払暁の街
2021年5月2日に教えていただきました。
日間8位になりました。ありがとうございます!
薄曇りの空を背にした時計塔が、朝の訪れを告げる。
再建途中の街に鐘が鳴り響く。尾羽が黄色い小鳥たちが飛び立った。
広場に集った人々は祈るかのように、じっと時計塔を見つめている。
「何があるのですか?」
クレナはショールを羽織った若い婦人に訊ねた。
突然、訛りのない公用語で話し掛けられた婦人は目を丸くしたが、クレナが旅の外套を纏った二十ぐらいの女だとわかると、小さく微笑んだ。
「ここで見ていればわかるわ。ほら、もうすぐよ」
ショールの婦人が時計塔を指差す。
その指先をクレナは目でたどる。
文字盤の天辺には雲を象った装飾があった。
それが左右に開き、奥からゆっくりと黄金色の鳥がせり出てくる。
翼をたたんで首を垂れた黄金の鳥は、薄雲を透かした朝の光にくすんで見えた。光量が少ないせいか、輝きが弱い。
鳴り響いていた鐘がぴたりと止んだ。
時計塔に組み込まれたオルゴールが荘厳な音楽を奏で始める。
その音楽で目覚めたかのように黄金の鳥が頭を上げた。
首をそらして薄灰色の空を見上げる。折りたたんでいた両翼をゆるやかに広げた。
おぉ、とざわめきが広場に満ちた。期待に満ちた幾つもの目が、黄金の鳥の動きを見守っている。
だが、黄金の鳥は凍ったように動かなくなった。
オルゴールの音楽だけが流れ続け、最後に重厚な和音を響かせると、すべてが静寂に沈んだ。
翼を広げた黄金の鳥はぴくりとも動かない。
「あぁ……また失敗だわ」
ため息が聞こえた。
ショールの婦人が肩を落としている。
広場に集った人々も、同じように落胆した様子で煤だらけの石畳を見つめていた。
「本当ならどう動くのですか?」
クレナが訊ねると、婦人は手でショールの前をかき合わせた。襟元に留められた黄色い羽根のブローチがちらりと覗く。
「羽ばたくのよ。生きているみたいに、力強く」
婦人が時計塔へ振り向く。
翼を広げて天を仰いだままの黄金の鳥が、文字盤に吸い込まれていく。
「え?」
婦人の目が見開かれる。
「ああ! まずい!」
「早く止めろ!」
気づいた人々から焦りの声が上がる。
ガツッ、と嫌な音がした。
首を伸ばし、翼を広げたままだった黄金の鳥は、自分が出てきた文字盤の開口部を通れず、左右の雲の装飾にその身を衝突させた。
それでも黄金の鳥が載った台は止まらない。
組まれた仕掛け通り、黄金の鳥を奥に取り込もうとする。
黄金の鳥は首と翼のせいでつかえている。通れない。
力のせめぎ合いに負けたのは、黄金の鳥だった。
ミシリ、と軋む音の後、首と翼がちぎれて落ちる。
人々の悲鳴が広場に響く。
鈍い音と共に、黄金の鳥の首と翼が石畳の上に転がった。
胴体だけになった鳥はようやく文字盤に吸い込まれ、傷だらけの雲の装飾が開口部を閉じた。広場がしんと静まり返る。
カチリ、と文字盤の長針が時を進めた。
広場から去る人々とは反対に、クレナが時計塔の真下へ行くと、鳥の残骸の前で茶髪の青年が膝をついて項垂れていた。
きっと黄金の鳥をつくった職人だろう。さぞ無念なことだろう、とクレナは思う。
自分の作品が大衆の目の前で壊れたのだ。打ちひしがれるのも無理はない。
その傍らに、黒髪で長身の青年が立っていた。
膝をつく職人に慰めの言葉を掛けることはせず、静かに悲しみを共有している。その姿はクレナの印象に残った。
「クレナ?」
名を呼ばれたクレナが振り返る。
恰幅の良い初老の男が立っていた。目が合うと、男は顔をほころばせて腕を広げた。
「やっぱりだ! おぉ、元気にしとったか!」
「マルクさん――失礼、マルク組合長」
クレナはマルクと再会の抱擁を交わす。
「なにを水くさい。お前さんとわしの仲じゃないか。もし肩書きで呼ぶのなら、クレナも昏黄の街の組合長にならんと許さんぞ!」
マルクが笑ってクレナの頭を撫でる。
「最後に会ったのは、お前さんが十六のときか? こんなに別嬪さんになったのに、相変わらず少年みたいな短い髪にして。少しは伸ばしたらどうだ?」
