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②④話 同じ囚われの身?

私は帰蝶様に手を引かれ、彼女の部屋へと通された。


足音が廊下に響き、木の香りが鼻をくすぐる。


部屋に入ると、畳の感触が足裏に柔らかく伝わってきた。


私は促されるままに座った。


膝を揃え、袴の裾を整える。


広間での母上様とのやり取りが頭をよぎり、胸が締め付けられる。私は目を伏せた。


すぐに侍女が盆を運んできた。


黒塗りの盆の上に、丸い饅頭がいくつか並んでいる。


蒸したての甘い香りが漂い、私の鼻に届く。


空腹だったことを思い出したが、食べる気にはなれなかった。


帰蝶様が奥の間で着替えを済ませ、上座に腰を下ろす。


彼女の姿が視界に入る。


藍色の袿に代わり、淡い藤色の衣を纏っていた。


気品がさらに際立ち、私は目を奪われた。


「遠慮せず食べなさい。毒など仕込んではおりませぬ。いくら蝮の娘と恐れられようと、毒を仕込むような卑劣なことはいたしません。ましてあなたのような幼子を殺しても理がありませんから」


帰蝶様の声が静かに響く。


穏やかだが、どこか揶揄うような響き。


私は彼女を見上げた。


確かに、私を殺したところで何の得もないだろう。


信長の妻とはいえ、この人は私に敵意を持っていないのかもしれない。


私は懐紙を膝に広げ、饅頭を手に取った。


指先でそっと割り、一口の大きさにすると口に運ぶ。


ほのかな甘さが舌に広がり、温かさが喉を落ちていく。


「行儀は心得ているようですね。どう、美味しいかしら?」


帰蝶様が微笑む。


私は小さく頷いた。


「はい、とっても」


声が小さく掠れた。


美味しかったのは本当だ。


でも、心が落ち着かない。


饅頭を噛むたび、広間での信長の笑い声が頭をよぎる。


私は唇を噛みしめた。


「それは良かったわ。それで、あなたはどうしてここに来たのかしら?」


その質問に、私は息を止めた。


母上様の態度に苛立ち、広間を飛び出し、走り回ってここに辿り着いたなんて言えない。


私は目を伏せ、言葉を探した。


「珍しき城だったので、巡っていたら迷いました」


嘘だった。


声が少し震えた。


帰蝶様が小さく笑う。


「ふふふふふっ、幼子で気を使うことを知っているようね」


「え?」


私は顔を上げた。


彼女の目が私を捉える。


鋭く、だが優しさを湛えた視線。


私は胸が締め付けられるのを感じた。


「だって、あなたは珍しき物を楽しむ目ではなく、怒りが籠もった目をしていましたから。さては信長殿との対面でお市殿の態度に怒りを感じたのですね」


その言葉に、私は言葉を失った。


なぜわかる? 私の心の中を見透かされたような感覚に、背筋が冷たくなる。


私は唇を震わせ、声を絞り出した。


「うっ、なぜそれを?」


帰蝶様が静かに笑う。


彼女が膝に手を置き、少し身を乗り出した。


「私も囚われの身だった時がありますから。斉藤道三の人質として織田家に入った身。自身を守るために多くの嘘をついてきました。お市殿は浅井から帰ってきて初めて信長殿と対面の儀。ならその場で何か、いや、自身の命、そして娘たちの命を守るために、嘘と言いましょうか、心とはまったく別の言葉を口にしないとならなかったはず」


