その一言が聞けなくて
窓際の特等席でオレンジ色に染まりつつある本のページを捲りながら、ノエミはそっと顔を上げた。
広々とした図書館。その席の殆どが空いている。けれど、いつからか、ノエミの隣にはいつも一人の男子生徒――――侯爵令息のジュール・ドゥ・コンドルセが座るようになっていた。
柔らかなブロンドヘア、宝石のように明るく透き通った碧い瞳、彫刻のように整った目鼻立ちに、女生徒のみならず誰もが目を奪われる。
どこか近寄りがたい雰囲気の彼だが、ひとたび声を掛けられれば、相手がどんな身分だろうと平等に接するし、人当たりも良い。文武両道で、将来は同級生であるジャスティン殿下の側近になることが期待されている。
そんなジュールに対し、ノエミは入学当初から、憧れにも似た感情を抱いてきた。
彼に近づくたび、優しく微笑まれるたび、たった一言言葉を交わせただけでも、心臓がドキドキとときめいたし、嬉しくて堪らなかった。胸に広がる砂糖菓子のような優しい甘さを、誰にも打ち明けることなく、大事に育て、胸にしまおうとそう思っていた。
そんな二人の関係が変わったのは、入学をして、二度目の春を迎えた頃のことだった。
「ここ、座っても良い?」
ノエミがいつも放課後を過ごす図書館で、ジュールがそんな風に声を掛けてきた。思わぬ出来事に息を呑みつつ、ノエミはニコリと微笑んだ。
「もちろんです! だけど、珍しいですね。ジュール様が図書館にいらっしゃるなんて」
ジュールは講義中、放課後を問わず、ジャスティン殿下の側に居ることが多い。こうして単独行動している彼を見掛けるのは珍しいことだった。
「これまでも時々は本を借りに来ていたんだよ? 短時間しか居られなかったけど、ノエミ嬢がいつもここに居るのは知っていたんだ。とても勉強熱心だよね」
ジュールはそう言って微笑みながら、ノエミの顔を覗き込む。ノエミの心臓がトクトクと大きく鳴り響いた。
「熱心だなんて……わたしが今読んでるの、恋愛小説ですよ? 単に読書が好きなんです。不真面目な生徒ですから、好きなことばかりして過ごしてるんですよ」
ノエミは隣に腰掛けたジュールへ控えめに目を遣りつつ、ケラケラと笑って見せる。
けれど、それは半分本当で半分は嘘だった。
ノエミの両親は超がつくお人好しで、困っている人が居ると放っておけない質だ。
領民たちのために手を貸すだけならまだしも、素性の知れない人間にまでお金を貸し、持ち逃げされることもしばしば。そんなことが続いた結果、ラヴァリエール伯爵家は財政難に陥っていた。
だからノエミには、他の令嬢のような刺繍や外国語といったお金のかかる習い事はできない。持参金も碌に期待できないノエミには縁談も来ないため、卒業後、自力で生きて行けるように、今の内に出来る限り知識を身に着ける必要があった。
「そっか。俺も好きだよ、小説」
そう言ってジュールは屈託なく笑う。普段見せる隙のない雰囲気とは違っていて、ノエミはドギマギしてしまう。
講義以外でジュールと会話を交わすのは初めてだった。こんな風に隣り合って座ることだって、当然初めてのこと。手を伸ばせば触れ合えるような近しい距離。互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうだ。
「――――そろそろ閉館の時間です」
けれど、幸せな時間は長くは続かなかった。
ジュールが訪れたのは閉館も間際のこと。二人はすぐにここを出て、寮に帰らなければならない。
(ツいてない。折角ジュール様とお話しができたのになぁ)
こんな偶然、二度とないだろう。ノエミは小さくため息を吐きつつ、ジュールの方をチラリと見上げる。
「――――仕方がないから出ようか」
困ったように笑いながら、ジュールはごく自然にノエミへと手を差し出す。驚きに目を見開くノエミを前に、ジュールは優しく微笑み続けた。
(ここは……手を繋ぐのが正解、なんだよね?)
