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②⑦話 守山城

「がははははははっ」


と豪快に笑う声が広間に響き渡った。


その声はまるで冬の近江に吹き荒れる風のように荒々しく、私の耳に突き刺さる。


「よう来たお市、それに姫達よ。この孫十郎の所に来たからにはもう安心じゃ」


大叔父・織田孫十郎信次の顔が目の前に広がる。


髭だらけの顔に刻まれた皺は、戦場を渡り歩いた証か、それともただの怠惰な時間の積み重ねか。


質素な城の広間は、岐阜城の絢爛さとは程遠く、どこか煤けた匂いが漂っている。


床に敷かれた畳は擦り切れ、壁には湿気が染み込んで黒ずんだ跡が残る。


ここが守山城、私たち三人が身を寄せることになった場所だ。


「お世話になります、叔父上様。姫達の名は、茶々、初、江にございます」


母上様、お市の方が丁寧に頭を下げ、私たち三姉妹の名を告げる。


その声は穏やかで、どこか疲れを隠しているように聞こえた。


私は隣に立つ初の小さな手を握りながら、じっと孫十郎の顔を見つめる。


この男が、私たちを匿うと言う。


だが、心の奥底で渦巻くのは、安心ではなく、得体の知れない不安だ。


「おう、そうかそうか、わかったわかった。それより儂はおことたちを構ってる暇はないのだ」


孫十郎は太い首を振って、まるで面倒事を払うように手を動かす。


その仕草に、私は一瞬、目を細めた。


「と、申しますと?」


母上様が静かに尋ねる。


声に棘はないが、どこか探るような響きがある。


「一向一揆成敗の仕度をせねばならぬ。伊勢の長島よ」


孫十郎の口からその言葉が飛び出した瞬間、私の胸の奥で何かがざわめいた。


一向宗。


織田信長が容赦なく叩き潰してきた敵。


比叡山の焼き討ちを思い出す。


あの時、炎に包まれた山の情景が、噂として私の耳に届いた。


燃え盛る堂塔、逃げ惑う僧侶たち、そして信長の冷たい目。


父上、浅井長政を滅ぼしたあの男が、またしても血と炎で支配を広げようとしている。


「一向宗門徒・・・・・・兄上様は容赦せずなのですね?」


母上様の声に、私は顔を上げた。


その瞳には、微かな悲しみが宿っているように見えた。


「比叡山の焼き討ちとは違うぞ。徒党を組んで織田家に敵対する者共よ。目に物喰らわせてやるわ。がっははははは。おことたちはこの城で好きにしておれ」


孫十郎はそう言い放つと、慌ただしく広間を後にした。


その背中が遠ざかるのを見ながら、私は唇を噛んだ。


好きにしろ、だと?


この狭い城で、何をどうしろというのか。


広間に残された私たちは、しばし沈黙に包まれた。


初が私の手をぎゅっと握り返し、小さな声で


「ねえ、茶々姉様、ここ、ちょっと寒いね」


と呟く。


その声に、私は我に返った。


確かに、広間の隅から冷たい風が忍び込んでくる。


隙間だらけの壁が、外の冬の息吹をそのまま招き入れているのだ。


「母上様、好きにしろと言われましても狭き城、それに町も岐阜に比べてとても小さな町……来るとき見えました。行くような所がありませぬ」


私がそう言うと、母上様は静かに微笑んだ。


その笑みは、どこか遠くを見るような、諦めにも似た色を帯びていた。


「ここの町は一度焼き払われていますからね、信行の手によって・・・・・・この城は織田家には因縁深き城・・・・・・兄上はそんな城に私達を追いやった・・・・・・いや、住めば都と言います。兎に角回りは織田家、しばらくは安心して過ごせましょう。茶々、お初、城が狭いからと言って勝手に外に出てはなりませんよ」


