19
その夜、望は暗くなった池辺うどんを見ていた。暗くなっているが、深夜3時になると、また栄作が作業をしに来るだろう。自分もいつかそれをする事になる。それはこの味を継ぐためには重要な事だ。いつか自分がこの立場になるのだ。それはいつになるかわからないけれど、それは日に日に近づいているだろう。
「今日はどうだった?」
望は振り向いた。そこには栄作がいる。栄作は眠そうだ。そろそろ眠るようだ。
「まぁまぁかな?」
望は少し照れている。まぁまぁだけど、自分的には頑張れたかな? でも、もっと頑張らないと。
「まぁ、以前から働いてたから、大丈夫でしょ?」
「うん」
確かにそうだ。高校生からちょっとだけ手伝っていた。そして今日から、正式に社員になった。徐々にその雰囲気に慣れていかないと。
突然、栄作は望の肩を叩いた。急にどうしたんだろう。
「これからも頑張れよ」
「はい」
望は緊張している。大将の前では頭が上がらない。怖いのももちろんだけど、この店のオーナーだからだ。今まで育ててきた父のような人だけど、自分にとっては今日から師匠と弟子の関係だ。だけど、今までと感じ方は変わらないだろう。
「望・・・」
突然、栄作は真剣な表情になった。どうしたんだろう。
「大将・・・」
「薫みたいにはなるなよ」
それを聞いて、望は薫の事を思い出した。高松製麺で働いている栄作の本当の息子だ。逮捕されて、栄作と縁を切られて、今は東京で働いている。本当だったら継いでいるはずなのに。
「はい・・・」
望は真剣な表情になった。確かにそうだ。薫のように悪い事をしてはいけない。悪い事をしたら、縁を切られて、故郷を追われることになるだろうな。
「薫にはもう会いたくないわ・・・」
栄作は拳を握り締めた。もう薫には会いたくない。薫の事を思い出すだけで、腹が立ってしまう。
「もう忘れようよ」
望は、薫の事を忘れてほしかった。薫の事を思い出していると、機嫌が悪くなるからだ。機嫌が悪くなったら、作業に影響が出てくる。
「わかったわかった」
栄作は苦笑いをした。そうだったな。もう薫の事は忘れて、また深夜に頑張ろう。
そろそろ寝る時間だ。寝ないと。
「じゃあな、おやすみ」
「おやすみ」
栄作は寝室に向かった。望は空を見上げた。今頃、薫は同じ空を見ているんだろうか? 香川県の故郷の事を思い出しているんだろうか? 帰りたいと思っているんだろうか?
その頃薫は、帰りの電車に乗っていた。今日も帰りの電車には多くの人が乗っている。彼らの中には携帯電話をいじる人もいれば、文庫本を読む人もいる。彼らは故郷を追われた薫をどう思っているんだろうか? 全く考えていないだろう。というより、ほとんど知らないだろうな。
薫は日付を見た。そういえば今日から新年度がスタートしたな。という事は、望が池辺うどんに入社したんだな。望の評判はどんなものだろう。以前から手伝っていたみたいだから、作業はしっかりとできているんだろうな。栄作の信頼を得ているんだろうな。
「父さん・・・」
薫は栄作の事を思い出した。縁を切られたとはいえ、世界でたった1人の父。忘れる事ができない。どうしよう。帰りたいけど、帰ったらまた追い出されるだろうな。
「どうしたんですか?」
突然、誰かが話しかけた。同僚の山田だ。山田はたまたま同じ帰りの電車に乗り合わせていた。
「いや、父さんの店が気になって。望くんがいよいよデビューしたみたいだから」
「そうなんだ」
山田は望の事を知っていた。薫の父の養子だと知っていた。そういえば、今日から新年度だった。望は今日から池辺うどんに入社したんだな。どんな腕前なんだろうか? とても気になるな。
ふと、山田は思った。あの子の様子を見てきたらどうだろう。追い出されるかわからないけれど。
「見てきたらどうですか?」
薫は戸惑っている。また追い出されるかもしれないのに。店があるのに。本当にいいんだろうか?
「いいんですか?」
突然、山田は薫の肩を叩いた。どうしたんだろう。
「いいじゃないの。あの子を見てきなさいよ」
「ありがとうございます。その間、店の事、よろしくお願いします」
「ああ。わかった」
計画はしていなかったが、薫はまた香川県に行く事にした。望はしっかりと働いているのか、知るためだ。栄作に追い出されるかわからないけれど、しっかりと働いている様子を見れたら、それでいいだろう。
薫は自宅の最寄り駅で降りた。山田の自宅の最寄り駅はもう少し先だ。薫は山田の乗った電車を見送った。そして、階段を降りて改札に向かった。その間、薫は栄作の事を考えていた。
自宅に戻ってきた薫は、急いで身支度を始めた。全く計画していなかった事だからだ。そんな中、薫は1枚の写真を見つけた。それは、幼いころの自分と栄作、そして今は亡き母の写真だ。この頃はとても平和だったな。今はもう縁を切られてしまったけれど。できる事なら、あの頃に戻りたい。そして、一緒に働きたいな。でも、それはもうできないだろう。