降ってわいた幸福に戸惑いつつ、ノエミはおずおずと手を伸ばす。ジュールは満足気に目を細めると、ノエミの手を取り歩き始めた。
***
建物を出た後も、ジュールはノエミの隣にいた。てっきり出口で別れるものと思っていたノエミは、小さく首を傾げる。
(わたしはまだ一緒に居られて嬉しいけど……)
良いことが続くと、何となく怖くなってしまう。ノエミはそっとジュールを見上げた。
「あの、ジュール様。男子寮は反対方向では?」
「そうだよ。だけど、暗いしノエミ嬢一人じゃ危ないだろう?」
ジュールはそう言って、ほんのりと首を傾げる。
(あのジュール様がわたしを心配してくれるなんて……!)
一緒に居たのが誰であれ、ジュールはきっと同じことを言っただろう。けれど、そうと分かっていても、ジュールに憧れているノエミにとっては、あまりにも嬉しいことだった。喜びに胸を震わせつつ、ノエミはゆっくりと立ち止まる。
「心配してくださってありがとうございます! すっごく嬉しいです。
だけど、わたしなら平気ですよ。毎日この時間まで図書館に居ますし、夜道を歩くのにも慣れてますもの。それに、学園内は安全ですから」
努めて明るく口にしながら、ノエミはそっと目を伏せる。
本当はこんな機会またと無いし、一秒でも長く、ジュールと一緒に居たい。
けれど、一瞬でもノエミのことを大事に思ってくれた――――その気持ちだけで十分だった。忙しい彼の大切な時間を奪うわけにはいかない。そう思っていたのだが。
「――――本当は、俺がノエミ嬢を送りたいだけなんだ」
「…………え?」
ノエミは目を瞬かせつつ、ジュールを真っ直ぐに見上げる。
月に照らされたジュールの顔は、夕陽に照らされているかの如く、ほんのりと紅い。ノエミの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(そんな顔されたら勘違いしちゃうじゃない)
ジュールは紳士だから、ノエミを放っておけないだけなのだと、頭ではきちんと分かっている。けれど、彼に名前を呼ばれて、送りたいと言われて、まるで特別だと言われているかのような気がしてきて、ノエミはギュッと目を瞑る。
「もう少し話がしたいんだけど、それでも、ダメかな?」
そう言ってジュールは、ノエミの顔を覗き込んだ。
「っ……」
彼が『話をしたい』と言って、断る人間などいやしない。それなのに、まるで懇願するかのような表情で見つめられ、ノエミは大きく首を横に振る。
「ダメじゃないです。わたしも、ジュール様ともう少しお話したいから」
恐る恐る素直な気持ちを打ち明けてみれば、ジュールは「良かった」と、嬉しそうに笑う。
図書館から女子寮まではたったの五分。だけど、二人はその五分間をゆっくりと、大事に歩いて行った。
寮の前に着いてからも会話が途切れることは無かった。
互いの好きなモノや講義のこと、クラスメイトや家族のこと、領地や領民、将来の夢等、話題は尽きない。傍から聞けば他愛のないことだが、ノエミにとっては、そのどれもが特別に感じられる。
一時間後、痺れを切らした寮母がノエミを寮の中に引き入れるまで、二人の会話は続いた。
次の日も、そのまた次の日も、ジュールは閉館間際に図書館へやって来た。
ジュールは本を抱えノエミの元へやって来ると、彼女の隣に座り、ごく短いひと時を過ごす。
そして、閉館してからは、二人で女子寮までの道のりを一緒に歩いた。
エスコートなんて必要のない平坦で短い道のり。けれど、ジュールはまるで当たり前のように、ノエミへ向かって手を差し出す。
初めは添えられるだけだった手のひら。けれど、それが次第に、どちらともなく、しっかりと握られるようになっていく。寮に着いて以降も、手を繋いだまま、時間が許す限り会話を続けた。
(こんなに都合の良いことが続いて良いのかな?)
