①①話 旅路の出発
私たちはそれぞれ輿に乗り込んだ。
羽柴軍の旗指物を掲げた足軽たちが輿を持ち上げる瞬間、その重さに一瞬よろめく姿が見えた。
木製の輿の枠が軋む音が低く響き、足軽たちの荒々しい息遣いがすぐ近くで聞こえてきた。
彼らの手には汗が滲み、朝の冷たい空気に白い息が吐き出されていた。
輿が持ち上がると、私の体がわずかに揺れ、思わず手すりを握る手に力が入った。
お初は母上様の隣で小さく縮こまり、目をぎゅっと閉じていたが、母上様の手を握るその小さな指先には、安心を求める力が込められているようだった。
私は自分の輿の中で、周囲を見渡した。
寺の庭には、朝靄がまだ薄く漂い、草木の葉に朝露が光っていた。
遠くの山々は朝日を受けて金色に輝き、その美しさはまるで戦の影など存在しないかのように錯覚させるほどだった。
しかし、その光景とは裏腹に、空気には不穏な緊張が漂っていた。
足軽たちの足音が地面を踏み鳴らし、馬の蹄が土を叩く音が混じり合い、静寂を切り裂いていた。
風が冷たく頬を撫で、耳元でかすかに唸る音を立てた。
その風には、どこか血と鉄の匂いが混じっているような気がして、私は思わず目を細めた。
松が先頭に立った。
彼女の背筋はまるで一本の槍のようにまっすぐに伸び、揺るぎない覚悟がその姿から滲み出ていた。
たすき掛けの装束が風に軽く揺れ、腰に差した小太刀の柄が朝日に鈍く光った。
彼女は大きく息を吸い込み、胸を張った。
「行く道はこの前田又左衛門利家が妻が決めます。勝手は許しませんよ。いざ出立!」
と力強く号令をかけた。
その声は、寺の庭を震わせるほど大きく響き渡り、兵たちの動きを一瞬で統率した。
足軽たちの背筋が伸び、馬上の武将たちが一斉に視線を前に向けた。
松の声には、まるで戦場を駆け抜けてきた女武将の魂が宿っているようだった。
先頭には藤掛永勝が馬に乗り、馬首を進めた。
彼の背には前田家の旗が風に翻り、朝日を浴びて鮮やかに輝いていた。
旗の赤と黒の紋様が空に映え、まるでこの一行の誇りを示すかのように高く掲げられていた。
永勝の馬は力強く地面を蹴り、そのたびに土埃が小さく舞い上がった。
彼の鎧の肩当てが朝日に反射し、鋭い光を放つたびに、私の目にその姿が焼き付いた。
永勝の顔には、松への絶対的な信頼と、この任務への決意が刻まれているように見えた。
寺の門が静かに開かれた。
重い木の門が軋む音が響き、ゆっくりと左右に分かれていく。
門の向こうには、朝靄に包まれた山道が続いており、その先に広がる景色はまだ見えなかった。
私は輿の中で息を潜め、門が完全に開く瞬間を見守った。
行列はゆっくりと動き始めた。
足軽たちの足音が一定の間隔で音を刻み、輿が揺れるたびに私の体も小さく揺れた。
お初が母上様の袖を握る手がさらに強くなり、母上様はそっとその手を包み込むようにして微笑んだ。
その微笑みには、深い優しさと同時に、私たちを守り抜くという決意が込められているように見えた。
外に出ると、空気はさらに冷たさを増していた。
朝露に濡れた草の香りが鼻をつき、風が私の髪を軽く乱した。
朝日はすでに空高く昇り、山々を金色に染めていたが、その光の下に広がるのは、戦の影がちらつく不穏な空気だった。
遠くで聞こえる鳥の声も、次第に兵たちの足音や馬の嘶きにかき消されていく。
私は輿の小さな窓から外を覗き、松の背中をじっと見つめた。
彼女の姿は、先頭に立つ者としての威厳と、揺るがない強さを湛えていた。
たすき掛けの装束が風に揺れるたび、彼女の動きに合わせるように薙刀が小さく揺れ、その存在感を際立たせていた。
「松殿、道は本当に安全なんですかね?」
と、永勝が馬上から声を掛けた。
彼の声にはわずかな不安が混じっているように聞こえた。
松は振り返らず、前を見据えたまま答えた。
「永勝殿、心配は無用です。羽柴の軍勢は私が抑えました。羽柴軍に私の覚悟を見せつけてやりましたからね。この道は私が切り開く。私の後ろをついてくれば大丈夫です」
と、その言葉には一切の迷いがなかった。
永勝は小さく頷き、再び馬首を前に向けたが、その背中にわずかな緊張が残っているのが分かった。
私は松の言葉を聞きながら、彼女の背を見つめ続けた。
彼女の強さと決意が、私にわずかな安心を与えてくれる一方で、この旅路の先に何が待っているのか、想像もつかない不安が胸を締め付けた。
羽柴の軍勢との交渉が本当に成功したのか、それともこれは一時的な平穏に過ぎないのか。
私の頭の中には、様々な疑問が渦巻いていた。
母上様を、そしてお初とお江を守るためなら、私も何かしなければ。
そう思う一方で、私に何ができるのか、その答えが見つからないままだった。
「おい、茶々姫様よぉ、顔が強張ってるぜ。そんなに怖いなら俺が守ってやるから安心しな」
と、輿の横を行く慶次が突然声を掛けてきた。
彼はいつもの軽い調子で笑いながら、私をからかうように言った。
その言葉に私は一瞬むっとしたが、彼の顔を見ると、そこには意外な優しさが浮かんでいた。
「慶次、余計なことを言わない黙っていなさい」
と松が鋭く叱ったが、慶次は肩をすくめてケラケラと笑うだけだった。
「松殿が鬼婆みたいに怖いから、姫様が怯えてるのかと思っただけさ」
と返すと、松は、
「叩きますよ?」
と低い声で警告した。
だが、そのやり取りにも、どこか温かさが感じられた。
行列が進むにつれ、寺の影が遠ざかり、山道が目の前に広がった。
道の両脇には、朝露に濡れた木々が立ち並び、葉の間から差し込む朝日が地面にまだらな光を落としていた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が小さく響いた。
私はその音に耳を傾けながら、胸に湧き上がる不安を抑えようとした。
この旅路がどこへ向かうのか、松の覚悟がどこまで私たちを守ってくれるのか。
全てが霧の中に隠されているようだった。
「この旅路が、無事で終わるとよいのだけれど・・・・・・」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、私はそう呟いた。
風が私の言葉をさらっていき、朝の光の中に溶けていった。
輿の揺れが続く中、私は松の背中を見つめ続けていた。
彼女の姿が、この不安な旅路の中で唯一の道標のように思えた。
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