3.夕暮れ時
無香料や花系香料とかありますが、夏の香りとはアレでしょう。
彩夏は読んでいた本から顔を上げた。
眼の辺りを擦って立ち上がり、伸びをしながら電灯を点け、再度腹這いになって文字に目を落とした。
部屋の中には幽かに白く煙が漂っている。除虫菊を燻した匂いが時折鼻先を掠めるが、邪魔になる程でもない。蚊遣りというより、室内に篭りがちな臭いを打ち消すためのようなものだ。古臭いと言われようと、この匂いが好きだからいいじゃないか。
ニッポンの夏、緊張の夏というが、多分節電とかそういう事情だろう。
ふうわり、と煙が波打つ。どこかで硝子風鈴がちんと鳴った。微かに風が吹いているのか。
緩やかに残照は去り、これから蒼い大気に浸されていく。
静かな夕暮れ。
窓の外では、夏と秋の虫が合奏中だ。
まだまだ暑さを感じる夜気、その底にふと異なる空気が溜まり始めている。
静かな。
表を通り過ぎる人の気配さえ感じられた。
静か、な。
突然。
薄い扉に蹴りが入った。
「よーほー。起きてる?」
隣室の下宿人だ。
「馬鹿者、戸が壊れる!」
慌てて立ち上がり戸を開けて。
彩夏は戸を閉めた。
そのまま背を向ける。
「なんで~? なんで閉めるの、遊ぼーよぉ」
聞こえない聞こえない。
彩夏は両耳を押さえて現実逃避した。
隣室の下宿人、美大浪人の海城がまた戸を蹴とばす。
何故手でノックしないのか。自明の理である。
海城は、花火セットを抱えていた。
それも、三つ。
阿呆。
徒労感に似た眩暈に襲われながらも、このまま放置しておくのは非常に危険なことを彩夏は知っていた。実際、もののはずみで一度ならず自ら孔を開けたこともある。
つまりは、薄っぺらなのだ、ここの普請は非常に。
家賃も薄っぺらだから文句も言えんが。
「わかった。わかったから大人しくしててくれ。先に夕飯食べちまうから」
それで漸く蹴る音が止んだ。
さて、と室内を見回したが、すぐに食べられる物と言えば限られている。
「お湯をかけて三分間。商品名は出しちゃ駄目~」
いい加減な歌を口ずさみながら食糧箱をかき回す。
と、気になって部屋の戸を開けた。
廊下では海城が、某社のカップ麺を前にわくわくしているところだった……それも、彩夏が手にしているのと同じ商品を。
「てい」
彩夏はカップ麺を畳の上に放り出した。
閑話休題w
『ニッポンの夏~』は某企業の蚊取り線香の昔の広告です。
緊張、ではないのですよ。
まあそんなこと知ってるのは年寄りの証拠ですが。