①⑧話 万福丸の死
兄上様が存命との話を耳にした日から、二週間と三日が過ぎていた。
その夜、私は深い眠りの中で夢を見ていた。浅井の城が燃え上がり、赤黒い炎が空を覆う。
遠くで母上様の声が聞こえるが、彼女の姿は見えない。
代わりに、幼い頃の兄上様、万福丸が私の手を握り、「茶々、逃げろ」と囁く。
その声が現実と混じり合い、私は汗に濡れた布団の中で目を覚ました。
部屋は暗く、静まり返っていた。
枕元に置かれた水差しに手を伸ばそうとしたが、喉の渇きよりも先に異様な感覚が私を襲った。
母上様の気配がない。
いつもなら、彼女の微かな寝息が畳の上で響き、私を安心させるのに、今夜はその音がどこにもなかった。
私は布団の中で身体を起こし、目を凝らして部屋を見回した。
母上様の寝床は整然としていた。
掛け布団は畳まれ、まるで誰もそこに寝ていなかったかのように静かだ。
私は一瞬、胸が締め付けられるような不安に襲われた。
母上様はどこへ行かれたのだろう。こんな深夜に、一体何が起こっているのか。
「母上様?」
小さな声で呼びかけてみたが、返事はない。
暗闇に慣れた目で部屋の隅々を見渡しても、そこにはただ静寂が広がっているだけだった。
心臓が早鐘を打ち始め、冷や汗が背中を伝う。
私は薄い寝間着のまま立ち上がり、畳の冷たさが足裏に染みるのを感じながら廊下へ出た。
木造の屋敷は夜の冷気を含み、足音が小さく軋むたびに私の心も一緒に軋んだ。
厠へ向かうつもりだったが、その途中でふと中庭に目をやった。
すると、そこに母上様の姿があった。
月明かりが中庭を淡く照らし、母上様の白い着物が幽霊のように浮かび上がっている。
彼女はただじっと立っていた。
越前の方角を向いて、手を合わせている。
その姿はあまりにも儚く、まるでこの世のものではないように見えた。
風がそっと吹き抜け、彼女の髪が微かに揺れた。
月光がその髪に反射し、まるで銀の糸が舞うようだった。
私は息を呑み、足を止めた。母上様の肩が微かに震えているのに気づいた。
涙だ。
母上様は一人で静かに泣いていた。
月光がその涙を反射し、まるで小さな宝石のように輝いている。
私はその光景に胸を締め付けられながら、そっと声を掛けた。
「母上様、いかがなされました?」
母上様の肩がびくりと動いた。
彼女はゆっくりと振り返り、私を見た。
その瞳は涙で濡れ、深い悲しみを湛えている。
だが、すぐにその表情を隠すように微笑みを浮かべた。
いつも通りの優しい母上様の顔だ。
しかし、その笑顔はどこか脆く、まるで薄いガラス細工のように見えた。
「なんでもないわよ。茶々は厠? 付いて行ってあげますよ」
その声は穏やかだったが、どこか無理をしているように聞こえた。
私は首を振って、子供扱いする母上様に少し苛立ちを覚えた。
だが、それ以上に彼女の涙の理由が気になって仕方なかった。
「私、そんなに子供ではありませんよ母上様。それより本当にどうしたというのです? もしかして兄上様になにか?」
母上様の顔から笑みが消えた。
一瞬、時間が止まったかのように彼女は私を見つめた。
瞳の奥に、言葉にできない何かが揺れている。
私はその視線に耐えきれず、胸の奥で疼く不安をそのまま口にした。
あの日、藤掛永勝が訪ねてきた時の記憶が蘇る。
兄上様が生きているかもしれないという、あの衝撃的な一言が。
「・・・・・・知っていたのですか?」
母上様の声は小さく、まるで風に消えそうなほど弱々しかった。
私は頷いた。
あの時、偶然耳にしてしまったのだ。
藤掛永勝が母上様とひそひそ話す声を、襖の向こうで聞き取ってしまったことを。
「はい、藤掛永勝が来た時、話を聞いてしまいました」
母上様は目を閉じ、深いため息をついた。
その姿はまるで長い旅の果てに疲れ果てた旅人のようだった。
彼女は再び越前の方角を向き、静かに語り始めた。