「はい、母上様」


初が素直に頷く。


「茶々もいいですね?」


母上様の視線が私に注がれる。


私は一瞬、言葉を飲み込んだ。


この狭い城に閉じ込められることが、まるで鳥籠に押し込まれた鳥の気分だ。


だが、母上様の疲れた顔を見ると、逆らう気にはなれなかった。


「はい」


短く答えると、私は目を伏せた。


守山城は、近江の小浜城や岐阜城のような山城ではなく、川側の丘に造られた小さな城だ。


掘りも柵も質素で、まるで戦を想定していないかのような造り。


屋敷と呼べる建物も少なく、私たち三人には本丸の一室が与えられただけだった。


部屋の窓からは、凍てついた川面が見える。


その向こうに広がる町は、焼け野原の名残を残し、寂れた家々が点々としているだけだ。


怒濤のような出来事が続いたこの天正元年(1573年)の冬を、ここで過ごすことになった。


日が暮れると、城の中はさらに静かになった。


本丸の一室に敷かれた布団に、初と江が並んで眠っている。


江はまだ幼く、母上様の腕の中で小さく寝息を立てている。


私は窓際に座り、膝を抱えて外を眺めた。


月明かりが川面に反射し、冷たく白い光を放っている。


何もすることがない。


守山城に来てから、時間だけがだらだらと過ぎていく。


岐阜にいた頃は、侍女たちと笑い合ったり、父上のことを思い出して母上様と語り合ったりしていた。


だが、ここではそんな余裕すらない。


私はそっと立ち上がり、部屋の隅に置かれた小さな箱から小銭を取り出した。


そして、城勤めの小者に声をかけた。


「おい、少し話を聞きたい。叔父上様、織田孫十郎信次のことを教えてくれ」


小者は一瞬驚いた顔をしたが、私が差し出した小銭を見て目を輝かせた。


「ああ、孫十郎様のことですか。昔、この城を出奔したことがあるんですよ」


「出奔?」


私が眉をひそめると、小者は声を潜めて続けた。


「謀反を起こしたわけじゃないんです。謝って家臣が上様の弟君、秀孝様を殺めてしまってね。遺体を見て驚愕した孫十郎様はそのまま出奔したとか」


「それで?」


「その後、許されてこの守山城の城主として戻ってきたんです。まあ、なんというか・・・・・・気構えが緩いお方でねえ」


小者はそう言って肩をすくめた。


私はその言葉を聞いて、胸に冷たいものが広がるのを感じた。


気構えが緩い?


この男に匿われて、私たちは本当に無事でいられるのか?


もし敵がこの城を囲んだら、孫十郎は私たちを人質として差し出すのではないか?


そんな不安が、黒い霧のように心を覆った。


だが、母上様は違う。


彼女は誰かに何かを求めるでもなく、ただ静かに日々を過ごしている。


朝になれば窓辺で髪を梳き、昼には初と江に笑いかけ、夜には静かに目を閉じる。


その姿が、私には歯がゆくて仕方なかった。


母上様はなぜ、こんな場所で平然としていられるのだろう。


私は立ち上がり、窓の外を見た。


川の向こうに広がる闇の中、織田信長の影がちらつく。


父上を滅ぼしたあの男。


今もなお、私の心を締め付ける憎しみの源。


孫十郎が一向一揆を成敗しに行けば、また信長の名が大きくなり、その血塗られた支配が広がるだけだ。


私は拳を握りしめた。



この狭い城で、私は何をすればいい?


ただ待つだけの日々に、耐えられるのか?


窓の外の闇を見つめていると、背後で布団が小さく擦れる音がした。


振り返ると、母上様が静かに起き上がっていた。


江をそっと布団に寝かせ、その小さな額に手を置いてから、私の方へ視線を移す。


「茶々、まだ寝ないのですか?」


その声は穏やかだが、どこか私を窘めるような響きがあった。


私は膝を抱えたまま、窓枠に寄りかかった。


「眠れません。考え事が多くて」


母上様は小さく息をつき、私の隣に腰を下ろした。


彼女の髪からは、かすかに椿油の香りが漂ってくる。


岐阜にいた頃、侍女が母上様のために用意したものだ。


この質素な城でも、母上様はそんな小さな習慣を捨てていない。


「何を考えているのです? この城のこと? それとも叔父上のこと?」


母上様の瞳が、私の顔をじっと見つめる。


その視線に、私は一瞬たじろいだ。


母上様には、私の心の中が透けて見えているのではないかと思うことがある。


だが、それを口に出すのは憚られた。


「大叔父上様のことです。あの人が私たちを守れるのか、不安で」


半分は本当、半分は嘘だ。


孫十郎への不信感は確かにある。


だが、私の心を本当に占めるのは、織田信長への憎しみだ。


父上を滅ぼし、浅井家を灰に変えたあの男。


今もなお、どこかで人を殺し、血を流し続けている。


孫十郎が一向一揆を叩き潰しに行けば、また信長の名が大きくなり、その影が私の上に重くのしかかる。


母上様は私の言葉を聞いて、静かに目を伏せた。


「叔父上は確かに頼りないところがありますね。昔からそうでした。兄上とは正反対で、どこか気の抜けた人です」


「母上様はそれでいいのですか? この城に閉じ込められて、ただ待つだけで?」


私の声に、思わず棘が混じった。


母上様は驚いたように顔を上げ、私を見つめた。


その瞳には、悲しみとも諦めともつかない光が揺れている。


「茶々、私は戦う術を持たない。ただ生きるしかできないのです。あなたや初、江を守るためなら、この狭い城でも耐えられる」


「耐えるだけでは何も変わりません。織田信長が生きている限り、私たちはこんな場所に追いやられ続けるのです」


言葉が口をついて出た瞬間、私は自分の声が震えていることに気づいた。


母上様の顔が一瞬凍りつき、次の瞬間、深いため息が漏れた。


「茶々・・・・・・やはりあなたはまだ兄上を許せないのですね」


許す?


