9.エピローグ
誰かが私の体を揺すっている。意識はあるのだが、全く何も見えない。
私は死んだのだ。そしてこれからあの世に行くのだ。そしてきっと彼女のところに導かれるのだ。それが自然の流れなのだ。だからきっと今体を揺らしているのも彼女だろう。目が覚めれば、そこには彼女のあのやさしい顔があるのだ・・・。
下界を去る時に、未練は消えてしまうのだ、と誰かが言っていたような記憶がある。私もそうなってしまうのであろうか? 今はまだ未練がある。まだ仕方のないことかもしれない。
そうしているうちに次第に周りが明るくなっていく。ようやく私の未来は始まろうとしているのだ。そして・・・、私は目覚めた。
「あなた・・・、祐一・・・、もう起きなさいったら・・・。」
目を開けるとそこには「彼女」ではなく、「妻」の顔があった。私は何が起こったのかさっぱりわからなかった。
「あれ? 死んだんじゃ・・・、なかったのか? あれ、お前、どうしてここにいるの?」
すべての事態が全く飲み込めていない私の口から唯一この時出せた明瞭な言葉がこれだった。妻は何をわけのわからないことを言っているのか、といった感じで私のことをずっと睨み続けている。
「いい加減世迷言を言うのはやめたほうがいいわよ・・・。あなたが風邪をひいたって言ったでしょ? 電話の声の具合も普段よりずっと変だったから、心配して一日予定を繰り上げて帰ってきたのよ。そうしたら、あなたの会社の人がマンションの前にいるじゃない? びっくりしちゃったわよ!」
妻は少々怒り加減で話を続けた。
「話を聞いたら、『だんなさんが会社に来ていない。普段そういうところだけはしっかりしているのに無断欠勤なんて考えられない。携帯や家に電話しても誰も出ない。これは何かあったんじゃないか?』って話になったらしく、様子を見にきたらしいのよ。それであわてて部屋を空けてみたら、あなたがリビングのところでばったり倒れているじゃない? これは大変って大騒ぎになったのよ!」
「へっ?」私は相変わらず何がなんだかさっぱりわからなかった。
「最初は本当に死んでるんじゃないかって思ったわよ・・・。でも息もあるし脈もあるし・・・。辛そうな息している割には変な顔しているし・・・。それで大急ぎでお医者さん呼んで見てもらったの。そしたら、インフルエンザと脱水症状を起こしているから直ぐに病院に連れていかなくちゃってことになったのよ。」
私は少しずつではあるがようやく事情が飲み込めてきた。まあとにかくどうやら死んではいないらしい。
「お医者さんに怒られたわよ! 熱があるんだったら水分をどうしてしっかりとらせなかったのか? こんな病人ほったらかしてどうするんだって! 散々言われたわ・・・。いったいあなたはこんな体で何をしていたの?」と、妻は医者に怒られた分に更に自分の分も加えて、私にぶつけてきた。かなりおかんむりである。
「生きているのか? そっかぁ、あれは夢だったんだ・・・。ははは・・・良かった。」と私はとりあえず自分の生還を喜んだ。
「よかったじゃないわよ! あなた今日は何曜日かわかってるの? 火曜日よ! 火曜日。昨日病院に連れ込んで点滴や薬を入れてもらったら、直ぐに熱が下がったのよ。そうしたら今度は大いびきをかきはじめたの。うるさいったらありゃしない! あんなにびっくりして、あわてさせられて、苦労して・・・。それでそんなに気楽な顔していびきかいて寝られたら、こっちはもう頭にきちゃうじゃない?」
このダメ押しが効いた。もはやこの状態では彼女としては収まりがつかないらしい。こうなるとしばらく彼女のご機嫌が戻るまで私は単純に「うんうん・・・、そうだなぁ・・・。」とうなづき続けるしかないのだ。
要は私はただのインフルエンザをこじらせただけであったのだ。今年のものは例年になく特殊で、何日にも渡って高熱が続くものだそうだ。だから十分に栄養と水分を補給しなければならなかったのだ。それなのに私は自分の時間を満喫することだけを考えて、たいしたものも食べず、水分も取らず、おまけに寝室の暖房をガンガンかけまくっていたのだから脱水症状を起こすのは当然のことだった。昨日の午前中、私が息絶えた後、昼過ぎに彼女とうちの同僚が私を発見し、適切な処置をしてくれたおかげで、私はあの世への「孤独な旅人」にならなくてすんだのであった。
まあ確かに死んだ人間が簡単に復活して、大いびきをかいて寝ていたら、救ったほうは最初は「良かった〜!」と思っても、時間が経つにつれて怒りが沸いてくるのも当然であろう。まあ、彼らがいなかったら、私は本当に死んでいたのかもしれなかったのだろうし・・・。
全てがようやくわかった時、私は無性に可笑しくなり一人吹き出してしまった。妻はそれを見て、今度こそ本当に気が狂ったのかもしれない? と思ったかもしれない。私は彼女の顔を見て、感謝の言葉と併せて言った。
「生きているのって本当にすばらしいことだね! それを改めて実感してしまったよ!」
妻は私のそばで、唖然としていた。