その言葉が胸に刺さる。


私は目を伏せた。


わかってはいる。


母上様が信長に頭を下げたのは、私とお初、お江を守るためだ。


頭では理解している。


でも、心がそれを許せなかった。


父上様を殺した男に、なぜ笑顔で接するのか。


なぜ憎しみを隠してしまうのか。


私は拳を握りしめた。


「わかってはいるのです。わかってはいるのですが・・・・・・」


声が震えた。


涙がこみ上げる。


帰蝶様が私を見つめる。


長い沈黙が流れた後、彼女が口を開いた。


「武家に生まれた悲しき定めですよ。そして織田家に連なる者として生きる術。信長殿を怒らせてはなりませんよ。確かお市殿には三人の姫がいたはず」


「はい、妹が二人おります」


お初とお江。


私の大切な妹たち。


彼女たちの顔が頭に浮かぶ。


お初の小さな声、江の柔らかな笑顔。


私は目を閉じた。


「妹は好きですか?」


「もちろん大好きです。大切です」


その言葉は自然に出た。


妹たちを思うと、胸が温かくなる。


帰蝶様が頷く。


「なら、その妹たちの為に堪えることを覚えなさい」


「・・・・・・はい」


私は小さく答えた。


でも、心の中では納得できていなかった。


堪える? 信長への憎しみを飲み込むなんて、私には無理だ。


帰蝶様が私の表情を見て、静かに笑った。


「今の返事、納得できていませんね? 信長殿の命を奪いたい?」


私は目を上げ、彼女を見つめた。


そして、こくりと頷いてしまった。


隠せなかった。


胸の奥で燃える憎しみが、私を突き動かす。


帰蝶様が声を上げて笑った。


「はははははっ、だったら尚更今は我慢するのです。もう少し大きくなり、力強くなったときまで我慢するのです」


「私が大きくなったら討てましょうか?」


その言葉が口をついて出た。


帰蝶様が目を細める。


「茶々は大きくなれば、信長殿は非力になっていきます。年老いてね。これは人の定め」


「人の定め・・・・・・」


私はその言葉を反芻した。


定め。


父上様が死に、浅井家が滅びたのも定めなのか。


信長が生きているのも、私が憎むのも、すべて定めなのか。


「そうです。生まれ持った定め、そして人としての定めがあるのです。あなたが信長殿を討つ定めを持って生まれたなら、必ず討てる日が来ましょう」


「その定めがなかったら?」


私は尋ねずにはいられなかった。帰蝶様が首を振る。


「さぁ、それはわかりませぬ。生まれ持った定めなど、誰も見られませんから。しかし、あなたは良い顔をしています。その美貌で天下人を手玉に取る定めがあるかもしれませんね」


何を言っているのか、いまいちわからなかった。


私は目を丸くした。


天下人を手玉に取る? そんなことが私にできるはずがない。


帰蝶様が笑う。


「わからない顔をしていますね。まあ、今はわからなくて良いのです。茶々、あなたはまだ幼い。でも、その目には強い光があります。信長殿を憎むその心が、あなたをどこへ連れて行くのか、私には楽しみでなりません」


