埋め、その言葉にすがるように頷いた。
母上様は侍女たちを見やり、穏やかだが強い口調で続けた。
「貴女たちも、必ず命を救います。だから、もうしばらく辛抱なさい」
母上様の言葉は侍女たちにも向けられた。
その優しい声に、侍女たちは俯き、嗚咽を漏らしながら静かに涙を流していた。
私は母上様の着物の裾を握り、その布の感触にわずかな安心を見出そうとした。
部屋の中は線香の香りに包まれ、外から聞こえる風の音が、まるで遠くの戦場を思い起こさせるようだった。
その日の昼下がり、私は寺の裏庭に一人で立っていた。
母上様とお初が部屋で休み、侍女がお江をあやしている間に、私は少しだけ空気を吸いたくて外に出た。
庭の隅には小さな井戸があり、その縁に腰掛けると、冷たい石の感触が体に伝わる。
風が枯れ草を揺らし、遠くの山々が霞んで見えた。
私は膝を抱え、父上様のことを考えた。
あの最後の言葉、
「茶々、お前は優しい子だな」
その声が耳に残り、胸が締め付けられる。
私は空を見上げ、涙をこらえた。
すると、近くの木陰から藤掛永勝の声が聞こえてきた。
「お茶々姫、何か用か?」
私は驚いて振り返った。
藤掛が木の下に立ち、家臣と何かを話していたらしい。
私は慌てて立ち上がり、小さく頭を下げた。
「いえ・・・・・・ただ、少し外に出て・・・・・・」
「そうか。だが、あまり遠くへは行ってはなりませんぞ。まだ安全とは言い切れんのでな」
藤掛の声は低く、どこか優しげだった。
私は彼の顔を見上げ、その目が疲れと責任感で曇っていることに気づいた。
彼もまた、戦の重みを背負っているのだ。
私は小さく頷き、井戸の縁に再び腰掛けた。
藤掛はしばらく私を見ていたが、やがて家臣と共に寺の裏手へ去っていった。
その時——
寺の玄関口で突然騒がしい声が響いた。
私はびくりと身を震わせ、急いで部屋へ戻ろうとした。
木の戸が軋み、慌ただしい足音が近づいてくる。
「羽柴秀吉が家臣、仙石権兵衛秀久。お市の方様と姫様の身柄預かりに参った。引き渡されたし!」
その声は荒々しく、寺の静寂を切り裂いた。
私は部屋に戻り、母上様とお初に駆け寄った。
私たちは驚き、身を寄せ合う。
母上様がすっと立ち上がり、戸の陰からそっと覗くと、私もお初の手を握ったまま、恐る恐るその隙間から外を見た。
庭に現れたのは、若武者が家来を引き連れ、堂々と寺へ乗り込んできた姿だった。
甲冑の金属音が響き、彼らの足元で土が小さく跳ねる。
だが、それを迎え撃つかのように、藤掛永勝が厳然と立ちはだかる。
その背中は大きく、まるで動かぬ岩のようだった。
「お市の方様と姫様は、この藤掛永勝が上様の命によりお預かりしておる。お引き取り願おう」
藤掛の声は低く、威厳に満ちていた。
私はその声を聞きながら、彼が私たちを守ろうとしていることにほのかな安心を感じた。
「羽柴藤吉郎秀吉の命に背くつもりか!」
仙石が声を荒げる。
風が吹き抜け、彼の甲冑に付いた埃が舞う。
私はお初の手を握り直し、息を潜めた。
「我は上様より直接、お市の方様と姫様を匿うよう申しつかっておる。末席とはいえ、織田家の血を引く藤掛永勝。羽柴殿の命令とはいえ、受け入れることはできん」
藤掛の言葉に仙石の顔が歪む。
私は母上様の背後に隠れながら、そのやり取りをじっと見つめた。
すると、その後方から、重々しい声が響いた。
「なんの騒ぎだ?」
現れたのは南蛮甲冑を身にまとい、蜻蛉の前立てがついた兜をかぶった男だった。
長い朱色の槍を携え、圧倒的な威圧感を放っている。
その姿はまるで戦場の鬼神のようだった。
私は思わず息を呑み、お初も私の腕を強く握った。
母上様の背中がわずかに緊張で硬くなるのを感じた。
「前田殿には関係なきこと」
仙石が言い放つや否や、その男は一喝した。
「戯けが! 貴様ら、猿の使いであろう?」
怒声と共に、仙石を殴りつける。
鈍い音が響き、仙石は倒れ、膝をついたが、すぐに立ち上がった。
私はその光景に目を丸くし、母上様の手をさらに強く握った。
「おのれ・・・・・・前田殿とはいえ、この仙石権兵衛秀久、殴られる覚えなどない!」
「ほう、ではもう一発くれてやろうか?」
男がニヤリと笑う。
その笑顔には冷たさと自信が混じり、私は背筋が寒くなった。
「どうせ猿の悪巧みでお市の方様と姫様を迎えに来たのであろう。しかし、それは許さぬぞ!」
彼は懐から手紙を取り出し、広げて見せた。
紙が風に揺れ、墨の文字が鮮やかに浮かぶ。
「上様からの直々の命令だ。お市の方様と姫様の警護は、この前田利家が致すこととなった。藤掛殿も共に、岐阜城に登城されよ」
「上様の命・・・・・・むぅ、致し方なしか」
藤掛が小さく唸り、仙石を見やった。
仙石は悔しそうに拳を握りしめたが、それ以上は何も言えなかった。
「しかし、この辱め、覚えておけ!」
怒りを滲ませながら、仙石権兵衛秀久は家来を引き連れて去っていった。
足音が遠ざかり、土埃が舞う中、寺の庭は再び静寂に包まれた。
私たちはその様子を息をひそめて見つめていた。
母上様が小さく息をつき、私とお初を見下ろした。
「茶々、お初、もう少しの辛抱です」
その声に私はただ頷くしかなかった。
寺の外では風が枯れ草を揺らし、遠くで鳥の鳴き声が響く。
私は母上様の手を握りながら、この先の運命に思いを馳せた。
父上様のいない世界で私たちはどう生きていくのだろう。
窓の外に広がる空は灰色に染まり、まるで私たちの未来を映しているようだった。