けれどそれは、偶然で済ませるには、あまりにも出来過ぎている。ノエミはいつだって閉館まで図書館に居るのだし、ジュールはそのことを知っているのだから。
(なんて、そんな風に自分に都合よく勘違いしていた方が、きっと幸せだよね)
そんなことが続いたある日のこと。その日は、いつもの時間になっても、ジュールが図書館に現れなかった。
(そうだよね)
別に、元々約束をしていた訳ではない。
ノエミはノエミの、ジュールはジュールの意思で、それぞれこの場所に赴き、偶々一緒に時を過ごしていただけなのだ。
だから、こんな風に唐突に会えなくなる日が来ると最初から分かっていた。ジュールが来るのを待つなんて――――寂しいと思うなんて馬鹿げている。
(それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう)
司書が閉館を告げる声が聞こえる。いつもの席に腰掛けながら、ノエミは一人肩を震わせる。
「ノエミ!」
その時、静かな図書館に声が響く。顔を上げれば、ジュールが息を切らしてノエミのことを見つめていた。
「ジュール……」
「良かった……! 間に合った! 遅くなってごめん」
心底安心した表情でジュールは笑う。
(どうして?)
二人の間には何の約束も存在しない。それなのに、どうしてジュールはそんなにも嬉しそうな顔で笑うのだろう。ノエミがこの場に居ることを喜ぶのだろう。
どうしてノエミは、ジュールが自分に会いに来ているのだと――――そう思ってしまったのだろう。
頭に浮かぶ疑問の数々をノエミは一人呑み込んでいく。
彼が毎日、閉館間際に図書館へ現れる理由も、ノエミを寮まで送ってくれる理由も。門限ギリギリまで話をすることも、その間ずっと手を繋いでいることも。ノエミだけに見せる嬉しそうな笑顔や温かな眼差しも。
(そんなの、全部勘違いなのに)
自分の願望が見せる夢だと分かっていても、ついつい期待せずにはいられなくなる。
「ねぇ、ノエミ。
どうして、って聞いてくれないの?」
まるでノエミの考えを読むかの如く、ジュールが尋ねる。
「え? どうしてって……」
「俺はね、ノエミがここで俺を待ってくれてるって思ってた」
そう言ってジュールは、そっとノエミの手を握る。余程急いでいたのだろう。彼の手のひらは普段よりも汗ばんでいるし、とても熱い。
(待っているだなんて……)
そんな資格、ノエミにはないと思っていた。
ジュールを待つことが出来るのは、彼の心に特別な居場所を与えられた誰かだけだ。そしてそれは、ノエミではない。そう必死で自分に言い聞かせてきた。
だというのに――――。
「ノエミ――――俺がどうして閉館間際の図書館に通うのか、その理由を聞いてくれる?」
ギュッと繋がれた二人の手のひらが、トクトクとうるさく鼓動を刻む。
ジュールに見つめられた箇所が熱くて堪らない。まるでそっと撫でられたかのような、口付けされたかのような感覚に、ノエミの心が大きく騒いだ。
「――――聞いても、良いの?」
そこに理由はあるのだろうか――――ジュールは小さく頷くと、ノエミの頬にそっと触れた。
「俺はノエミの側に居たい。ノエミの隣を他の誰かに奪われたくないんだ」
ジュールの声音が静かな図書館に木霊する。ノエミは頬を真っ赤に染めつつ、そっと彼から目を逸らした。
「ジュール……それは…………」
「冗談じゃないよ。本気で言ってる」
そう言ってジュールはノエミのことを覗き込む。
「好きだよ、ノエミ。俺の――――恋人になって欲しい」
心臓がトクトクと早鐘を打ち、全身が喜びに打ち震える。気づけばノエミは「はい」と頷いていた。
***
そうして二人は恋人になった。
