②⑤話 母上様との仲直り
私は手元に残っていた饅頭を懐紙に包んだ。
指先が少し震えていた。
帰蝶様との会話が頭の中で渦巻き、胸の奥で何かが燻っている。
お饅頭の甘い香りが漂うが、今はそれすら遠く感じる。
私は包み終えると、膝の上にそっと置いた。
「ほれ、気の利かぬ侍女よな~。先ほどより妹の話をしているのだから、包んであげなさい」
帰蝶様が軽い口調で言った。
私は一瞬、目を上げた。
彼女が侍女に視線を向け、微かに笑みを浮かべている。
私は慌てて首を振ろうとした。
お初にあげるために包んだわけじゃない。
この場から逃げ出すために、ただ何か手元に残しておきたかっただけだ。
でも、その言葉を口にする前に、侍女が動き出した。
菓子台に残っていた十個ほどのお饅頭が、折箱に詰められる。
あっという間に蓋が閉じられ、私の手に渡された。
私は目を丸くした。
こんなにたくさん、いらないのに。
だが、帰蝶様が私を見つめる。
「それを持って行き、お市殿と仲直りをいたしなさい。親子がいがみ合ってはなりませんよ。また何かあったら私の所に来なさい。しばらくは岐阜にいる予定ですから」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
母上様と仲直り。
頭ではわかっている。
母が私たちを守るために信長に頭を下げたことも。
でも、心がそれを許せない。
私は折箱を握りしめた。
木の感触が冷たく、掌に食い込む。
「しばらくは?」
少し不思議な言い回しに、私は思わず聞き返した。
帰蝶様が目を細め、窓の外を見やる。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が部屋に響く。
「今は居は堺にあります。商人の真似事をして楽しんでいるのですよ。織田家は大きくなりました。そんな織田家には、私はいらぬ長物ですからね」
彼女の声に、微かな寂しさが混じる。
私は目を丸くした。作り笑いだった。
気高い彼女の顔に、初めて見る影が差す。
織田家にいらない? 信長の妻である彼女が、そんなことを言うなんて。
私は胸が締め付けられるのを感じた。
彼女もまた、信長に縛られ、どこか孤独なのかもしれない。
私は言葉を失ったまま、折箱を膝に置いた。
帰蝶様が立ち上がり、侍女に目配せする。
「案内して差し上げなさい」
。
侍女が静かに頷き、私に近づいてきた。
私は立ち上がり、折箱を抱えた。
帰蝶様が最後に私を見た。
その目には、優しさと、どこか試すような光があった。
私は小さく頭を下げ、部屋を出た。
侍女に導かれ、長い廊下を歩く。
足音が木の床に響き、冷たい風が頬を撫でる。
私は折箱を握りしめたまま、頭を下げて歩いた。
信長への憎しみが胸で燻る。
帰蝶様の言葉が耳に残る。
「我慢するんだ」
でも、それがどれほど難しいか、彼女はわかっているのだろうか。
表広間に戻ると、母上様と御祖母様の声が聞こえてきた。
少し焦ったような響き。
私は足を止めた。
「まだ見つからないのですか?城を出たと言うことはないでしょうね?」
母上様が侍女に尋ねている。
声が震えていた。
私は一瞬、目を閉じた。
私が飛び出したせいで、母をこんな気持ちにさせたのか。
胸が締め付けられる。
だが、同時に、彼女の信長への態度が頭をよぎり、怒りが再び湧き上がる。
「失礼します。帰蝶様付き侍女のすみれと申します。茶々様が奥に迷われ来てしまいましたので、こちらにお連れ申しました」
帰蝶様の侍女のすみれが静かに言う。
私は母上様を見た。
彼女の目が私を捉える。
疲れた顔に、ほっとしたような光が浮かぶ。
次の瞬間、母が駆け寄ってきた。
「茶々、なにをしているの!」
母上様が私を強く抱きしめた。
温かい腕が私の背を包む。
私は一瞬、息を止めた。
母の香りが鼻をくすぐる。
幼い頃、近江で感じた懐かしい匂いだ。
でも、今はそれが重い。
私は顔を上げ、母を見た。
「織田家の城とはいえ、あなたの事を知らぬ者もおります。なにされるかわかりません。勝手な振る舞い許しません」
母の声が震えていた。
目が潤んでいる。
私は唇を噛みしめた。
怒られているのに、なぜか涙がこみ上げる。
私は小さく呟いた。
「ごめんなさい。もういたしません」
声が掠れた。
母が私をじっと見つめる。
長い沈黙の後、彼女が頷いた。
「わかれば良いのです」
その言葉に、私は目を伏せた。
母の手が私の肩を離れる。
私は折箱を握りしめた。
すみれがそっと近づき、菓子折を私の足元に置いた。
「帰蝶様から茶々様に賜り物にございます」
私は母を見上げ、口を開いた。
「帰蝶様にお饅頭を貰いました。お初にと思い・・・・・・」
言葉が途切れる。
母が一瞬、目を細めた。
そして、静かに言った。
「その様に妹を思う心あるなら、今回のことは水に流しましょう。すみれとやら、帰蝶様にはいずれご挨拶をしたいと思います。この度は茶々の事、ありがとうございました」
「帰蝶様にはその様にお伝えいたします。」
すみれが静かに下がっていく。
私は母を見た。
彼女の顔に、疲れと安堵が混じる。
お初はどこにいるのかと視線を巡らせると、侍女のさつきの膝枕で眠っていた。
小さな寝息が聞こえる。
私は折箱を手に、お初に近づいた。
疲れたのだろう。
妹の無垢な顔を見ていると、胸が熱くなる。
私は膝をつき、お初の髪をそっと撫でた。
母が私の背後に立つ気配を感じる。
私は振り返らず、小さく呟いた。
「母上様、私、信長殿を許せません」
母が息を止める気配。
私は続けた。
「でも、お初と江のために、我慢します。帰蝶様がそう言いました」
母が黙った。
長い沈黙が流れる。
私はお初の寝顔を見つめた。
母の手が私の肩にそっと置かれる。
「そうか。なら、それで良い」
母の声が静かに響いた。
私は目を閉じた。
信長への憎しみは消えない。
でも、今は我慢するしかない。
妹たちのため、そして、私自身の定めを見つけるために。




