②⑥話 引っ越し続き
秋の風が頬を冷たく撫でる。
私の目の前には、狭いながらも整えられた屋敷が佇んでいる。
昨日まで過ごした前田又左衛門利家殿の邸から、荷物を手に半時ほど歩いてきたばかりだ。
「お市様、こちらが仮の屋敷でございます」
前田慶次利益が低く響く声で母に告げる。
その声音には、どこか気遣うような柔らかさが混じっている。
私は目を細めて彼を見た。
赤い陣羽織が風に揺れ、背の高いその姿はまるで戦場から抜け出してきたかのようだ。
だが、今はただの護衛。
私たち浅井家の娘たちを、織田の血筋に預けるまでの「つなぎ」に過ぎない。
「仮屋敷、ね」
私は呟き、胸の内で小さく舌打ちした。
近江小谷城を出たのが夏の終わりだった。
あの日は空が青く、汗が首筋を伝うほど暑かった。
今はもう秋が深まり、落ち葉が地面に薄く積もっている。
季節の移ろいと共に、私たちの居場所もこうして移ろっていく。
まるで風に吹かれる木の葉のようだ。
母上様が前田又左衛門利家殿に別れの挨拶をしているのが聞こえる。
「又左衛門殿、松、お世話になりました」
母の声は穏やかで、どこか疲れを隠しているように感じた。
私はそっと母の横顔を見る。
あの美しい顔が、少しだけやつれている。
浅井長政――私の父を失い、織田信長――あの男に全てを奪われた母の心は、どれほど重いのだろう。
「そんなお市様に礼を言われるほどのもてなしができませんで、こちらこそ申し訳なく」
又左衛門殿が頭を下げる。
その隣で、松が小さく笑いながら夫の尻をつねった。
「そうでございます、利家殿。昔惚れた女子、お市様をおもてなしできるくらいの屋敷に住む働きをいたしなさい」
その言葉に、私は思わず目を丸くした。
「又左衛門が母上様に惚れていた?」
私の声が少し高くなった。
驚きと好奇心が混じり合って、つい口に出てしまったのだ。
又左衛門殿が照れ臭そうに笑う。
「昔の話ですよ。茶々様、昔々の若いときの話。小姓に過ぎなかったそれがしが憧れていただけでござる」
彼はそう言って誤魔化すように手を振ったが、その目には遠くを見るような光があった。
母への想いを、確かに昔は抱いていたのだと、私は直感した。
それでも今は松という妻がいて、彼は彼女を愛している。
人の心とは、かくも複雑で移ろいやすいものなのか。
「それより、しばらくは護衛に慶次利益とその配下を付けますから、どうか使ってやってください」
又左衛門殿が話を切り替える。
私はふと、慶次の姿を目で追った。
彼は門の前で配下の者に何かを指示している。
その背中は広く、どこか頼もしい。
だが、私の心は別のことを考えていた。
――織田信長。
あの男が、私の父を殺し、兄上も殺し全てを奪った。
私たちをこんな風に漂わせている。
この仮屋敷も、護衛も、全てはあの男の支配下にあるものだ。
胸の奥で、憎しみが熱く燃え上がる。
いつか、私の手で、あの男を・・・・・・。
「ありがたき配慮、痛み入ります。では」
母の声で我に返る。
私たちは前田邸を後にし、新しい屋敷へと足を踏み入れた。
屋敷の玄関に着くと、さつきが水を用意して私とお初の足をすすいでくれる。
冷たい水が足に触れた瞬間、私は小さく息を呑んだ。
「姉上様、冷たい」
お初が小さな声で呟く。
その声には、どこか甘えるような響きがあった。
私は眉を寄せて彼女を見下ろした。
「武家の娘として、その様な事で弱音を吐いてどうするのです」
私の口調は少し厳しくなった。
お初が目を丸くして私を見る。
「ちょっと思った事を言っただけなのに・・・・・・」
彼女の声が小さく震え、さつきが苦笑いを浮かべた。
私は内心、ため息をつく。
お初はまだ幼い。
この冷たい水も、この狭い屋敷も、彼女にはただの不満でしかないのだろう。
だが私には違う。
この冷たさは、私の決意を試しているかのようだ。
いつか、私はこのような場所を抜け出し、私の力で畳敷きの屋敷、いや、城を手に入れる。
織田信長を超える力を、この手で掴んでみせる。
屋敷の中に入ると、板の間が目に入る。
岐阜城の豪華さとは比べものにならない。
あの城で、信長は笑いながら私たちを見下ろしていたのだろうか。
その光景を想像するたび、胸の奥が締め付けられる。
私は拳を握り、静かに息を吐いた。
この屋敷は、私に火を灯した。
いつか必ず、私の力で全てを取り戻すという決意の火を。
数日が過ぎ、私たちの身柄は大叔父・織田孫十郎信次預かりと決まった。
また引っ越しだ。
前田慶次利益が母に別れの言葉を告げる。
「お市様、これよりは孫十郎様の領地。我ら前田の者が付いていくわけにはいきません」
「そうですね。後の事は叔父上様にお願いいたします。前田慶次利益、今までご苦労様でした。礼を申します」
母の声は穏やかだが、私はその裏に隠された疲れを感じ取る。
慶次が小さく頭を下げた。
「なんのこれしきのこと」
その言葉に、私は思わず口を開いた。
「慶次、行ってしまうの?」
彼が振り返り、私を見た。
その目に宿るのは、どこか優しい光だ。
「はっ、茶々様、俺はここまで。あとは孫十郎様がきっとよくしてくださいます」
「そう、行くの・・・・・・」
私の声が小さく震えた。
なぜだか分からない。
彼の背中が遠ざかるのが、妙に寂しく感じたのだ。
慶次が笑う。
「そんな寂しそうな顔見せるなよっと、失礼。きっとまた会うときも来ますから」
そう言って、彼は背を向け、去って行った。
その赤い陣羽織が秋の風に揺れ、やがて見えなくなった。
私は立ち尽くし、胸の内で呟いた。
――織田信長。
お前が全てを奪った。
だが、私は諦めない。
この仮屋敷も、この秋の冷たさも、私を強くするだけだ。
いつか、お前を越えてみせる。