ジュールは忙しい中でもノエミのために出来る限り時間を割き、側に居ようと努力してくれたし、とても大事にしてくれる。交際を隠すことはしなかったし、ジャスティン殿下に対しても、ノエミは自分の恋人だとハッキリ紹介してくれた。
「恋人か……良いね、羨ましい響きだな」
ジャスティンはそう言って楽しそうに笑う。
同じクラスに在籍しているとはいえ、会話をする機会など皆無だったノエミは、緊張で身体を強張らせる。
(否定されたり、釣り合っていないって言われるんじゃないかって心配していたけど)
ノエミの不安とは裏腹に、ジャスティンは彼女に対して、とても好意的だった。
「そんなこと言って……殿下にはちゃんと婚約者が居るじゃありませんか」
呆れたように笑いながら、ジュールは小さく首を傾げる。自身と接する時とは一味違った表情や仕草に、ノエミの心臓がドキドキと鳴り響いた。
「まあね。
でも、恋人っていうのは想いが通じ合ってる者同士のことだろう? 始まりが政略結婚だった俺としては憧れるというか、羨ましいって思ってしまうんだよ」
そう言ってジャスティンはノエミに向かって笑い掛ける。
「ノエミ嬢は見る目があるね。ジュールは良い男だよ。俺が保証する」
その瞬間、ジュールは驚きに目を丸くすると、恥ずかしそうに頬を染める。何故だかノエミはそれがとても嬉しくて、ニコリと目を細めて笑った。
けれど、皆が二人の交際を好意的に見ているわけではない。
「どうして貧乏伯爵家の女がジュール様と?」
学園に通う殆どの令嬢たちが、陰でそんなことを囁く。
(そんなの、わたし自身が一番そう思っているわ)
彼女達の声に気づかない振りをしながら、ノエミは心の中で密かにそう呟いた。
ジュールがノエミを大事にしてくれているのは間違いない。行動が、言葉が、雄弁に彼女への想いを物語っているからだ。
けれど、どうしてノエミを選んだのか、その理由を尋ねたことは無い。知りたいとも思わなかった。
(だって、十分幸せだもの)
ジュールに名前を呼ばれるだけで、胸が喜びに打ち震える。手を繋げば身体中が熱くなるし、笑い掛けられればノエミも釣られて笑顔になる。
だから、ジュールがノエミのことを好きだと――――それ以上のことを考える必要はない。
けれど、時々――――ふとした時に、底知れぬ切なさが胸を襲った。
(羨ましいなぁ)
クラスメイトが婚約者と笑い合っている時、二人で将来のことを話している時、ノエミはついついそんなことを考えてしまう。
恋人はあくまで恋人。
将来を約束したわけではない。
貴族にとって結婚は家同士の契約だ。互いの感情だけで成り立ちはしない。貧乏伯爵家のノエミと侯爵令息であるジュールとでは釣り合いが取れないと分かっていた。
「ノエミ。これ、受け取ってくれる?」
背後から抱き締めながら、ジュールはノエミの耳元に唇を寄せる。ノエミの目の前で鎖に繋がれた小さな宝石が微かに揺れ動いていた。
「これ……って」
「これを見て、いつも俺のことを思い出してほしいなぁって思って」
まるでジュールの瞳を思わせる色合いの宝石。ノエミは「良いの?」と尋ねつつ、ジュールのことをそっと見上げる。
本当はこんな高価なもの、受け取るべきではない。それでも、ジュールの気持ちが嬉しいし、彼の想いを目に見える形で感じていたい。
「俺が持っていてほしいんだよ」
そう言ってジュールは、ノエミの首にネックレスを着ける。ギュッと力強く抱き締められて、胸のあたりがキュッと疼く。
「ありがとう、ジュール」
まるで一生分の幸せを凝縮したかのような心地がした。
***
(そんな……)
悲しいことにノエミの予想は当たっていた。
領地で暮らす父親から送られてきた手紙を読みつつ、ノエミは眉間に皺を寄せる。
