①②話 旅路・琵琶湖を胸に刻む
近江を離れる輿の揺れ。
生まれ育った近江の地を離れ、私は岐阜へと向かう輿の中にいた。
輿の揺れは一定のリズムを刻み、木の軋む音が耳に届く。
時折、風が御簾を軽く持ち上げ、外の景色がちらりと覗く。
その揺れは心地よいものではあったが、同時に私の胸に不安を掻き立てるものでもあった。
輿の狭い空間に閉じ込められた私は、まるで籠の中の鳥のように外の世界から切り離されている感覚に苛まれた。
生まれ育った地とはいえ、私はほとんど小谷の城から出たことがなかった。
城の石垣に囲まれた生活の中で、近江の風土に特別な思い入れを抱く機会は少なかった。
城下の賑わいを遠くから眺めることはあっても、そこに足を踏み入れることは稀だった。
幼い頃、侍女たちに連れられて城の裏庭で遊んだ記憶がわずかにあるくらいだ。
そこには小さな池があり、父上様が「これが琵琶湖の縮図だ」と笑いながら教えてくれたことがあった。
あの時、私はただ無邪気に笑っていただけだ。
それでも、近江の海――琵琶湖が視界から消え、山間の木々がその姿を覆い隠すと、私の胸の奥に言いようのない寂しさが広がった。
輿の窓から見える風景が徐々に変わり、湖面の青が遠ざかっていく。
山の緑が迫り、風にそよぐ木々の音が湖の波音に取って代わる。
その瞬間、まるで何か大切なものを永遠に失ったような感覚に襲われた。
二度と琵琶湖を目にすることはできないかもしれない――そんな不安が、私の心を覆い尽くしていく。
幼い頃、父上様と母上様が湖畔で語り合う姿を思い出す。
あの時、父上は私の手を握りながら、
「この湖は近江の心だ。お前がどこへ行こうとも、この青を忘れるな」
と言った。
あの言葉が今になって重く胸に響く。
もしこの旅が、私と琵琶湖との永遠の別れを意味するならば、私はどうやってその青を心に留めておけばいいのだろう。
琵琶湖との別れを求めて我慢できず、私は輿の隣を歩く警護の兵に声をかけた。
「すまぬが、琵琶湖と別れをしたい。どこか見える丘に行ってもらえぬか?」
私の声は少し震えていたかもしれない。
それほどまでに琵琶湖をもう一度見たいという思いが強かった。
隊列が一瞬止まった。
兵たちは互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべた。
輿の外を歩く足音が途絶え、静寂が辺りを包む。
すると、御簾の外から硬い声が響いてきた。
「先を急ぎますので、お許しを」
その声には感情がなく、まるで操られた者のように事務的だった。
私はその冷たい返答に一瞬言葉を失った。
琵琶湖を見たいという私の願いはそんなにも軽いものなのか。
だが、その返答に不満を覚えた者がいた。
前田慶次利益が輿の近くで歩きながら口を挟んできた。
「おいおい、羽柴の兵はそんくらいのこともしてやれねぇのかい? 無粋だな」
彼の声は大らかで、どこかからかうような響きがあった。
私は輿の中からその姿を想像する。
背が高く、豪快な笑みを浮かべた慶次が、羽柴の兵たちを軽く見下ろしている様子が目に浮かんだ。
慶次の言葉に兵たちはさらに困惑したようだった。
隊列の中でざわめきが広がり誰かが小さく咳払いをする音が聞こえた。
先頭にいた男が、やや緊張した様子で毅然とした口調で答えた。
「前田様、日が暮れる前に宿に入りたく、申し訳ございません」
その声には命令を遂行することへの強い意志が込められていた。
彼らにとって、私の願いは任務の障害でしかないのだろう。
慶次は肩をすくめて私の方を見て気軽な口調で言った。
「だとよ、姫様。悪いな。誰が襲ってくるかわからねぇから勘弁してくれ。な~に、琵琶湖は落ち着いたら俺が連れてきてやるからよ。約束するぜ」
彼の言葉は軽い調子だったが、その裏には私を励まそうとする優しさが感じられた。
私は輿の中で小さく頷く。
慶次のその豪快さが、どこか心を軽くしてくれる。
「慶次、勝手な約束をするでありません」
松の落ち着いた声が響いた。
松の声には、私の希望が叶わないことを気にかけているような響きがあった。
彼女は私の気持ちを理解しながらも、隊列の秩序を守ろうとしているのだろう。
その時、母上様が別の輿から降りてきた。
彼女の足音が近づき、御簾が少し開かれる。
私は母上様の厳しい視線を感じた。
「茶々、わがままはいけません。敗軍の囚われ人として遠慮をしなければなりません」
母上様の声は冷たく、鋭い。
その言葉が私の心に突き刺さる。
敗軍――。
その一言が、私の胸を締め付けた。
気丈に振る舞っていた母上様が、ついに敗れた者としての自覚を口にしたのだ。
私はその現実を突きつけられ、息が詰まるような感覚に襲われた。
