①話 小谷城落城
私の声は小谷城の薄暗い一室に小さく響いた。
まだ九つの私は畳の冷たい感触を足裏に感じながら、父上様、浅井長政の背中を見つめていた。
「伯父上様に御免なさいすればいいのでは? 父上様、もう降伏しましょう父上様」
その言葉は、私の幼い心から自然にこぼれ落ちたものだった。
だが、それがどれほどの重みを持つのか、どれほど父上様の心を抉るのかを私はまだ理解していなかった。
天正元年、九月一日・朝
窓の外からは織田信長の軍勢が押し寄せる足音が近づき、遠くで火縄銃の乾いた音が絶え間なく響いていた。
パンパンという鋭い音が空気を切り裂き、そのたびに部屋の障子が微かに震えた。
風が運んでくるのは焦げた木の匂いと、火薬の鼻を刺すような臭い、そして血の鉄錆びた気配。
薄い障子越しに差し込む朝の光は、まるで現実を遠ざける薄い膜のようだったが、その向こう側で何かが確実に崩れつつあることを幼いながらも肌で感じていた。
「そうだな、茶々」
父上様の声は低く、かすかに震えていた。
私を強く抱きしめるその腕は戦場で鍛えられた力強さを持つはずなのに、今はどこか頼りなげで、まるで壊れ物に触れるような慎重さがあった。
甲冑の冷たい感触が私の頬に触れ、その硬さが妙に現実味を帯びていた。
私は父上様の胸に顔を埋め、震えるその体を感じながら、何か言わなければと思っていた。
父上様が震えているのは死の恐怖なのか、それとも私たちとの別れを惜しんでいるのか。
若かった私にはその真相を測りかねたが、どちらにせよ、私の心は締め付けられるように痛んだ。
父上様の甲冑に触れる私の小さな手は、冷たく硬い鉄の感触を伝えてくる。
降伏すればすべてが終わる、
伯父上様・織田信長に詫びを入れれば、私たちはまた穏やかな日々に戻れると信じていた。
だが、その願いはあまりにも幼く、あまりにも儚かった。
「茶々、お前は優しい子だな」
父上様はそう呟き、私の頭をそっと撫でた。
その手は大きく、荒々しい戦の手だったが、今はただ温かかった。
私は涙をこらえ、父上様の甲冑に手を伸ばして触れた。
部屋の中は静かで、ただ時折、遠くの火縄銃の音が障子を震わせていた。
パチン、パチンという音が連なり、時折、大きな破裂音が空気を揺らし、耳に突き刺さる。
私は父上様の顔を見上げた。
そこには、疲れ果てた目と、深い皺が刻まれた額があった。
いつもは毅然としていた父上様の表情が、今はどこか儚げで、私の知る父上様とは別人のようだった。
外では鉄砲隊が次々と火縄に火をつけ、硝煙が風に乗り、部屋の隙間からかすかに漂ってくる。
その臭いは喉を焼くようで、私は思わず咳き込んだ。
その時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
襖が勢いよく開き、家臣の一人が息を切らして飛び込んできた。
「殿! 織田の軍が本丸に迫っております! 鉄砲隊が城壁に近づき、矢と弾丸が飛び交っております! 急がねばなりません!」
その声は切羽詰まり、汗と血にまみれた顔が戦の苛烈さを物語っていた。
父上様は私をそっと離し、立ち上がった。
甲冑が小さく音を立て、その姿はまるで山のように大きく見えた。
だが、その背中には言いようのない疲労と諦めが漂っているようにも感じられた。
「市、茶々たちを頼む。城を出て、織田の陣へ向かえ。信長は妹であるお前を殺しはせん」
父上様の声は落ち着いていたが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。
私は父上様の言葉を聞きながら、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
母上様・お市は静かに頷き、私たち三姉妹をそばに引き寄せた。
お初は私の隣で小さく震え、お江は母上様の腕の中で眠っていた。
私は父上様の背中を見つめ、何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まって出てこなかった。
父上様は私たちに背を向け、刀を手に持つと、家臣と共に部屋を出て行った。
その背中が遠ざかるのを見ながら、私はその時、父上様がもう戻らないかもしれないと悟った。
襖が閉まる音が、静寂の中に重く響いた。
外では、火縄銃の連射音が一層激しくなり、硝煙の臭いが部屋に流れ込んできた。
母上様は私とお初の手を強く握り、低い声で言った。
「茶々、お初、しっかり私の手を離すんじゃないよ。お江も私が抱いている。城を出るのです」
その言葉に私はただ頷くしかなかった。
母上様の目は鋭く、けれどその奥には涙が滲んでいた。
私たちは急いで支度を整え、裏門へと向かった。
部屋を出る瞬間、私は振り返って父上様が立っていた場所を見た。
そこにはもう誰もおらず、ただ冷たい空気と硝煙の臭いだけが残されていた。
小谷城が陥落する直前、私たちは混乱の中を逃げ出した。
裏門を出た瞬間、目の前に広がるのは地獄のような光景だった。
燃え盛る炎が空を赤く染め、矢が風を切り裂く音が耳をつんざく。
火縄銃の乾いた音が絶え間なく響き、硝煙が視界を白く霞ませていた。
パンパンという音が近くで鳴り響き、近くの城壁に弾丸が当たるたび、土と木の破片が飛び散った。
逃げ惑う家臣や民の叫び声が響き合い、足元には血に濡れた土が広がっていた。
私は母上様の手を握りながら、必死に足を動かした。
