②③話 帰蝶との出会い
私は闇雲に廊下を突き進んだ。
足音が木の床に反響し、息が乱れる。
どこへ向かっているのかもわからない。
ただ、母上様の言葉と信長の笑い声から逃げ出したかった。
長い廊下が続く。薄暗い灯籠の光が壁に揺れ、私の影を長く伸ばす。
胸が締め付けられる。
涙が頬を伝い、拭う気力もないまま走った。
ふと、視界が開けた。
広い中庭に出ていた。
風が頬を撫で、涙の跡を冷たくする。
私は立ち止まり、息を整えた。
目の前に広がる庭は、城とは思えないほど静かで広大だった。
青々とした芝の上に、侍女と思しき女たちが集まっている。
彼女たちは薙刀を手に、鋭い動きで稽古をしていた。
刃が空を切り、汗と砂埃が舞う。
私は目を細めた。
女たちが戦う姿なんて、近江では見たことがなかった。
中庭に下りる廊下の段に、ひとりの女性が腰を下ろしていた。
彼女は一際目を引く美しさだった。
気高い雰囲気が漂い、着ている衣は明らかに他の侍女たちと格が違う。
深い藍色の袿に金の刺繍が施され、髪は黒く艶やかに結い上げられている。
私は柱の陰に身を隠し、じっとその姿を見つめた。
誰だ? この城にこんな人がいるなんて、知らなかった。
「そこ、踏み込みが甘い! ほれ、振り下ろして脇が開いているとは、それで敵を斬れると思っているのか!」
その女性が声を上げた。
鋭く、だがどこか落ち着いた響き。
私は息を潜めた。
彼女の視線が侍女たちを捉え、一人ひとりの動きを厳しく見つめている。
まるで戦場に立つ武将のようだ。
私は目を離せなかった。
砂埃が風に乗り、鼻をくすぐる。
「くしゅっん!」
しまった。
舞い上がった砂埃でくしゃみが出てしまった。
音が中庭に響き、私は慌てて柱の陰に身を縮めた。
だが、遅かった。
「何やつ!」
一人の侍女が叫び、薙刀を手に私の方へ近づいてくる。
刃先が鈍く光り、私の心臓が跳ね上がる。
私は思わずその気高そうな女性の方へ駆け出した。
足がもつれそうになりながら、彼女の近くに辿り着く。
「やめなさい」
静かな声が響く。
侍女が動きを止めた。
「はい」
薙刀が下がる。
私は息を吐き、目の前の女性を見上げた。
彼女が私を見つめ返す。
近くで見ると、その美しさはさらに際立っていた。
目が鋭く、だがどこか優しさを湛えている。
私は言葉を失った。
「幼子に刃を向けるように教えたことはありませんよ。さぁ、恐がらずにおいでなさい。それにしても、どこから迷い込んだ姫でしょうか? 家臣が上様に挨拶にでも連れてきたのでしょうか」
彼女が私の目の高さに屈み、穏やかに話しかけてくる。
私は一瞬、信長の顔が頭をよぎり、胸が締め付けられた。
だが、この女性の声には敵意がない。
私は唇を噛み、意を決して口を開いた。
「茶々と申します。浅井長政の娘です」
声が掠れた。
父上様の名を口にするたび、胸が熱くなる。
彼女が目を細める。
「あら、そう言えばお市殿に似ておりますね」
その言葉に、私はハッとした。
母上様を「殿」と呼ぶこの人は誰だ? 私は彼女を見上げ、思わず尋ねた。
「母上様を殿呼びするあなたさまは?」
彼女が小さく笑う。
柔らかな笑顔だった。
「あら、これは私としたことが、幼子に名乗らせておいて名乗っていませんでしたね。我が名は濃、みな今は帰蝶と呼びます」
「帰蝶様? ・・・・・・あっ、伯父上様の正室!」
私は目を丸くした。
織田信長の妻。
母上様が近江にいた頃、帰蝶の名で手紙や贈り物が届いたことを思い出した。
鞠や小さな扇子。
あの頃は、それが信長の妻からのものだと深く考えなかった。
「名くらいはお市殿に聞いていましたか?」
「はい、何度か近江に贈り物を賜り、ありがとうございました。」
私は小さく頭を下げた。
帰蝶が頷く。
「敵になろうとお市殿とその姫が心配でしたから。そう言えば、今日は信長殿と対面の儀だったのでは?」
その言葉に、私は凍りついた。
信長。
あの男の顔が頭に浮かび、胸が締め付けられる。
私は黙り込んでしまった。言葉が出てこない。
帰蝶が私の表情を見て、静かに襷を解いた。
「今日の稽古はこれまで。さぁ、茶々、私の部屋に来なさい」
彼女が私の手を引く。
その手は温かく、力強かった。
私はされるがままに、帰蝶の後を追った。
彼女の部屋へと続く廊下を歩きながら、私は信長への憎しみと、母上様への怒りを胸に抱えたままだった。