「そうですか・・・・・・戦で死んだとばかり思っていたのですが、越前に匿われているとの事だったので、私が引き取りたいと手紙を出したのです。でも、手紙より先に追っ手が」
「追っ手?」
私の声が思わず尖った。
母上様は悲しげに頷いた。
その瞳には、諦めと怒りが混じった複雑な光が宿っていた。
「羽柴藤吉郎秀吉の手の者が捕まえ、磔といたしたと」
その言葉が私の頭に突き刺さった。
羽柴。羽柴秀吉。
あの男の名前を聞くだけで、胃の底が煮え立つような怒りが湧き上がる。
私は拳を握り、母上様に詰め寄った。声が震え、抑えきれなかった。
「羽柴って、私達を捕まえようとした?」
「ええ、その様な事もありましたね。あの者は兄、織田信長が如何にすれば喜ぶかと行動するのです。今まで兄上様は裏切り者の一族を根絶やしに。幼子も容赦せずでした。ですから、伺いもせずに殺したのでしょう」
母上様の声は冷静だったが、その裏に隠された憤りが私にも伝わってきた。
私は叫ぶように言葉を吐き出した。
涙が溢れそうになるのを堪えながら、母上様を見つめた。
「なんで! なんで兄上様まで死なないとならないんですか? 母上様!」
私の声が中庭に響き、夜の静寂を切り裂いた。
母上様はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
その声は低く、まるで深い井戸の底から響いてくるようだった。
「それが織田を裏切ると言うことです。そして男は幼子であろうと殺される。茶々、女として生まれてきたことに感謝しなさい」
その言葉が私の胸に突き刺さった。
感謝? こんな世界で女として生きることに感謝しろと? 私は歯を食いしばり、思わず叫んだ。
「私は男として生まれたかった。男だったら浅井家を再興して、仇を討ったのに!」
瞬間、母上様の手が私の左頬を打った。
軽い、痛みもほとんどない叩きだったが、その衝撃は私の心を揺さぶった。
母上様の目は涙に濡れ、深い悲しみに満ちていた。
彼女の手が私の頬に触れたまま、微かに震えている。
「茶々、今の言葉、二度と口にするでありません。兄上様……織田信長なら容赦せずあなたも殺されるでしょう。生きたいなら……いや、生きて浅井家の血を残したいと思うなら、今の事は腹の中にしまいなさい。それと、万福丸の事はお初には伏せておきなさい」
「はい、母上様・・・・・・」
私は口答えしたかった。
喉まで言葉が込み上げていた。
でも、母上様の顔を見た瞬間、それが全て飲み込まれた。
落城の時よりも悲しい目だった。
あの時、炎に包まれた城を見上げながら、母上様は同じ目をしていた。
私は唇を噛み、言葉を押し殺した。
織田信長、許さない。
羽柴秀吉、許さない。
絶対に・・・・・・。
兄上様との思い出・・・・・・。
母上様が部屋に戻った後も、私は眠れなかった。
中庭での会話が頭の中で何度も繰り返され、怒りと悲しみが波のように押し寄せてくる。
私は布団の中で拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じながら、兄上様との思い出を呼び起こした。
あれは、私がまだ五つの頃だった。兄上様、万福丸は八つだった。
浅井家の庭で、兄上様は私に木刀を手に持たせ、笑いながら言った。
「茶々、強くなれよ。俺が守ってやるから」
その時の兄上様の笑顔が、今でも鮮やかに蘇る。
陽光が彼の顔を照らし、風に揺れる黒髪がまるで生き物のように跳ねていた。
私は小さな手で木刀を握り、兄上様の真似をして振り回した。
だが、力が入らず、すぐに疲れてしまって、座り込んでしまった。
「もうだめだよ、兄上様。私、弱いよ」
そう言うと、兄上様は私の頭を軽く叩き、優しく笑った。
「弱くてもいいさ。俺がいるから。でも、茶々は絶対に諦めるなよ。約束だ」
その言葉が、私の胸に刻まれた。
