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②⓪話 岐阜城登城

兄上様の死を知ってから、どれほどの月日が流れたのか、私にはもう定かではない。


ただ、冷たい風が頬を刺すたび、あの日の炎と血の臭いが鼻腔をよぎる。


母上様に連れられて岐阜城へと向かった私は、心の底で燃え続ける憎しみを押し殺しながら、対面の間に静かに座っていた。


畳の冷たさが掌に染み込み、まるで私の凍てついた心を映し出すかのようだった。


「姉上様、すごい城ですね。庭に滝があります」


お初の声が弾むように響いた。


妹は岐阜城の絢爛豪華な造りに目を輝かせ、純粋な喜びを隠そうともしない。


庭に流れる滝の音が遠くから聞こえ、確かにその水音は耳に心地よい。


黄金に彩られた柱、緋色の幕が揺れる様は、まるでこの世のものとは思えぬ美しさだ。


だが、私にはそれが虚飾にしか見えなかった。


織田信長が築いたこの城は、彼の傲慢さと血塗られた野心そのものではないか。


喜ぶ気には到底なれず、私はただ黙って座り続けていた。


胸の奥で蠢く黒い感情を悟られぬよう、顔を上げることさえ避けた。


「茶々、くれぐれも兄上様、織田信長に口答えはせぬようにね。あなただけではなくお初やお江もいるのです。これから生き続けるために堪えなさい」


母上様の声は静かだが、どこか張り詰めた響きを帯びていた。


彼女の瞳には、私たちを守ろうとする強い意志と、諦めにも似た影が宿っている。私はその視線を感じながら、かすかに頷いた。


「はい、わかっております。母上様」


言葉を返す私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


だが、心の中はまるで嵐のように荒れ狂っていた。


口で争ったところで、兄上様を奪った無念が晴れるはずもない。


織田信長、あの天魔王と呼ばれる男をこの手で殺すには、力が必要だ。


私の幼い腕では、彼の喉元に刃を突き立てることなど夢のまた夢だとわかっている。


それでも、憎しみは消えない。


消えてたまるものか。


その時が来るまで、私は歯を食いしばり、じっと堪えるしかないのだ。


しばらくの間、私たちは対面の間で待たされた。


静寂が重くのしかかり、時折遠くから聞こえる家臣たちの足音だけが、その沈黙を破る。


畳の目に指先を這わせながら、私は心の中で何度も呪詛の言葉を繰り返していた。


信長を殺す。


信長を殺す。


信長を殺す。


そのたびに、胸の奥が熱く疼いた。


「上様はもう少し時がかかります」


家臣の一人がそう告げにやって来た。


膝をつき、恭しく頭を下げるその姿に、私は一瞬だけ目を細めた。


信長に仕える者たちでさえ、彼を畏れ敬う様子が手に取るようにわかる。


どれほどの権勢を誇ろうと、私にはただの仇でしかないのに。


「さぞ忙しいのでしょうね」


母上様が穏やかに返した。


彼女の声には棘がなく、むしろ疲れが滲んでいるように感じられた。


私はそっと横目で母上様を見た。


織田家の娘として生まれ、父上を失い、今また信長の庇護下に身を寄せる彼女の心中を、私は計り知れない。


ただ、その背中に宿る寂しさが、私の心を締め付けた。


その時、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。


庭が見えるよう開け放たれた縁側に目をやると、一人の老婆がゆっくりと姿を現した。


白髪を結い上げたその姿は、どこか威厳を湛えている。


だが、私は一瞬、眉をひそめた。誰だ?


