表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

何の変哲もないこの世界で、今日も俺は変わりなく

作者: 片山瑛二朗

半身転生の傍ら、初めて短編という物を描いてみました。

字数は8000文字くらいですのでお気軽にどうぞ。

 この世界に固有名詞が無いように、こことは違う、まさに異世界と呼ぶべき世界でも、きっと世界に名前は無いのだろう。


「おはようございます。今日10時からのクエストに参加するタロウです」


 ガヤガヤとした建物1階の受付、3箇所の窓口の内の1つ、列に並んで自分の番が回ってきた男は係員に対してそう伝えた。

 彼の首から下げられている2つの金属で出来たタグ。

 そこにガレア共和国やその近辺で使われているガレア語で、こう記されていた。


 Dランク

 タロウ・ヤマダ


「はい、確認できました。9時40分より点呼がありますので、それまでにダンジョン入口の方にお願いします」


「分かりました」


「それではお気をつけて」


 2人の会話はそれで終わり、男は列から外れ、建物から出る。

 彼の後ろにも受付に用事がある人間が大量に自分の番が来るのを待っていて、それを見たタロウは少し早めに冒険者ギルドに来たことは正解だったなと思った。

 彼の名前はギルドの身分証にあるように、タロウ・ヤマダ。

 現在35歳、配偶者なし、彼女なし。

 魔法適性もなければスキルも無い、ごくごく普通の一般人の彼だが、タロウという人間を語るにあたって特筆すべき事項がたった1つ。


 彼は、異世界転生者だ。


 ギルドでの受付を終え、今日の仕事現場であるエイレール迷宮入口を目指してゆっくりと歩いて行く。

 時間には余裕があり、一度家に帰ってから現場に向かうか迷った彼だが、どうせすぐに出ることになるとギルドからそのまま歩くことにした。

 エイレールはガレア共和国の中で3番目に大きな都市だ。

 大通りともなれば人通りは多いし、活気もある。

 しかし、少し郊外に出てしまえばたちまち人の数は減り、牧場や畑などのどかな光景が広がっている。

 ギルドからダンジョンまでは徒歩でおよそ40分。

 転生したばかりの時はずいぶん遠くに感じた距離だが、今となっては走るか歩くか迷う距離だ。

 市街地にある冒険者ギルドからダンジョンに向かう際、クエスト前から体力を使いたくない冒険者たちは馬車や馬を使う。

 今日もこうして多くの馬車が行き交い、歩行者たちは馬に道を譲る。

 とりわけタロウは臆病ともとれるレベルに馬車と距離を取り、安全を確認したうえで移動する。

 車と、トラックと馬車は全くの別物だが、彼にとって同じカテゴリに分類される以上トラウマ発動対象なのだろう。


 タロウは、彼が山田太郎だった時、トラックにはねられて死亡した。

 完全なまでの過失運転致死傷、運転手は居眠りをしていた。

 ガードレール付きの歩道を歩き、会社からの家路の最中だった山田は、職場の後輩に進められて以来それなりにハマっていたライトノベルの新刊を歩き読みしていたのだ。

 そこに突っ込んでくる大型トラック、避けようと走り出す人々、その中において、彼の動き出しが遅れてしまったのも事実だった。

 事故を起こした側が完全なまでに、100%悪くとも、死んでしまったのは彼だ。

 以来、当時30歳の彼はそのままの肉体で異世界に転生してからも乗り物に対する恐怖を抱え続けている。


「本日クラーク食品に就業される方はこちらにお集まりくださーい! 契約書を無くされると報酬をお支払いできなくなります!」


 名もなき山の(ふもと)、大雨で地滑りを起こした際に見つかったダンジョンへの入口。

 ぽっかりと空いた穴はこちらからでは奥まで見通すことが出来ず、一度入ってしまえば出てくる直前まで人の姿が見えなくなるというのだから不思議なものだ。

 冒険者とは元来、世界各地に空いたダンジョンを攻略することを生業とする人々の総称……だった。

 一騎当千の強者、または人海戦術のマンパワーでゴリ押し、方法は千差万別だが、一度攻略された迷宮は迷宮ではなくなる。

 人の手が入り、整備され、安全性を確保された安全な国の資源採掘場となるのだ。

 世界中の迷宮がほぼ攻略され尽くしてから半世紀、戦闘力を認められたCランク以上の冒険者は何らかの会社に正社員雇用されることがほとんどとなり、それ以下の冒険者はギルドに赴き、日雇いの仕事を斡旋してもらう毎日。