(わたしに縁談が来るなんて)
何度読み返してみても、書かれている内容に誤りはない。
手紙によればこの日、ノエミの家に、とある実業家からの遣いが訪れた。王都でもやり手だと噂になっている、ステファヌ・ホックリーだ。使者はステファヌからの求婚の手紙と一緒に、多額の金銭を持参していた。
(爵位目当ての求婚……か)
商売で成功した人間が、金の次に欲するものが身分だ。財政難に陥っている貴族に目を付け、結婚を持ち掛けることで爵位を得る。箔が付くし、上流階級とのパイプを手に入れられるので、商人側にも、困窮している貴族側にも、双方にとってメリットのある契約だ。
(こんな機会、またとないわ)
持参金もままならないノエミに、貴族からの求婚はあまり期待できない。結婚によって得られるものが殆どないからだ。
(――――ジュールはどう思うだろう)
父親からの手紙を胸に抱きつつ、ノエミは唇を引き結ぶ。
ジュールはあくまで恋人だ。婚約者ではない。ステファヌとの婚約が成立すれば、二人には別れる以外の道はない。
かといって、ジュールがノエミと婚約することも無いだろう。互いに想い合うことと、結婚とは別の問題だ。家柄も金も、当事者以外の要素が大きく絡んでいる。
(ジュールだって、わたしと結婚できるとは思っていないはずだもの)
二人が結ばれることは無い――――そんなこと、ノエミ自身が一番よく分かっていた。
「週末、実家に帰るの」
両親から手紙が届いた翌日、寮までの道のりを歩きつつ、ノエミはそんな風に話題を切り出した。
「実家に? 随分急な話だね」
ジュールは首を傾げつつ、ノエミの顔を覗き込む。優しくて穏やかな笑み。ノエミは目を伏せつつ、ゆっくりとその場に立ち止まった。
「わたしに縁談が来てるんだって。週末、相手が家に来るから、挨拶に来るようにって言われちゃった」
ジュールは目を丸くして、ノエミのことを見つめる。繋がれたままの手のひらが酷く冷たい。ジュールの顔を見れないまま、ノエミはぎこちなく笑った。
「ビックリだよね。これまで誰からも縁談なんて来なかったのに、このタイミングかぁって」
努めて明るい声音を出したものの、ノエミの声は震えていた。目頭が熱く、壊れそうな程に胸が軋む。
本当はジュールに『嫌だ』と言って欲しかった。
ノエミだって、ジュールではない他の誰かと結婚などしたくない。
けれどそんなこと、言える筈がなかった。
もしも逆の立場だったなら、或いは望みを口にできたかもしれない。『他の女性と結婚などしてほしくない』と泣き縋って、ジュールを呆れさせて、距離を置かれて、それで綺麗に終わらせることができたのかもしれない。
(だけど、わたしが『他の男と結婚したくない』なんて言ったら、ジュールを困らせるだけだもの)
それではまるで、重い鎖をジュールに背負わせるようなものだ。出来もしないことを強いるなんて馬鹿げている。責任感の強いジュールに罪悪感を抱かせ、苦しめるだけだ。
「ノエミ……」
込み上げてくる想いが、ノエミの喉を焼く。涙が零れ落ち、まともに前を見ることもできない。
ノエミはジュールの胸に勢いよく抱き付くと、彼の背に腕を回した。
「ジュール、大好き! ずっとずっと、ジュールが好きだよ!」
それがノエミが口にできる、精一杯の言葉だった。
縁談を断ることができない上、結婚してほしいとも、ずっと一緒に居たいとも言えないノエミが出来る、最大限の意思表示。
ジュールは何も言わないまま、ノエミのことをギュッと抱き返した。普段ならば嬉しくて堪らない筈なのに、ジュールにポンポンと背中を撫でられる度に、悲しさがグッと込み上げてくる。肩口に埋められた顔が熱く、それがジュールの想いを物語っているようだった。