お初は私の袖を掴み、幼い足で懸命に歩いていた。
お江は母上様の腕の中で小さく泣き、母上様はその小さな体をしっかりと抱きしめていた。
風が吹き抜け、炎の熱と硝煙の臭いが顔に当たる。
私は目を細めながら、前を見据えた。
どこへ向かっているのか、何が待っているのか分からない。
ただ、母上様の手の温かさが、私を現実に繋ぎ止めていた。
「早く、早く!」
母上様の声が響き、私たちは森の奥へと逃げ込んだ。
木々の間を抜け、泥に足を取られながらも進んだ。
枝が顔をかすめた。
「痛い」
そう言葉にしても母上様は足を止めることはなかった。
冷たい土が足に絡みつく。
背後では織田の鉄砲隊が城壁を攻撃し続け、火縄銃の連射音が森に反響していた。
時折、大きな喊声が上がり、槍や刀がぶつかり合う金属音が混じる。
城の周辺では浅井の兵が必死に抵抗しているのだろう。
硝煙の臭いが森の中にも漂い、喉が焼けるような感覚に襲われた。
私は咳き込みながらも、母上様の手を離さないよう必死に握った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
息が上がり、心臓が激しく鼓動する中、前方から馬蹄の音が近づいてきた。
私は思わず立ち止まり、母上様の背に隠れた。
お初も私の腕を強く握り、震えていた。
木々の隙間から見えるのは、織田の木瓜紋が描かれた旗を掲げる兵たちだった。
彼らが私たちを取り囲むと、槍の先が朝日を反射して鋭く光った。
近くで火縄銃が発射され、その衝撃で地面が小さく揺れた。
先頭の男が馬から降り声を荒げた。
「女、どこに行く? さては浅井家の者だな!」
その声に、私は母上様の着物の裾をぎゅっと握った。
母上様は一歩前に出て、毅然とした声で応じた。
「無礼者、私は織田信長の妹、市なるぞ! 浅井家に嫁いだとはいえ、織田家の者なら礼儀を持って扱うのが武士の務めであろう」
その言葉に、兵たちの間に動揺が走った。
先頭の男が兜を脱ぎ、膝をついた。
「これは失礼仕りました。我は織田永継の子、今は藤掛家に入り、三蔵永勝を名乗っております。お市様、戦場とはいえ失礼いたしました。殿より、お市様は必ず助けよと下知が下されております。どうかご安心下され」
母上様は冷たく見下ろし、静かに尋ねた。
「私の命だけですか? 姫たちは?」
その声には、娘たちを守ろうとする強い意志が込められていた。
三蔵永勝は慌てて答えた。
「姫様も必ず助けよとの命にございます。どうかご安心なさって我が陣へお越しください」
母上様は一瞬、目を閉じて考え込んだ。そして小さく息をつくと、私たちを見下ろして言った。
「致し方なし……茶々、お初、しっかり母の着物に捕まりなさい」
私は母上様の着物の裾を掴み、お初も同じようにした。お江は母上様の腕の中で静かに眠っていた。
私たちは織田の兵に囲まれながら、戦場を離れ、陣屋として使われている寺へと向かった。
馬の足音と兵士たちの低い話し声が耳に届く。
遠くでは火縄銃の音が途切れることなく続き、硝煙が空を白く染めていた。
時折、大きな爆音が響き、城の一部が崩れる音が聞こえた。
私は母上様の手を握りながら、足元を見つめて歩いた。
背後では、小谷城が燃える音が遠くに響き、炎の熱が風に乗って届いてくるようだった。
寺の一室に匿われた私たちは、息を潜めて戦の音を聞いていた。
遠くで響く喊声、火縄銃の乾いた連射音、そして時折聞こえる城の崩れる音。
硝煙の臭いが寺の周辺にも漂い、窓の隙間から薄い煙が流れ込んでくる。
城を出たとはいえ、戦火がすぐ近くにあることは明らかだった。
私は母上様の膝に凭れながら、窓の外をぼんやりと見つめた。
外は夕暮れが近づき、空が赤と黒に染まっていた。
「母上様・・・・・・父上様は・・・・・・?」
私は震える声で尋ねた。
心のどこかで、父上様が生きていて私たちと再会できると思っていた。
幼さからの無知。
母上様はゆっくりと私たちを見渡し、静かに首を振った。
その目には涙が浮かんでいた。
「父上様は、この戦を最後まで戦うおつもりでしょう。浅井家の誇りを守るために」
その言葉に私は何も言えなかった。
ただ、小さな手でぎゅっと握り、母上様の着物の裾を握りしめていた。
お初も黙って私の隣に座り、目を伏せていた。
その夜、遠くに炎が上がるのが見えた。
窓の外に広がる赤い光は、小谷城が焼かれている証だった。
火縄銃の音は次第にまばらになり、代わりに喊声と金属音が響き渡る。
織田の兵が本丸に突入し、浅井の兵と激しくぶつかり合っているのだろう。
私はその光を見つめながら胸が締め付けられるような痛みを感じた。
父上様はあの炎の中にいるのだろうか。
私たちを残して戦い続けているのだろうか。
「茶々、覚えておきなさい。この戦は終わらないのです。戦が続く限り、私たちは生き延びねばなりません」
母上様の言葉は静かで、けれど重かった。
お初も小さく頷き、私の手を握り返した。
翌朝、私たちは仮の陣から少し離れた陣となっている寺へと移動することになった。
寺を出る時、私は振り返って燃え尽きた城の方向を見た。
煙が立ち上り、空を黒く染めていた。
遠くで最後の火縄銃の音が響き、静寂が訪れた。
戦は終わったのではなく、私たちの運命が新たに始まった時だった。
その時の私はまだ理解していなかった。
母上様の手を握りながら、私はただ前を向いて歩き続けた。
背後で燃える炎の音と硝煙の臭いが、遠くで響き続けていた。




