人魚姫
ずぼらに敷き詰められたテトラポットの群れの丘で、海岸線を眺めていた。
冬の夜の海の風は肌寒くて、痛くて、潮のみちひきの音も昼間よりも穏やかに聴こえてくる。
海水を含んだこの風のせいで明日の髪はこわばっているに違いない。
後日痛めるであろう美容院に行ったばかりの長い髪は、私と違って風にあおられるまま自己主張を続けていた。
たなびく前髪の向こう、ぼうっと海を眺めていたら、月明かりに照らされた人影が見えた。
最初は魚とかクラゲとか流木だと思った。
海面の一部がちょこんと盛り上がり、月光の反射でそれは頭部の一部なのだと気付く。
水死体だったらどうしよう。ここは自殺の名所だし。あの暗い海の彼方から流されてきたのだろうか。
そんな不安も一瞬よぎったおり、その影は私の方にだんだんと近づいてきていた。
人工物の明かりが一つもないからその判断もあやふやだけど、確かに意思のある動きで、明確にこちらに近づいているようだ。やはりそれは人なのだろう。男だったら怖いなと思って私はたまらず声をかけた。
「こんばんは、海水浴ですか?」
「ン」
女の人の声がした。
「どうして海に泳ぎに?ここ海流が早くて遊泳禁止ですよ」
彼女は質問に答えるかわりに、海から勢いよく飛び出した。
そして私の問いが間違えていることを認識させられた。
「ンゥ」
彼女を観察していると、また彼女は言葉にならない言葉を吐く。目線を伏せがちで、キョロキョロと地面の辺りを見ていた。恥ずかしがらせてしまっただろうか。
私がそう思ったのには明確な理由があって、目の前の女性は一糸纏わぬ姿の人魚だったからだ。
びしゃびしゃと音を立てて、たおやかな黒髪から流れる海水をテトラポットにぴちゃんぴちゃんと滴らせて、女性は岸に上半身だけあげた。
でも下半身は斜面のついたテトラポットから海面に入っているものの、その足はおへその辺りを境目にして魚の足になっていた。
ヒレのついた金魚のような赤色の尾。まだら模様のうろこはスーパーの鮮魚コーナーでみかける魚とは段違いで大きい。その肢体はずっと海の中で泳いでいるゆえか、水泳選手のように引き締まっていた。
「あなたは人魚?」
「ンゥ」
これで三度目の「ン」。
彼女は喉を鳴らして、身振り手振りをしながら言葉らしきものを発した。
人魚にも色々いると思うけど、どうも彼女はしゃべれないらしい。こちらに何か言いたいことがある風ではあったけど、意思疎通が出来ないのではしょうがない。それとも日本語だから分からないのか。残念ながらうちの三流文系大学では魚語なんて単位はない。
「筆談はできますか?」
私は彼女の意図を極力汲み取りたくて、ポケットから手帳と三色ボールペンを突き出した。
ぱらぱらと目の前で手帳をめくってやると、彼女は食いつくようにその動きを見ていた。
彼女はボールペンの使い方が分からないらしい。少し考え出してボールペンを片手で握りつかむ(子どもがよくやるあの持ち方だ)と、楽しそうに手帳の白紙のページに絵らしきものを描き始めた。
最初は意味のあるものかとも思ったが、そうではないようだ。
彼女が熱中して殴り書きしたかと思うと、手の腹をノートに押し付けよろよろの線を描いたり、三日月の模様を書いたり、抽象的な記号を手帳にしたためていた。
「何してるんですか?」
おずおずと私が聞くと、彼女はまた「ン!」と鳴き声を上げて今度は手帳をつき返してきた。
「あ、ありがとう」
思わずお礼を言ってしまった。
私は手帳を上下左右に回転させて絵の解読を試してみたものの、手帳に何が書かれているかは解読不能だ。
彼女は私をニコニコと笑顔を絶やさずに見つめてきた。
その笑顔の奥の瞳があまりに無垢で、純粋で、無邪気で、遠い過去の、人の嫌な部分を知る前の、善なる者であった自分を見ているようで、私の心の傷を多少慰めてくれる作用があったのだろう。
気付けば、私の頬には涙が流れていた。
とめどなく溢れて、まるで壊れた蛇口みたいに涙は止まらなかった。
肌寒い風のせいで体の熱はシンから冷えていた。というのに、目じりにたまった涙は嫌に熱を持っている。
きっと重傷だったのだ。
そんな私を怪訝そうに彼女は見てきた。顔をぐいと近づけ、鼻先と鼻先が引っ付く距離まで彼女は顔を寄せてきた。
彼女の透明な吐息が頬の辺りにかかってきて、先ほどまで海中を泳いでいたとは思えないほど生暖かかった。
「ンー」
鳴き声を発するや否や、人魚は目をつぶり、ペロリと舌先を出した。
ぽろぽろ流れる私の頬の水滴だけを綺麗に舐め取った。