その言葉が、私の胸に突き刺さった。


許すことなどできるはずがない。


父上の最期を思い出すたび、信長の冷酷な顔が脳裏に浮かぶ。


小谷城が燃え落ちる炎の中で、父上がどれほどの苦しみを味わったか。


母上様はあの時、信長の妹として助けられた。


だが、私は違う。


私は浅井長政の娘だ。


その血が、私に憎しみを刻み込んだ。


「許すなんてできません。あの男が生きている限り、私の心は休まりません」


母上様は私の言葉に、何も言わずただ黙っていた。


その沈黙が、私には重くのしかかった。


母上様にとって、信長は兄だ。


どんなに冷酷でも、どんなに血にまみれていても、彼女には切り離せない絆がある。


だが、私にはそれがない。


私にとって信長は、父を奪った怪物でしかない。


「茶々、あなたはその憎しみをどうしたいのですか?」


母上様の声が、静かに部屋に響いた。


私は一瞬、言葉に詰まった。


どうしたい?


信長をこの手で討ちたい。


その首を切り落とし、父上の無念を晴らしたい。


だが、そんなことは現実にはできない。


私はただの娘だ。


刀を手に持ったこともない。


この狭い城で、憎しみを抱えたまま朽ちていくしかないのか。


「わかりません。ただ、このままじゃ嫌なのです」


私の声は、思ったより小さかった。


母上様は私の肩にそっと手を置き、そのまま私を抱き寄せた。


「茶々、あなたはまだ若い。憎しみは人を強くもするけど、時には心を蝕む毒にもなる。どうか、その毒に飲み込まれないでください」


母上様の声は優しかったが、私には届かなかった。


毒に飲み込まれる?


すでに私はその毒に浸かっている。


信長への憎しみは、私の血となり肉となり、離れることのない一部だ。


翌朝、私は城の裏手にある小さな井戸のそばに立っていた。


冷たい風が頬を切り、吐く息が白く舞う。


井戸の周りには霜が降り、地面がカチカチに凍っている。


ここで水を汲む小者が、私に気づいて近づいてきた。


昨日、孫十郎のことを教えてくれたあの小者だ。


「姫様、こんな朝早くにどうしたんです?」


小者が首をかしげて私を見上げる。


その顔は日に焼けて、どこか無邪気な笑みを浮かべている。


私は懐からまた小銭を取り出し、彼に差し出した。


「もう少し話を聞きたい。叔父上様のこと、それと・・・・・・織田信長のこと」


小者の目が一瞬光り、すぐに小銭を受け取った。


「信長様のことですか。そりゃあ、大変な方ですよ。姫様も知ってるでしょうけど、小谷城を落とした時なんて、まるで鬼神のようだったって」


鬼神。


その言葉が、私の胸を締め付けた。


「鬼神なら、人を殺すのも平気なんでしょうね」


私が呟くと、小者は少し気まずそうに笑った。


「まあ、そうですねえ。比叡山も焼き討ちにして、一向宗も容赦しない。あの方に逆らう奴は、生きて帰れないって話です。でも、孫十郎様は違うんですよ。あの方、戦は嫌いじゃないけど、どこか抜けててね。昔、出奔した時だって、秀孝様の遺体見て腰抜かしたって笑いものだったんです」


「腰を抜かすような人が、城主でいいんですか?」


私の声に、小者は肩をすくめた。


「いいか悪いかは別として、ここはそういう場所なんですよ。信長様がわざわざ手を下すような城じゃない。安心してください、お嬢様。敵が来ても、孫十郎様なら笑って済ませるんじゃないですかね」


笑って済ませる。


その言葉に、私は苛立ちを覚えた。


敵が来たら、私たちはどうなる?


人質として差し出され、信長の前に引きずり出されるのではないか?


その時、信長は私を見て何と言うだろう。


「お市の娘か。浅井の血を引くなら、なおさら生かしておけん」とでも言うのか。


私は拳を握り、小者に背を向けた。


「もういい。ありがとう」


小者は何か言いたそうだったが、私は足早にその場を離れた。


井戸の冷たい水音が、背中で小さく響いていた。


部屋に戻ると、初が本丸の縁側で遊んでいるのが見えた。


彼女は小さな石を拾っては並べ、何かを作っているらしい。


「茶々姉様! 見て見て、お城作ったの!」


初が笑顔で私を呼ぶ。


その無垢な笑顔に、私は一瞬、胸が温かくなった。


だが、次の瞬間、信長の顔が脳裏をよぎり、その温かさは消えた。


「初、この城、誰が守るの?」


私がそう聞くと、初は首をかしげた。


「うーん、叔父上様?」


「叔父上様じゃ頼りないよ。敵が来たら、どうするの?」


初は少し考えてから、笑った。


「じゃあ、茶々姉様が守ってよ! 姉様、強そうだもん!」


その言葉に、私は苦笑した。


強い?


私は強くなんかない。


ただ、憎しみを抱えているだけだ。



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