 一日働いて金貨1枚と銀貨1枚、日雇いのバイトにしては悪くない報酬だ。

 タロウも他のDランク以下の冒険者と同じように、契約書にサインし、その控えを受け取る。

 これをギルドに提出し、後日報酬が支払われるという訳だ。

 仕事内容は事前に説明があり、リスクも含めて同意しているからこそこの場に集っている彼らだが、今一度担当者からクエストについて説明が入る。


「えー本日はよろしくお願いします。クエストの内容は当社の所属冒険者が仕留めた魔物の切り分け及び運搬になります。リスク説明などは事前に済ませたのでこれで終わります、質問のある方は?」


 担当の男は辺りを見渡し、特に何もないことを確認すると後をBランク冒険者に任せた。

 金属製の鎧に身を包んだ精悍な顔つきの冒険者たちだ。

 彼らはクラーク食品お抱え冒険者、タロウ達とは一線を画す能力を持った優秀な人材だ。


「今日はよろしく。では……ここからここまでが第1班、そして、黒髪でベテランそうな君! 君までが第2班、残りは第3班だ。第1班から順についてきてくれ、では出発!」


 黒髪でベテランそう、ね。

 冒険者になって5年、30から始めたから年長なだけで、俺はペーペーだ。


 自嘲するようにタロウは笑うと、第2班引率冒険者に付いてダンジョン内へと入っていった。


 迷宮とは、全く新しい世界である。

 ダンジョンがまだ迷宮だった頃、有名な冒険者がそう言ったらしい。

 まあ、俺みたいな何の特技も無い凡人が食いっぱぐれないだけの金が得られる場所なんだから、ダンジョン様様って言う気持ちは分かる。


 タロウは先行組が付けた印を発見し、順次魔物を解体していく。

 ミノタウロスは複数人で協力して解体し、ホーンラビットやゴブリン、シャドーウルフは1人で作業を行う。

 1つ解体するのに早くて数十分、長いと数時間単位でかかる大仕事だ。

 流石食品会社お抱えの冒険者、ただ殺すのではなく解体しやすいようにとどめを刺している。

 第2班が到着した時には既に血抜きの必要がないくらいの状態になっていて、彼らの仕事は非常にやりやすくなっていた。

 これならクラーク食品の仕事を受け続けたいな、そんなことを考えつつナイフを走らせる彼の手際は他の冒険者と比較して非常にスムーズだ。

 手に良く馴染んだ大きめのナイフはすぱすぱ解体を進め、あっという間に皮、肉、骨、内臓、その他に分かれる。

 後はシートの上に獲物を並べ、見張りを置いて第3班にバトンタッチする。

 彼らは引き続き先行する第1班の背中を追いかけダンジョンの奥へ奥へと歩みを進めた。

 仕留めた魔物を見つけ、解体し、並べ、また進む。

 日がな一日それを繰り返し、7時までに完全撤収する。

 それが予定された仕事の内容であり、作業もそのつもりで進んでいた。

しかし、極稀に、そうならないリスクは存在し、説明も受けていた。


 脅威度A~の危険生物の発生。


 多種多様な神秘的現象が発生するダンジョンでは、魔物が自然発生することは特段珍しいことではない。

 ただし、統計的にほとんどがDランク以下の魔物であり、C、Bとその発生確率は低くなる。

 そして、脅威度A以上の魔物の発生記録はそれこそ10年単位で確認されていなかった。

 それが今、タロウの参加するクエストで、その数十年に一度の災害が発生した。

 ダンジョンの奥から全力で走り、逃げてくる冒険者たち、彼らの盾になろうと抗戦するBランク冒険者たち。


 巨木を思わせる太い身体。

 金属の板を想起させるほど固い鱗。

 刺されば人間の身体では大きな風穴があいてしまうほど巨大で鋭い牙。

 獲物を視覚だけでなく、熱感知することも可能なピット器官。

 全身筋肉の鍛え上げられた肉体。


「ノースゲートスネークの古代種だ! 全員逃げろ!」


 恐怖心に素直に従うことは、冒険者の重要な資質である。

 初心者からベテランまで、その場に居合わせた冒険者は皆一様に駆けだした。

 会社に正規雇用で雇われている彼らを除いて。


「全員揃ったか!」


「エラムがいません! さっき逃げました!」


「チッ、あいつはクビだな。散開して討伐する、行け」


 班長の男が指示を出し、巨大蛇の緊急討伐が始まった。

 彼の得物は身の丈ほどある大剣、他の面々もタロウではまともに持つことすら出来ないような高火力な武器を携帯している。

 タンク役の班長とサポートが攻撃をいなし、その背後には弓手が矢をつがえて狙いを絞る。

 身軽な拳闘士や罠師は蛇の周囲を駆けまわり攪乱と牽制に終始している。

 効果的な攻撃手段がない今、他の冒険者の撤退を助ける必要があるのだ。

 そうして行われた無謀な時間稼ぎはやがて彼らの命を削っていった。

 1人、また1人攻撃を受け、即死した者は誰もいないものの、既に討伐は絶望的状況になっている。

 ダンジョンを出れば魔物は追ってこない。

 その出口まで残り300メートル。

 既に日雇い冒険者たちの撤退は完了した。

 後は自分たちが出口に飛び込むだけ、だけなのだが、


「怪我人の状況は」


「ほとんど撤退しましたが、あと3人ここにいます」


「元気なのは?」


「私とあなただけです」


 ……人数が足りない。

 1人抱え、奴の攻撃をかいくぐって脱出したとして、残りは死ぬ。

 それでも責任は無いが、それが出来ないことは分かる。

 くそっ、せめてあと一人Cランカーがいれば!