「や、やめてよ」
私が肩を抱きしめて言葉をかけても彼女はやめる気配はない。
「…しょうがないよね。あなたは私の言葉がわからないんだもの」
何がしょうがないのかは自分でも分からないけど、私の心中には諦めとほっとした気持ちが共存していた。
反復的に続く行為に、まるで猫に顔を舐められるみたいな気持ちになってくる。この不可解な行動も特別なコトの範疇には入らないだろう。それに当分恋とか、それに付随する行為をしたいと思える気分でもなかった。
彼女は私の頬に流れる涙をひとしきり舐めとると、行為に飽きたのかその体をのけぞらせて、勢いよく海中に飛び込んだ。
それからじっと海の色みたいな瞳をこちらに向けて、ゆらゆらと海面を漂い始める。
「サ、サァビシイノゥ?」
首をかしげて彼女は口を開いた。なんだ。言葉、通じるんじゃないか。
「自分では分からなかったけど、きっとその通りだったんだと思う」
彼女は岸のフチに両手をつけて、身を屈めるように私にまた近寄ってきた。
「ワタシト、イッショニイコウ」
助けた亀に連れられて、浦島太郎が行く竜宮城。彼女の申し出は私をこれから竜宮城に招待してくれるような、陽気さと淡い希望のようなものが含まれていた。一日中海の底で静かに暮らすような毎日。静寂とか暗闇が支配する世界で彼女と共に生活するのだ。それもいいかなと少し考えていた。
「ごめんね。私はそっちにいけないんだ」
私は立ち上がって、手に持っていた携帯を勢いよく海に放り投げた。
それは低空飛行で放物線を描き、思っていたより遠くには飛ばなかった。
ぽちゃんという小さな音がして、それきり。
「さよなら私の初恋。全然楽しくもなかったし、息が詰まりそうな毎日だったけどさ」
私は真っ暗闇に染まる海の向こう側を見ながら、何かが変わることを期待していた。
でも、結局そういった劇的な変化が訪れることはなかった。携帯を捨てたくらいで変化する私の日常でもなかったのだろう。ただ面倒くさい通知の音を気にしないでいいのは、少ない利点だ。友達は心配するかもしれないけど。
「イツカハ、キテクレル?」
「ごめんね、それも出来ないんだ」
「ソウナンダネ」
そういうと、彼女は先ほどよりもションボリしているように見えた。
「私が昔人魚のお姫様だったって言ったら信じる?」
コクリと彼女はうなづいた。
「でね、私好きな人ができたの。人間の子。悪い魔法使いにお願いして海に戻れない代わりに人間にしてもらったけど、失恋しちゃった。私は真実の愛を手に入れられなかったの」
だから無理なんだと付け足した。
魔法使いはこうも言っていた。愛しい男に愛されるか、あるいは愛した男を殺さなければ、私は人魚姫に戻れないと。でも彼を殺す非情さも死を選ぶ勇気も私には無かった。だからこれからも人として生きることにしたのだ。きっと海の仲間や家族達は私に呆れていると思うけど。
「あ、でも。私がおばあちゃんになって、死んじゃって、散骨とかでもいいなら大丈夫だよ」
「マッテルヨ。ワタシタチハ、ナガイキダカラ」
若干会話が噛み合ってないと思ったが、これ以上は話がややこしくなりそうだった。だから、私はうなづくだけでそれ以上は何もしなかった。
「さようなら、この海の人魚さん。あなたに会えて本当によかったよ」
「サヨウ、ナラ。マタイツカ」
「うん、またいつかね」
それでこの話はおしまい。
私は夜の海岸と彼女を背に、再び浜辺を歩き出した。
私は駐車場に停めていた車を運転して、時折、ちらついたりする外灯の明かりを頼りに、大学近くの借りマンションに戻ることにした。
私は彼との思い出が詰まった車を走らせて、深夜の海岸線を走行する。
先ほど出会った彼女との思い出を胸にしまいこみ、とりあえずダッシュボードに入っている彼の家の合鍵から処分することに決めた。ダッシュボードを弄って、茶封筒に入った新品の鍵の感触を確かめて、再びハンドルを握りなおした。
そういえばアンデルセンが書いた人魚姫の最後は悲恋で終わっていたはずだ。
王子様に恋した人魚が人間の姿になってまで甲斐甲斐しく尽くしたのに、結局は自分と瓜二つの初恋のお姫様と王子様が結ばれてしまう。人魚姫は人魚の姿に戻るために、王子様を殺そうとして結局殺せなくて、海に飛び降りて、泡になる悲劇の物語。
それとも、あれはハッピーエンドといえるのだろうか。少なくとも私は、自分を振った男のために命を落とすほど高潔ではなかった。
そんな事をふと考えながら、私はアクセルを踏んで、薄暗い夜の先にある、淡い光の映える夜道を見つめるのだった。