「お市、よう無事で戻ってきました。母は本当に心配していたのですよ」


老婆の声は柔らかく、深い安堵に満ちていた。


母上様がその言葉に顔を上げると、彼女の表情が一瞬だけ緩んだ。


「お母上様、お懐かしゅうございます。母上様こそ息災の御様子で安心致しました」


上座に腰を下ろした老婆は、私たちに優しい眼差しを向けてきた。


その視線には、長い年月を生き抜いた者の温かさと、どこか哀しみが混じっている。


私はその顔をじっと見つめた。確かに母上様と面影が似ている。


私たちの祖母にあたる人だ。


「茶々、お初、ご挨拶しなさい。私の母、あなたたちの祖母、御祖母様ですよ」


母上様に促され、私は一瞬だけ息を呑んだ。


お初が先に立ち上がり、私はその後に続いた。


畳に手を突き、頭を下げる前、私は一呼吸置いて心を整えた。


「浅井長政の娘、茶々にございます」


私の声は低く、抑揚を抑えたものだった。


名乗りを上げるその瞬間さえ、信長への憎しみが頭をよぎり、喉が締め付けられるようだった。


「同じく、初にございます」


お初の声は私より明るく、無垢な響きを帯びていた。


彼女の純真さが、私の暗い心と対照的で、どこか眩しく感じられた。


母上様は膝に抱いていたお江をそっと前に出し、その小さな顔を見せた。


「これが三女の江にございます」


お江の小さな寝息が聞こえるほど、対面の間は静かだった。


御祖母様は目を細め、まるで宝物を見つけたかのように微笑んだ。


「そうですか、よう名乗れました。褒美に菓子をあげましょう」


彼女が手を鳴らすと、侍女が盆に載せた見慣れぬ菓子を運んできた。


白く小さな粒が並ぶその姿は、まるで雪の結晶のようだ。


私は首をかしげた。


「こんへいとうとか言う異国の菓子です。召し上がりなさい」


御祖母様の言葉に、私は母上様の顔を見た。


彼女が小さく頷くのを見て、恐る恐るその菓子に手を伸ばした。


お初も同じように一粒を手に取り、二人で同時に口に含んだ。


瞬間、驚くほどの甘さが舌の上に広がり、私は思わず目を丸くした。


今まで味わったことのない、濃厚で異国情緒溢れる甘さだった。


「甘いです母上様」


お初が無邪気に笑った。


その声に、対面の間に微かな温かさが広がる。私は内心で葛藤していた。


確かに美味しい。


だが、この甘さは信長の城で出されたものだ。それを素直に喜ぶ自分を許せなかった。


「茶々はどうかしら?」


御祖母様の問いかけに、私は一瞬言葉に詰まった。


だが、隠しきれぬ美味しさに正直になるしかなかった。


「とても美味なるものにございます。母上様」


その言葉を口にした瞬間、悔しさが胸を刺した。


信長の城で与えられたものに喜びを感じるなんて、私の心はあまりにも脆いのではないか。


「そう良かったわね。とても高価なものですから味わって食しなさい」


御祖母様の声は優しかった。


彼女はさらに続けた。


「菓子の甘さでこれまでの大変さ忘れられるなら、この祖母がいくらでも買ってあげましょうぞ」


その言葉に、母上様が小さく首を振った。


「母上様、無理をしないで下さい」


「良いのです。信長に出させますから。血の繋がる妹、そして姪達を苦しめるなど、天下人となろうとしている者があってはならないのです」


御祖母様の声には、どこか鋭い響きが混じっていた。


私はその言葉に耳を傾けながら、心の中で小さく頷いた。


彼女の言う通りだ。


信長に苦しめられることなどあってはならない。


だが、私の憎しみはそんな穏やかな解決を望んでいない。


血には血を。


命には命を。


私はそう思わずにはいられなかった。


「母上様、武家に生まれし女の定めと私はすでに割り切っております」


母上様の言葉は静かで、深い諦念が滲んでいた。


私はその声を聞きながら、彼女の強さと脆さを同時に感じた。


「あなたはそうであっても、幼子達はまだなにもわかっていないはず。幼子にはなんの罪もありません。万福丸とやらにも会いたかった・・・・・・」


御祖母様の声が途切れ、対面の間に重い沈黙が落ちた。


万福丸。


私の兄、父上の跡継ぎだった幼子の名だ。


あの戦で信長に命を奪われた兄の名を聞き、私は一瞬息を止めた。


お初が不思議そうに母上様の顔を覗き込むのが見えたが、私は目を伏せた。


「母上様、万福丸の話はお止め下さい」


母上様の声は小さく、だがきっぱりとしたものだった。御祖母様は小さく息をつき、話題を変えた。


「聞かせなくて良い事をつい口にしてしまいました。さて、その赤子、お江を抱きましょう」


彼女が母上様に近づこうとしたその時、廊下に座していた小姓が声を上げた。


「上様の御成でございます」


その一言に、対面の間の空気が一変した。


御祖母様が姿勢を正し、母上様が深く頭を下げた。


私とお初もそれに倣い、畳に手を突き、額を下げる。


心臓が激しく鼓動し、憎しみが再び胸を焦がした。


織田信長。私の仇が、ついに姿を現すのだ。



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