「ギルドに馬を飛ばせ!」


「軍に出動を! いや、警察か!?」


「どうでもいいから早く討伐できる人を!」


 既に外へ脱出した日雇い冒険者と怪我人たち。

 最後尾にいた第3班が出た時点でギルドへ緊急連絡、そこから関係各所に緊急事態を伝え対処する予定だ。

 しかし、現場はそこまで悠長に構えるわけにもいかない。

 タロウはこのクエストに参加する正規雇用冒険者の数を把握していた。

 そして今ここにいる彼らとの差分を取り、ダンジョン内に残る冒険者が3人であることも。

 既に死んでいる可能性もあるが、それは彼の与り知らぬ話だ。

 彼はただクエストを受け、契約にある緊急事態につき職務を放棄し、身の安全を確保した。

 それでも規定通り報酬は支払われ、既に次回の仕事も決まっている。

 そんな時、ダンジョン出入り口から這うように出てきた二つの影。


「あと一人、誰か正社員…………」


 そう言うと彼女の反応はなくなった。

 死んだのかもしれない、気を失っただけなのかもしれない。

 会社の中でも上位に入る実力者がこのありさま、他の脱出済みの正社員は満身創痍、誰も動ける人はいないし、動こうともしない。


 俺は特別な人間じゃない、それは知っているはずだ。


※※※※※※※※※※※※※※※


「貴方、死んじゃったのよ」


「……今何と?」


「だから、トラックにはねられて残念無念、貴方は死にました」


 俺は本を読んでいて、それで…………


「異世界転生するんですか?」


 山田太郎はそう尋ねた。

 死んでいるのに随分と能天気なことだが、あまりの実感の無さと直前まで読んでいた小説の内容に引っ張られている。

 彼の前に座っている天使の羽が生えた女性は、少し驚いたようだがすぐに元通り退屈そうな表情に戻る。


「あー貴方もそう言う感じ? 最近多くて困るのよ、そういうなんて言うの? こう現実が見えていない人たち」


 やっぱり自分はこのまま死ぬのか、そう思った。

 天国にも地獄にもいかず、プシュッと消えてなくなる。

 有から無へ、虚無へ帰るのだと。


「まあ異世界転生はするんですけどね」


「そうなんですか!?」


 彼のテンションは跳ね上がった。

 生まれ変わって一からやり直し、ついでに運も才能も付与した状態で2度目の人生をスタートする。

 そんな恵まれた人生を思い描く男性(30)がそこにはいた。

 その様子を心底軽蔑するような、それでいて少し面白そうな、邪悪な笑みを浮かべる女性は、彼に現実を突きつけた。


「貴方、何か欲しいものはある?」


「そうですね、裕福な家に生まれて、愛のある家庭で育ち、才能に恵まれ、良縁も欲しいです。あともし貰えるのなら、自分だけの特殊な力とか……なんちゃって」


「あ、そう。じゃあ頑張ってね」


 女性はそう言うと立ち上がり、背を向けてどこかへと歩き出す。


「あの!」


「何かしら?」


 不機嫌そうに彼を見る彼女の視線にされされて、山田は上司に詰められている時のように硬直する。