小谷の城が焼け落ち、父上様が討たれ、私たちは捕らえられた。
あの日の炎の熱が、今でも皮膚に残っているかのようだ。
だが、私はその言葉を素直に受け入れることができなかった。
「いやです! 茶々は今一度、琵琶湖を見て、この目に焼き付けておきたいのです。二度と見れなくなると思うと・・・・・・」
私の声が震え、涙がこみ上げてくる。
私はまだ幼く、感情を抑える術を知らない。
輿の中で拳を握り締め、悔しさを堪えた。
すると、慶次が大らかな笑い声を上げた。
「おっと、上様は岐阜と京の間に大きな城を建てて、居城を移すつもりだぜ。茶々様なら、そこに住むこともあるかもよ」
彼の声は明るく、私を励まそうとしているのが伝わってきた。
松が優しく諭すように言った。
「茶々様、その時はこの松が上様にお願い致しますから、今日ばかりはお許しを」
彼女の言葉は穏やかで、私の心を落ち着かせようとするものだった。
だが、私はどうしても納得できない。
琵琶湖の輝く青を、静かな波を、もう一度目に焼き付けたいのだ。
「いやじゃいやじゃ! 私は琵琶湖を見たいのじゃ!」
私は輿の中で叫んだ。
声が輿の壁に反響し、外にまで届いただろう。
私のわがままは、幼い子供の駄々っ子そのものだったかもしれない。
だが、その時、私にはそれしかできなかった。
母上様は毅然とした態度を崩さなかった。
「茶々、いい加減にしなさい。茶々のことは気にせず、先を急ぐのです」
その言葉が決定打だった。
母上様の声には一切の妥協がない。
私はその冷徹さに打ちのめされた。
兵たちは私の輿を持ち上げ、隊列が再び動き出した。
輿の揺れが再開し、私は悔しさのあまり、輿の壁を何度も叩いた。
木の表面が私の拳に当たり、鈍い音が響く。
だが、誰も取り合ってはくれなかった。
私は無力感に苛まれた。
すると、前田慶次が舌打ちしながら前へと進み出た。
「おいおい、そんなにガチガチじゃあ、旅もつまらねぇだろ?」
彼の不遜な態度に、羽柴の兵が眉をひそめた。
私は輿の中からその様子を想像する。
慶次の背中が隊列の中でひときわ目立っているだろう。
「前田様、度が過ぎますぞ。お控えを」
兵の一人が警告したが、慶次は意に介さない。
「控えろだぁ? おもしれぇ!」
彼は不敵な笑みを浮かべ、突如羽柴の兵の一人の肩を掴むと豪快に放り投げた。
兵が地面に叩きつけられ、土埃が舞う。
仲間たちが慌てて刀に手をかけた。
「待て待て、刀なんか抜いてどうする? まぁ、お前らの度胸、ちょいと試させてもらおうか!」
慶次は素早く間合いを詰め、次々と兵を投げ飛ばしていった。
彼の圧倒的な腕力と技の前に、羽柴の兵は次々と地面に転がった。
松が呆れたようにため息をついた。
「慶次、やめなさい。姫様方を不安にさせるつもりですか?」
彼女の声には、苛立ちと心配が混じっていた。
私は輿の中で小さく身を縮める。
慶次の行動が、私のために起こした騒動だとわかっていたからだ。
だが、慶次は肩をすくめながら笑った。
「へへっ、大丈夫だって。俺の相手になれる奴はいねぇよ」
地面に転がった兵たちは痛みに顔を歪めながらも、立ち上がる気力すら失っていた。
隊長らしき男が苦々しく立ち上がり、太刀を抜こうと手を柄に掛けた。
それを見た藤掛三蔵永勝が叫んだ。
「慶次殿、流石に好き勝手しすぎですぞ!」
彼の声には焦りが滲んでいた。
「はは、ちょっと遊んでやっただけだっての。ほら、さっさと進もうぜ」
慶次は笑いながら手を振った。まるで何事もなかったかのように軽い態度だった。
母上様は深く息をつき、静かに言った。
「茶々、もうこれ以上のわがままは許しません。慶次、茶々の代わりの憂さ晴らしご苦労でした」
その声には疲れが滲んでいた。
母上様もまた、この旅の重圧に耐えているのだと、
私は初めて気づいた。
私は輿の中で小さく膝を抱え込み、涙を堪えた。
悔しさと寂しさが胸を埋め尽くす。
幼き日の記憶が蘇る。
父上様のと母上様が湖畔で語り合う姿。
父上が私の手を握り、
「茶々、この湖は広く、美しく、そしてお前の故郷じゃ。どこへ行こうとも、心の中に持っていくのだぞ」
と優しく言った。
あの時の湖の青が、目に焼き付いている。
今なら、その言葉の意味がわかる。
私は涙をそっと拭い、目を閉じた。
たとえ琵琶湖が見えなくなろうとも、心の中にはあの湖の青が残り続けるのだと信じて――。
輿の揺れが続く中、私は静かにその青を思い描いた。
波の音が耳に響き、風が頬を撫でる。
琵琶湖は私の故郷であり、私の一部だ。
どこへ行こうとも、それは消えることはない。
隊列は岐阜へと進み続ける。
私は目を閉じたまま、心の中で琵琶湖と向き合った。
あの湖は、私の胸に永遠に刻まれているのだから。