(もう十分)
ジュールは確かにノエミのことを想ってくれている。最後にそう感じられただけで、ノエミは十分幸せだった。
ゆっくりと腕を解き、ジュールの顔をそっと見上げる。
さよならは言わない。けれど、自分の笑顔を覚えていてほしい――――ノエミは涙でグチャグチャになった顔で、必死に笑顔を浮かべて見せる。
「――――俺もノエミが好きだよ」
けれどその時、ジュールはそう口にして、ノエミの額へと口付けた。収まっていた筈の涙がポロポロと零れ落ち、ノエミは手のひらで顔を覆う。
(ジュールの馬鹿)
ノエミにはどうやったって、この恋を終わらせられる気がしなかった。
***
それから数日後。ノエミは憂鬱な気持ちで、一人馬車に揺られていた。
あの日以降、ジュールには会っていない。体調が悪いらしく、学園をずっと休んでいたからだ。
(ジュール……)
本当は看病をしに行きたかった。顔を見れば辛くなるし、これ以上一緒にはいられない。それでもノエミは、ジュールに逢いたくて堪らなかった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。……あれ? お父様とお母様は?」
屋敷に着くなり執事や侍女達が笑顔で出迎えてくれる。ラヴァリエール家に以前から仕える、数少ない使用人たちで、ノエミにとって家族のような存在だ。
けれど、出迎えの面々の中に、ノエミの両親の姿が無かった。
「旦那様と奥様はお客様のお相手をしていらっしゃいます。さあ、お嬢様もすぐに向かわれてください」
「えっ……もう? だけど、ステファヌ様がいらっしゃるのは明日では?」
手紙の期日が間違っていたのだろうか。ノエミが首を傾げると、使用人たちは首を横に振った。
「いいえ。今いらっしゃっているのは、お嬢様のお客様ですから」
「……え?」
(わたしにお客様なんて……)
普段、学園で生活しているノエミを訪ねる人間など思い当たらない。
戸惑いつつも、ノエミは客間へと足を運んだ。
「旦那様、お嬢様がお戻りですよ」
さあ、と中へ促され、ノエミはゴクリと息を呑む。中からは誰の声も聞こえない。ドアノブに手を掛けたまま、ノエミはゆっくりと息を整えた。
(まさか……まさか…………)
緊張と、ほんの少しの期待。ノエミが意を決したその時、ガチャっと音を立ててドアが開いた。
「ノエミ」
自身を呼ぶ優しい声音。その瞬間、ノエミは瞳を潤ませた。
「ジュール……!」
逞しい腕がノエミを優しく包み込む。温かい笑顔。涙が一気に溢れ出した。
(どうして……どうして…………?)
心の中で疑問を投げかけつつ、ノエミはジュールの胸の中で泣きじゃくる。
「言っただろう? 俺はノエミの側に居たい。ノエミの隣を他の誰かに奪われたくないんだって」
困ったような声音。ジュールがノエミの両頬を包み、そっと上向かせた。
「だけど……」
「ノエミは想いが通じ合ったらそれで良かった? 俺とずっと一緒に居たいって思わなかった?
――――俺は最初からノエミを手放す気はなかったよ」
そう言ってジュールはノエミの顔を覗き込む。顔が真っ赤に染まり、心臓がバクバクと鳴り響いた。
「ノエミが身分とか家柄を気にして、将来のことを口にできなかったのは分かっている。だからこそ、何があっても絶対に俺が繋ぎとめるって決めてた。
他の男と結婚? させるわけがないだろう。
時間がなかったし、かなり焦ったけど、何とか間に合ったよ。
――――それとも、ノエミは俺じゃない方が良かった? 俺じゃなくて別の男と結婚したい?」
ジュールはノエミのことを抱き締めつつ、眉間にグッと皺を寄せる。
「そんなこと、あるわけない!