 しかし、ここは一世一代の勝負所、そう自分を鼓舞して口を開いた。


「あ、あの、私にそういった能力とかは、あああ与えられるのでしょうか?」


 現実は、どこまで行っても現実だ。


「甘えんなよオッサン。確かに私は人間に特別な力や運を、チャンスを与えることがある。でもそれは偶然や無条件ではない。私が力を与える人間はね、それが欲しくて欲しくて、心に穴が開くくらい欲しくて、努力して、命を燃やして、それでも自力ではどうにもならなくて、そんな姿が堪らなく愛おしい子達なの。貴方みたいに漠然と生きて、ただ成長して、呆気なく死んだ愚か者では決してないの」


「…………もう十ぶ——」


「大体自分だけの特殊な力って何? 笑えるんですけど。貴方の生きてきた世界で、世界中で只一人、その人しかできない事って何かあった? 貴方が出来ることは他の誰かが出来るし、貴方ができない事でもそれが人間に可能なら出来る人は必ず存在する。貴方って本当に有象無象、凡夫、ありきたりな、どこにでもいる、大したことない、いてもいなくてもどっちでもいい人ね。貴方が異世界転生する理由はそう、ただの数合わせよ」


 彼はこの記憶を持っていない。

 2つの人生の狭間で起きた、記録に残らないやり取りだ。


※※※※※※※※※※※※※※※


「…………行ってくる」


 おもむろに立ち上がった中年冒険者は、普段魔物を解体するときに使っているものではない、腰に差した一振りの剣に手を掛けた。

 近くにいた同業者は空耳かと一瞬疑い、彼の顔を、目を見て違うと確信する。


「待て、待てよ!」


 男は走り出した。

 彼を止められる人はここにいないし、誰も彼も自分の命は惜しい。

 死ぬ奴は放っておけばいい、そう言う判断だ。

 ダンジョンの入口に飛び込み、彼は世界を跨いだ。

 そして見えたのは、空間を埋め尽くさんばかりの鱗。


「っあ!」


 反射的にしゃがみ込み、間一髪で蛇の尾を躱した。

 膝に走る痛み、ミシミシと軋む関節。

 それでもタロウは走った。

 目の前に1人戦う班長がいるから。

 目に見える範囲に、手が届くところに倒れている人がいるから。

 何で自分が動いたのか、今も昔も、過去も未来も、きっと理解できないだろう。

 でも彼は一歩踏み出した。

 勢いそのまま、確かに走り出した。


「バカ野郎! ……っ! こいつを担げ!」


 傷だらけの班長は倒れた仲間を抱え、もう1人の要救助者を指さしてそう叫んだ。

 その声に後押しされるように、タロウは走った。

 もう一度は躱せない。

 蛇のうねるような攻撃は二度と躱すことが出来ない。

 そんな彼に迫る毒牙。

 毒がどうとか以前に、掠っても貫かれても、肉が抉れて死ぬ。

 滅多に使わない彼の剣と剣術の腕では攻撃をいなすことすら難しい。

 頭からガブリといかれて死亡、そんなありきたりな結末がすぐそこまで迫っていた。


「かっ、数合わせ舐めんな!」


 俺は今なんて?


