1.夢の尻尾
冬に花火を上げる地域もありますが。
私の故郷では夏の祭シーズンしかしないので、やはり夏のイメージです。
冬の最中に花火を見た。
それは随分と昔のことで、楼閣の屋上に居たのだと思う。
足元に灯火は少なく、不思議と静かで、見事な花火が夜空にくっきりと浮かび上がっていた。そのくせ何故かそれは掌にすっぽり収まりきる程にしか見えなかった。
楼閣は十二階建で、モダンな内装は朧にしか覚えていないが、赤レンガの外装と手すりの冷たさは、今でもまざまざと思い出せる。何より、見晴らしの素晴らしさは私の目を、心を捉えて離さなかった。昼の喧騒も夜の帖も、まるで綺羅星の如く私を魅了し尽くした。
けれど勿論、私は其処を知らない。
冬の最中に花火を見たこともなければ、「十二階」を「高い」と感じる処へ行ったこともない。そもそも「其処」が何処なのか、皆目見当がつかない。
それでも、私の「記憶」には何故か、「其処」を懐かしむ想いさえ残っているのだ。
「あ」
朱鷺水彩夏は急に大声をあげた。
次の一瞬の沈黙と、冷たい視線の集中。
彩夏は、大きく開いたままになっていた口を閉じた。椅子から立ち上がり、近場の本棚からさかさかさかと書籍を三冊掴んでカウンターへ小走りに向かう……前に半歩戻って、卓上に涎が落ちていないか確認する。
カウンターでは司書の中年女性が、面倒臭そうにじろりと彼を睨むと、それでも読んでいた婦人雑誌を伏せた。
心地良かった図書館を出ると、むわりと熱気に押し包まれる。
外気温はまだ真夏、それも真っ昼間の日差しだった。高層雲が辛うじて秋の気配を感じさせるものの、時計の針は午後二時を少し回ったあたり。まだまだ寒暖計の赤いラインは短くなる心算は無いらしい。
蒸し風呂確定の下宿には戻る気も起きない。が、涼しい図書館を追い出されて他に行く当てもなかった。
公園のベンチは明るい日差しにきらきら輝き、焼き鳥になる心算でもなければ座れたものではない。財布はいつも通り空腹を訴え、喫茶店にしけこむには心許ない。
「ううっ、涼しくお昼寝する予定だったのに」
学生を名乗っているくせに、不届き者である。
熱帯夜は確実に減少に転じ、朝夕は涼しくなっているのだから夜中に寝れば良いのだが、何故かそうは上手くいかないというのは、何時の時代も同じなのかもしれない。
ビルの影の中で立ち止まる。
白く輝く無数のビル窓を、その遙か上の小さな円い青空を見上げる。
狭い狭い東京の空を。
夢だ。
声には出さず、呟く。
両目の下、鼻の付け根に息苦しさが残る。呼吸の仕方を忘れてしまった、そんな感覚に衿元を摑まれている。
青い空に刷毛で伸ばした高層雲。僅かに解ける縁が秋の色だ。生まれた端から千切れては風に乗り流れていく。眩しくも穏やかな、初秋の表情を浮かべ始めた空。
当たり前なのだろう、暦の上ではとっくに秋の名乗りを上げていたのだから。
溜息を一つ、吐く。
通り過ぎる車窓の照り返しのせいでも、ビル影に吹き込む未だ熱い空気のせいでもない。
脳裏に残っている、映らぬはずの、その光景。
夢だ。
夢だ。
憶い出せない、夢の欠片。
焦燥にも似た、夢の尻尾。
触れたかと思っても、次の瞬間失せてしまう。
失せた事さえ、消えてしまう。
ただ、ただ残る、幽かな。
幽か、な。
目を瞑り、もう一つ溜息を吐いた、そのとき。
図書館で昼寝とは不届き者!
ですが、本や雑誌に書き込んだり切り取ったりする人よりは、まあ…静かになら。
電力逼迫の折には、酷暑からみんなで避難して、というキャンペーンもありました。
…コロナでみんな吹っ飛んじゃったなぁ。