だけど……だけどジュールは? ご両親に反対されたり、色々と支障があるんじゃ」
「両親のことはちゃんと説得したし、二人とも喜んでくれたよ? ノエミの両親からも、今お許しを貰った。あとはノエミが頷くだけだ」
そう言ってジュールは、ノエミの前にゆっくりと跪く。布張りの小箱が差し出され、その中央で、大きな宝石の埋め込まれた指輪が光り輝いていた。
「ジュール――――本当に、わたしで良いの?」
唇を震わせつつ、ノエミは疑問の言葉を口にする。
ずっとずっと『どうして?』と尋ねることが出来なかった。
どうしてジュールはノエミに会いに図書館へ来てくれるのか。本当にノエミで良いのか。ノエミとの将来についてどう考えているのか――――全部全部、聞きたくて聞けなかったことだ。
「やっと聞いてくれた……。
俺はノエミが良い。ノエミじゃなきゃダメだ。
だからノエミ――――俺と結婚して?」
今にも泣きだしそうな笑顔でジュールが笑う。胸の中がじんわりと優しく、温かい。ノエミは涙で顔をぐしゃぐしゃにしつつ、ゆっくりと大きく頷いた。
***
「借金の返済?」
「そう」
それはジュールとノエミが晴れて婚約者となった翌日のこと。二人はテラスでお茶を飲みながら、そんな会話を交わしていた。
「なんでもステファヌ様って、昔父にお金を借りて、そのまま連絡が取れなくなった人だったんだって」
「ふぅん……そんな人が、なんで今更?」
「それが、父から借りたお金で生活が建て直せたし、事業が成功したから『恩を返さなきゃ』って思い至ったらしいの。だけど、単にお金を返すだけだと足りないだろうからって、わたしに結婚を持ち掛けたんだって」
思わぬ事の真相に、ノエミは両親共々目を丸くした。てっきり爵位目当ての結婚だろうと思っていたので、しばらくの間返す言葉が見つからなかったほどだ。
「『別に婚約者が出来た』なんて言って、もしかしたら納得してもらえないかもって心配していたけど、杞憂だったわ。事情をお話したら『おめでとう』と言ってくださったの」
ステファヌの使者が持参したお金は、ノエミの父親から借りたお金だ。返金の必要は無いし、ノエミとの結婚が無くなったので、利息分として祝い金を送るとも言ってくれている。
(持参金すら用意できないって思っていたけど)
思わぬ形で何とかなりそうだ。ノエミは口の端を綻ばせる。
「ねぇ――――もしも相手が納得してくれなかったら、どうするつもりだったの?」
ふと、不機嫌そうな声音が響き、ノエミはハッと顔を上げる。見ればジュールがノエミを見つめながら、ほんのりと唇を尖らせていた。
「どうって……わたしにはジュールがいるもの。ジュールとけっ……結婚したいからって、キッパリとお断りするつもりだったわよ」
そう言ってノエミは、ジュールの手のひらをそっと握る。薬指には、ジュールから贈られた指輪がキラキラと光り輝いていた。
これまでのノエミならば、己の想いを押し殺し、ステファヌの申し出を受け入れていたに違いない。けれど、ノエミは今やジュールの正式な婚約者だ。誰に遠慮する必要もないし、『ジュール以外は嫌だ』と堂々と口にすることが出来る。
「恋人って響きも良かったけど、婚約者って……やっぱり良いね」
二人は互いを見つめながら、どちらともなく目を細める。
ただ将来を約束しただけ。たったそれだけの違いだというのに、驚くほど気持ちが違っている。
「ねぇ、そっちに行っても良い?」
ノエミの手を握り返しながら、ジュールが尋ねる。指を絡めつつ、愛し気に目を細めたジュールに、ノエミは困ったように笑う。
「良いけど……どうして?」
ノエミはもう、尋ねることを躊躇わない。ジュールとの未来や、愛情、彼の全てを望んでも良い――――そう知っているからだ。
「全力で『ノエミが好きだ』って伝えたいから」
ジュールの言葉に二人は顔を見合わせる。それから、どちらともなく小さく吹き出すと、そのまま互いをギュッと力強く抱きあうのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この作品を気に入っていただけたら、ブクマや広告下の評価(☆☆☆☆☆)、いいねや感想等でお知らせいただけますと、創作意欲に繋がります。
また、本日(2022/2/11)活動報告を一つアップしております。併せてお読みいただけますと嬉しいです。
改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




