表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/63

②①話 織田信長との対面・前編

足音が響く。


大きくはない。


だが、なぜか耳に触るその音が、どんどんと近づいてくる。


木の廊下を踏みしめる、規則的で力強い音。


まるで私の心臓を叩くように、ひとつひとつが胸に突き刺さる。


私は膝を抱えたまま、顔を上げず、ただその音を聞いていた。


広間の端に座る私の耳に、それは執拗に絡みついてくる。


「廊下が汚れておる、しっかり拭かせよ。我が城で廊下を歩いて足裏が汚れるなどあってはならん」


声が足音と重なる。


低く、太く、どこか苛立ちを孕んだ響き。


私は目を閉じたまま、その声音を頭の中で反芻する。


あの声だ。


あの、記憶の底に沈めたはずの声。


炎と血の匂いの中で聞いた、あの男の声だ。


「はっ、しかと指導いたします」


別の声が恭しく応じる。


家臣だろう。


緊張した声音が、広間の空気を一層硬くする。


私は瞼の裏で、父上様の顔を思い浮かべていた。


浅井長政。


あの優しく、穏やかで、それでいて戦場では鋭い眼差しを放った父上様。


あの人が最期にどんな顔をしていたのか、私は知らない。


小谷城が燃え、母上様が私とお初を連れて逃げ出したとき、私はまだ幼かった。


あの日の記憶は断片的で、炎の赤と泣き声だけが残っている。


足音が止まる。


広間に誰かが入ってきた気配がする。


私は膝の上で拳を握りしめた。


爪が掌に食い込む痛みが、私を現実につなぎとめる。


母上様が隣で微かに動く気配。お初の小さな息づかい。


そして、私の心臓が早鐘を打つ音。


それらが混じり合いながら、広間の静寂に溶けていく。


そして、その男が上座中央に腰を下ろした。


重い衣擦れの音が響き、私は歯を食いしばる。


あの男だ。


織田信長。


私の父を殺した男。


浅井家を滅ぼし、私のすべてを奪った男。


「お市、無事でなによりだ。面を上げて楽にいたせ」


その言葉が耳に届いた瞬間、私は身体が硬直する。


お市。母上様を呼び捨てにするその傲慢さに、胸の奥で何かが燃え上がる。


だが、同時に母上様が顔を上げる気配を感じ、私は仕方なく顔を上げた。


お初も私に倣う。


目の前に広がる光景を、私は睨むように見つめた。


髭を蓄えた男がそこにいた。


父上様より年上に見える。


40歳を超えているはずだ。


鋭い目がギラギラと光り、まるで獲物を捕らえる鷹のよう。


その視線が広間を支配している。


私は唇を噛みしめた。


あの目だ。


父上様の首を見下ろしたであろう目。


私の故郷を焼き払ったその目。


母上様をお市と呼び捨てにしたことから、この男が織田信長であることは明白だった。


私は視線を逸らさない。


逸らせば負けた気がするからだ。


「兄上様のお計らいで織田家に戻れたこと、深く感謝いたします」


母上様の声が静かに響く。私は一瞬、耳を疑った。


「えっ?母上様?」


思わず口から零れた言葉。


声が震えていた。


恨み辛み、そして怒りの言葉ではないのか? 私は母上様の横顔を見つめた。


穏やかな表情。


どこか疲れを含んだ、しかし落ち着いた顔。


あの燃える城で泣き叫んでいた母上様はどこへ行ったのだろう。


「うむ、金ケ崎の陣に陣中見舞いを送ってくれたであろう? 織田家の姫としての振る舞いだ。あれがなければ浅井の者として磔といたしていたがな。それに母上様の願いを聞きたい。格別のはからいを持って織田家帰参を許そう」


信長の言葉が重く響く。


金ケ崎の陣。


あの裏切りがなければ、浅井家は滅びなかったかもしれない。


私は唇を噛みしめた。


母上様が織田家のために動いたなんて、知らなかった。


知りたくもなかった。


「ありがたき幸せに存じます」


母上様が頭を下げる。


私は目を大きく見開いた。


何だこれは? 何が幸せだ? 父上様を殺した男に感謝するなんて、私には理解できない。


頭の中がぐちゃぐちゃになり、熱いものがこみ上げてくる。


「うむ」


信長が頷き、短い会話が終わる。


そして、その鋭い視線が私たちの方へ向いた。


私は息を止めた。


あの目が私を捉える。


心臓が跳ね上がる。


憎しみが、恐怖が、怒りが、渦を巻いて胸を締め付ける。


「ご挨拶致しなさい」


母上様が静かに促す。


私は口を開く気になれなかった。


あの男に挨拶? 冗談じゃない。


父上様の敵に頭を下げるなんて、できるはずがない。


しばらく黙り込んでいると、お初が小さな声で囁いた。


「姉上様?」


その声に、私はハッとする。


お初の怯えた目が私を見ている。


ここで私が感情を爆発させれば、お初や母上様に迷惑がかかるかもしれない。


私は歯を食いしばり、ぐっと堪えた。


はぁ~。


一呼吸吐き、私は立ち上がる気力を振り絞った。


「浅井長政の娘、茶々と申します。どうかよろしくお願いいたします」


声が震えた。


喉が締め付けられるようだった。


お初が続く。


「初と申します」


母上様が腕の中の江を抱きながら言う。


「兄上様、今抱いている姫は江と申します」


「うむ、そうであるか。良い顔をしておるの。お市の小さな時を思い出す。どうです母上様」


信長が笑みを浮かべる。


私は目を細めた。


良い顔? 何だその上から目線は。


お前のせいで私たちはこんな目に遭っているのに。


「そうですね、確かに面影はありますね。きっと美人に育つでしょう」


母上様が穏やかに答える。


私は耳を疑った。


「まぁ~母上様ったら」


お初が小さく笑う。


おかしい。おかしい。


なんで敵味方だったのに、そんなことがなかったように話すんだ? 私は頭の中で叫んでいた。


父上様の死は? 浅井家の滅亡は? あの炎の中で失ったすべては? 私の心が軋む。


怒りがこみ上げ、座ってはいられなかった。


私は無意識に立ち上がっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