あの日の約束を、私は今でも忘れていない。
兄上様はいつも私のそばにいてくれた。
庭で一緒に凧を揚げたり、川辺で石を投げて遊んだりした。
ある日、兄上様は私に小さな石を渡して言った。
「これ、茶々の宝物な。お前が泣かないように、俺が守ってやる」
その石は、今でも私の手元にある。
布に包んで、母上様の知らない場所に隠している。
あの小さな石が、兄上様との絆の証だった。
落城の日、兄上様は私とお初の手を引き、母上様の後ろを走った。
炎が迫り、煙が目を刺す中、兄上様は私に囁いた。
「茶々、生きろ。絶対に生きろよ」
その声が、最後に聞いた兄上様の言葉だった。
それから、彼が戦場で死んだと聞かされた。
私は泣き叫び、母上様にすがった。
でも、心のどこかで信じられなかった。
兄上様が死ぬはずがない。
あの強い兄上様が、私を置いて逝くはずがない。
そして、藤掛永勝の言葉を聞いた時、私は一瞬、希望を見た。
兄上様が生きている。
越前にいる。
でも、今夜、母上様の涙を見て、その希望が無残に打ち砕かれたことを悟った。
私は布団を跳ね除け、立ち上がった。
部屋の隅に置かれた小さな箱を開け、あの石を取り出した。
月明かりの下で、それは静かに輝いていた。
私は石を握り締め、涙が溢れるのを堪えた。
「兄上様、私、諦めないよ。約束だよ」
翌朝、母上様はいつも通りの顔で私を迎えた。
昨夜の涙は跡形もなく、彼女は穏やかに微笑みながら朝餉の支度をしていた。
私はその姿を見ながら、胸の奥で疼くものを感じた。
母上様は、どれだけの悲しみを隠してきたのだろう。
昼下がり、私は母上様が庭で一人でいるのを見つけた。
彼女は小さな花壇に水をやりながら、遠くを見つめていた。私はそっと近づき、声を掛けた。
「母上様、兄上様のことで一つ聞きたいことがあります」
母上様の手が一瞬止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、私を見た。その表情は穏やかだが、どこか緊張が混じっている。
「何でしょう、茶々」
「兄上様が生きていたなら、なぜ私に教えてくれなかったのですか?」
母上様はしばらく黙っていた。
彼女の手から水差しが落ち、土に小さな水たまりを作った。やがて、彼女は静かに語り始めた。
「実はね、茶々。私もずっと信じていなかったのです。兄上様が生きているなんて、夢物語だと思っていた。藤掛永勝が教えてくれるまでは・・・・・・」
その言葉に、私は息を呑んだ。
母上様は目を伏せ、続けた。
「でも、希望を持つのが怖かった。もし生きていたとしても、織田信長の手が届く限り、兄上様は安全ではなかった。だから、私は手紙を書くのをためらっていたのです。でも、永勝の言葉を聞いて、どうしても確かめたくなった」
母上様の声が震えた。
私は彼女の手を握り、そっと励ますように言った。
「母上様、それは仕方のないことです。私だって、同じ気持ちだったでしょうから」
母上様は私の手を握り返し、微かに微笑んだ。
でも、その笑顔はすぐに消え、彼女は再び遠くを見つめた。
「茶々、あなたには知ってほしい。私は浅井家の妻として、どれだけのものを失ってきたか。夫を、息子を、そして誇りを。でも、あなたとお初、お江がいる。それが私の生きる理由です」
その言葉が、私の心に深く響いた。私は母上様の手を強く握り、涙を堪えた。
彼女の痛みが、私にも伝わってくるようだった。
その夜、私は再び中庭に出た。
月は雲に隠れ、薄暗い夜空が広がっていた。
私は越前の方角を向き、手を合わせた。
兄上様の魂が、そこにいる気がした。
「兄上様、私に力をください」
小さな声で呟いた。風が私の髪を揺らし、冷たい空気が頬を撫でる。私は目を閉じ、心の中で誓いを新たにした。
兄上様との約束を果たす。
浅井家の血を残し、いつかこの恨みを晴らす日まで。




