6.第二日目 夜
時間は夜の八時をまわったところだった。静まりかえった部屋の中をエアコンの音だけが響いていた。
妻から電話があった後もうひと眠りしたのだが、五時すぎになって喉が痛くてたまらず、それで目がさめたのだった。
体温計で熱を測ってみる。三十九度をはるかにこえていた。立とうとしてもふらふらしてバランスを維持することができなかった。これほどまでに風邪に冒されたことがいままであっただろうか? もはやはっきりとしゃべれないほど擦れた声で、バンドメンバーの南沢啓に電話をし、今日の打ち合わせをキャンセルさせてもらった。啓はその声を聞いて「鬼の霍乱か? とりあえずゆっくりやすみなよ!」と言って笑っていたが、当の本人は笑い事ではなかった。
状況はどんどんと悪化して行った。もはやしゃべるのすら辛くてたまらない。飲み込む唾がまるで針のように喉元を突き刺していく。
薬を飲むために冷蔵庫にしまってあった残り物をレンジに入れて暖めた。意識が遠のこうとすると食べたり飲んだりするものが激痛を伴い、私を現実へと引き戻した。まさに針のむしろとはこのことである。もはや味わうこととは程遠い状態だった。苦行に耐えながらも最後のひとさじを終えると、薬と一緒につめたい水を一気に胃の中に押し流した。
もはや立っていることすらままならない状態になっていた。私はベットを這うようにしながら目ざした。
ベットにたどり着く、布団をかぶる、そして目をつぶって眠ろうとした。ところがなかなか眠りに落ちない。それもそのはずである。喉の痛みとひどい寒気が私を蹂躙していたからだ。おまけに昼過ぎから出始めた咳がこのころになると絶え間なく続くようになり、鼻の調子と相俟ってひどい状況になってしまった。咳き込むと本当に胃が口から飛び出すのではないか? と思うほど苦しかった。
乾燥するのがよくないのだろうと思い、私は加湿器のスイッチを入れた。少しでも湿気をこの体に補給しようと思って・・・。
そして・・・、それから二時間、私は目に見えない苦しみと戦い続けた。静寂の中をエアコンと加湿器の音だけが鳴り響いている。やがて、私は思った。「どうもおかしい。一向に改善する気配がない。どうしてだろうか? もしかして別の病気なのでは?」などと思ったりした。
もう一度熱を測ってみた。もうあとほんのわずかで四十度に達する。本当に大丈夫なのか? と思うと、気が滅入っていった。
そういえば妻や娘は今何をしているのだろうか? さっき空威張りをしたくせに、こんな状態になってくると本当に心細くなってくる。絵理奈は何をしているのだろう? こんな時そばにいてくれたら、などとありもしないことを考える。
「私のそばに誰かいてほしい、いや誰でもいいからいてくれ!」と声にならない叫びを上げる。いろいろなことが頭をよぎる。本当であれば久々の独身生活を満喫していたはずである。
「なんでこんなことになってしまったのだろう? 日ごろの行いは最近よかったはずだ! でもこうなるなんて・・・。これも風邪ではない何か悪い病気のせいなのだろうか?」
だんだん自分が自虐的な方向に入っていってしまうのがわかった。
額に乗せたタオルもしばらくすると効き目が失せる。熱、咳、喉の苦しみのトリビュートが次から次へと悪魔のテーマを私の中で奏でる。私はただその演奏をこの身で受けとめるしかなかった。そしてその苦しみに耐えつつ、眠りに誘われるまでの時間をただひたすらすごさねばならなかった。
それから・・・私が眠りにつくまでにさらに二時間という気の遠くなるほどの時間が必要だった。