 渾身の一振りはほんの少しだけ、未来を変えた。

 真っ向から迫る牙に対して、真上から斬り下ろす剣の軌道。

 本当に少しの差だが、剣の方がより真っすぐ、より地面に垂直に振り下ろされていた。

 火事場の馬鹿力だろうか、今となっては分からない。

 大蛇の首の角度は少しずれてタロウの左腕を捉える。

 引きちぎれた左腕、だが彼は気にしない、気付かない。

 痛みが脳に駆け上がる前に、痛みで動けなくなる前に、タロウは倒れた仲間を担ぎ上げ踵を返して走り出した。

 距離は数十メートル。

 班長が出口で手を伸ばして待っている。

 その手を掴む手はもうない。

 班長の手がタロウの胸元を掴み、迷宮から引っ張り上げた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、た、助かっ……た?」


 心臓の鼓動が左腕から聞こえる。

 もうすぐ夏が来るっていうのに、酷く寒い。

 空は青いはずなのに、見える景色は白黒に見える。

 視界の端っこは砂嵐みたいになって、だんだんと俺の世界を侵食していく。


「……た! 早く!」


「剣聖が来た! もう大丈夫だ!」


「こっちに重傷者がいるんです! 早く来てくれ!」


 俺が助けた人は大丈夫だったかな。

 倒れていたけど、死んではいないはずだ。

 命に別状はないはず、多分。


 ………………なんで俺は、あの時走ったんだろう。


 タロウの意識はそこで消えた。


※※※※※※※※※※※※※※※


「…………い。……ください。山田さん! 起きてください!」


「……おう」


 オフィス。

 そう、ここは会社のオフィスだ。

 俺は冒険者……いや、会社員で、係長代理の山田太郎で……。


「休憩時間終わりますよ。そろそろ戻りましょう」


「あー、そんな時間か」


 時間は午後0時55分、会社の昼休憩が終わる時間だ。

 食堂からは徐々に人がいなくなり、残っているのは彼とその部下、他にも数名ちらほらといる程度。

 山田太郎は目を擦りながら席を立つと、首元に金属みたいな冷たさを感じ、手で探ってみる。


 何もない。

 確かに何か、ネックレスのようなものが……そんなもの着けたことなかったな。


 寝方が悪かったのか、中途半端な時間寝たからなのか、少し頭痛がするのと左腕に違和感を覚える。

 だが見ても触っても何もなく、気のせいだと言い聞かせた。

 もうすぐ午後の仕事の時間だ。


「山田さん、今日新刊発売日ですよ!」


「そうか、そうだったな」


 この後輩に進められて、彼は最近ライトノベルというものにハマっている。

 彼をその道に誘った後輩一押しの小説が、ついに書籍化し発売されるのだ。

 仕事が終わったらすぐに買って、帰って読もう、そう考えているが、もしかしたら我慢できずに帰り道の最中でも読み始めてしまうかもしれない。

 仕事以外特に何もない、平坦な日常に趣味の時間が出来た。

 それは喜ばしいことで、平凡な山田太郎という人間を他人と差別化するアイデンティティのうちの一つになるのかもしれない。


 しかし、彼はなぜかその日、それ以降、そこまで小説に執着することが無くなった。

 時間があれば本を読むし、書店には相変わらず足をよく運ぶ。

 ただ、歩き読みするほどのめり込むこともなくなったし、読書以外にも趣味が出来た。

 それがいったいどれほどの価値を、意味を持つのか俺は知らない。

 そもそも趣味を持つことに、趣味が変わることに意味を求める意味はない。

 ただ、歳のせいなのかやけにしんどいこの膝と、何故か偶に疼くこの左腕のことを考えると思う。


 小説に出てくる異世界っていうのは、俺たちからしたら『異世界』だけど、そこに住む人たちにとってはただの『世界』なんじゃないだろうか。

 この世界に固有名詞が無いように、こことは違う、まさに異世界と呼ぶべき世界でも、きっと世界に名前は無いのだろう。


 才能に溢れ、努力を惜しまない天才は世の中に腐るほどいる。

 俺は腐るほどいるその天才ですらない。

 俺が命を懸けて成し遂げられないようなことでも、彼らは簡単にやってのけるはずだ。

 でも、例えそうだとしても、俺の中のもう一人の俺が叫ぶんだ。

 だから何だ、凡人だって命かけて気張る事くらいあるんだって。


 そのことを思い出すたびに、何の変哲もないこの世界で、今日も俺は変わることなく生きている、でも——


「たまには少し、頑張ろっかなぁ!」


 そう思わないことも…………ない。

いやー短編むずっ!

でも楽しかったです。

ツッコミどころがあるのは承知ですが、ある程度意識的にぼかして描いてます。

いろんな受け取り方があると面白いなーと。

決して収拾つかなくなったからではない!(台パン)


よければ「半身転生」の方も覗いていってください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