私は黙った。


饅頭の甘さが口に残る。


部屋の外から、風が木々を揺らす音が聞こえてくる。


私は膝の上で拳を握りしめた。


信長を討つ。


大きくなればできるかもしれない。


だが、今は我慢するしかない。


妹たちのため、母上様のため。


そして、私自身の憎しみを燃やし続けるため。


帰蝶様が茶を手に取った。


白い湯気が立ち上り、彼女の顔を柔らかく霞ませる。


彼女が静かに口をつけると、湯呑が小さく鳴った。私はその音に目を上げた。


帰蝶様が私を見つめる。


鋭い目。


だが、その奥に何か深いものを感じた。


憎しみではない。


悲しみでもない。


それは、諦めと強さが混じったような光だった。


「茶々、あなたの目は良い目だ。信長殿を憎むその心が、あなたを強くするでしょう」


彼女がそう言うと、私は唇を噛みしめた。


強く? 私は強くなんてない。


ただ、怒りと憎しみで胸が焼けるだけだ。


父上様の顔が頭に浮かぶ。


浅井長政。


あの優しい笑顔が、炎の中で消えた。私は目を閉じた。


「帰蝶様は、信長殿を憎んだことはありませんか?」


その言葉が口をついて出た。


自分でも驚いた。


だが、一度出てしまった言葉は止められない。


私は彼女を見上げた。


帰蝶様が一瞬、目を細める。


長い沈黙が流れた。


湯呑を膝に置く音が、部屋に小さく響く。


「憎んださ。憎まなかったことなどない」


彼女の声が低く響いた。


私は息を止めた。


帰蝶様が信長を憎んだ? その言葉に、胸が締め付けられる。


彼女が目を伏せ、静かに続けた。


「私の父、斉藤道三は、兄・・・・・・いや、信長殿に殺されたのですよ」


その言葉に、私は目を丸くした。


斉藤道三。


帰蝶様の父。


信長の義父にあたる人だ。


私は近江で母上様から聞いた話を思い出した。


道三は尾張を狙う強欲な武将で、信長の父・信秀と争った。


そして、帰蝶様はその和平のために織田家に嫁いだと。


でも、信長が道三を殺したなんて、初めて聞いた。


「えっ? でも、それは・・・・・・」


私は言葉に詰まった。


たしか斉藤道三は子の義龍に裏切られ、長良川で死んだと聞いている。


でも、帰蝶様の口調に嘘はない。


私は混乱した。


彼女が小さく笑う。

「驚いた顔だね。確かに、表向きは子の義龍に討たれたとされている。私が織田家に来てから、ずっと後だった。でもね、茶々、あの裏には信長殿の手があった。私はそう思っております。いやそう感じたのです」


彼女の目が遠くを見る。


私は息を呑んだ。


信長の手? どういうことだ?


「道三は信長を侮っていました。尾張のうつけ者と笑いものにしてね。でも、信長殿はそんな男じゃない。父が義龍に裏切られた時、その隙を見逃さなかった。義龍をそそのかし、父を討たせた。私はその時、織田の屋敷にいた。父の死を知らされた時、信長殿が笑っていたのを覚えております」


帰蝶様の声が震えた。


私は目を大きく見開いた。


信長が笑っていた? その光景を想像すると、胸が締め付けられる。


父を失った彼女の気持ちは、私と同じじゃないか。


「それで、帰蝶様はどうしたんですか?」


私は尋ねずにはいられなかった。


彼女が目を上げ、私を見つめた。


「どうしたと思う? 泣いたさ。悔しくて、憎くて、毎晩のように枕を濡らした。でもね、茶々、私は織田家に嫁いだ身だ。父を殺した男の妻として生きるしかなかった。それが私の定めでした」


「定め・・・・・・」


またその言葉だ。


私は唇を噛みしめた。


帰蝶様が続ける。


「信長殿を憎んだよ。殺したいと思ったことも一度や二度じゃない。でも、私は我慢した。父の死を胸に秘めて、笑顔で信長殿に仕えた。なぜだと思う?」


私は黙った。


わからない。


憎む相手に笑顔で仕えるなんて、私には想像もできない。


帰蝶様が静かに笑う。


「生きるためですよ。私の命を保つため、そして、父の名を汚さないため。斉藤の娘として、織田の妻として、私は生き抜かなければならなかった。茶々、あなたも同じなはず。信長殿を憎むなら、その憎しみを胸に秘めて、生き抜くのです」


その言葉が胸に刺さる。


私は目を伏せた。


生き抜く。


憎しみを秘めて生きるなんて、私にできるのか。


帰蝶様が茶を一口飲む。


湯呑を置く音が響く。


「あなたはまだ幼い。でも、その目には火がある。信長殿を討つ日を夢見るなら、今は我慢するんだ。時が来るまで、力を蓄えのです。きっと機会が来るでしょう。恨みを晴らす機会が」


私は黙った。


帰蝶様の言葉が頭の中で反響する。


信長を討つ。


時が来るまで我慢する。


私は膝の上で拳を握りしめた。


お初とお江の顔が浮かぶ。


母上様の疲れた目が浮かぶ。


そして、信長の笑い声が耳に響く。


私は目を閉じた。


「帰蝶様は、今も信長殿を憎んでいますか?」


その質問に、彼女が一瞬黙った。


そして、静かに答えた。


「憎しみは消えません。父を殺した男ですもの。でもね、茶々、憎しみだけで生きるのは辛い。私は信長殿を理解しようとした。彼の強さ、彼の冷酷さ、彼の夢。それを知ることで、私は生きてこられた。あなたもいつか、そうなるかもしれない」


理解する? 信長を? 私は目を丸くした。


そんなこと、考えたこともなかった。


帰蝶様が笑う。


「驚いた顔ですね。今はわからなくて良いのよ。茶々、あなたはその憎しみを力に変える。大きくなって、信長殿を討つ也好し、彼を手玉に取る也好し。あなたの定めは、あなたが決める」


私は言葉を失った。


部屋の外で、風が木々を揺らす音が聞こえる。


私は膝の上で拳を緩めた。


信長への憎しみが、私をどこへ連れて行くのか。


私にはまだわからない。


でも、帰蝶様の言葉が、胸の奥に小さな火を灯したような気がした。



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