そういうマルクも相変わらず弾力のある腹だった。余計な世話焼きも変わらない。
「仕事の時に邪魔になるので、短いほうがいいのです」
「そうかね? 良い毛並みだから、もったいない気もするが」
「毛並み……馬ではないのですから」
マルクはクレナの頭を最後にひと撫ですると抱擁を解いた。
しばらく、まじまじとクレナを見つめていたが、厳しい表情になると、おもむろに口を開いた。
「さっきのを、見ていたか?」
「はい」
クレナが首肯する。
マルクは天を仰いで、やがて地に散らばった黄金色の残骸へ視線を移した。
「お前さんへの依頼は他でもない。〈払暁の鳥〉を蘇らせてくれ」
黄色い小鳥の群れが鳴き交わしながら飛んでいく。薄灰色の空へ羽ばたく小さな翼を見送って、クレナは呟いた。
「あの時計塔の鳥は〈払暁の鳥〉と言うのですね」
「そうだ。帝国によって奪われた……ここ、払暁の街の象徴だよ」
帝国。
圧倒的な武力を背景に、数年前から次々と国を併呑していった、嵐のような北の大国。
領土拡大を推し進めていた皇帝が半年前に病に倒れ、皇子たちの後継者争いが勃発すると、途端に国獲りをやめ和平を結び始めた。
戦いは治まったが、それまでの過程で灰燼となった街は多い。
今は逃げだした人々が街に戻り、あちこちで破壊された街の再建が行われているのだとマルクは語る。
「今でも夢に見る。逃げた先の丘の上から、燃える払暁の街を振り返った光景。時計塔も、広場も、家も炎に包まれた。街を守ろうとした友を何人も喪った。わしらの歴史が、生きる場所が、燃えていた。何もできなかったが……しょうがない。街は持って逃げられないんだから」
生々しい記憶をたどるマルクに、クレナは掛ける言葉が見つからない。
命は助かったが、生きるためのすべてを失った。それを「無事で良かった」の一言で済ませてしまって良いのか、クレナにはわからなかった。
マルクが目を細める。
「すまんな。お前さんこそ辛い思いをしたというのに。忘れてくれ」
「いえ」
クレナは首を横に振った。マルクはクレナの肩を軽く叩くと、彼らを紹介すると言って歩き出した。クレナはマルクの後に続く。
「おい、セギル。そう落ち込むな。木枠で試した際にはうまくいったんだ。次は成功する」
マルクの声に、黒髪で長身の青年が振り向いた。
「マルクさん……」
マルクの後ろにいる旅装のクレナの姿を見ると、目を瞬かせた。
「そちらは、もしかして。以前言っていた」
「そうだ。助っ人の金細工師クレナだ」
別嬪だろ、と軽口を言うマルクにセギルは苦笑する。
「ようこそ、払暁の街へ。時計師のセギルです。よろしく」
セギルが差し出す挨拶の手を、クレナは握り返した。彼が小さく目を見張ったことに気づく。
「手は大切な商売道具なので、できる限り露出させたくないのです」
セギルの視線の先、革の手袋をしている理由を先回りして述べたクレナに、彼はばつが悪そうに手で頭を掻いた。
「それ、よくわかります。すみません、不躾でしたね」
セギルが申し訳なさそうに眉を下げた。気にしていない、とクレナが首を横に振ると、ほっとした様子で微笑んだ。
「ほら、ウィーズ。仲間が力を貸しに来てくれたよ」
セギルが俯いたまま、微動だにしなかった茶髪の青年の肩を叩く。
「……仲間?」
ゆるゆると首をもたげたウィーズの表情は固い。クレナの姿を見ると、ぎりっと歯を噛み締めた。
「小娘じゃないか……!」
「ウィーズ!」
非難の声を上げたセギルに、ウィーズは頭を振って立ち上がった。
「俺は一級の金細工師だ。やっと認められて、〈払暁の鳥〉の製作を任されたんだ。それなのに、助っ人が小娘? ふざけるな!」
「おい、よせ」
肩を掴んだセギルの手を、ウィーズは振り払う。
「よそ者のお前に何ができる? どうせ階級だって、見習い卒業の三級だろ。いくら街の再建で人手不足だから……マルク師匠の紹介だからって、そんなやつを製作に関わらせられるかよ!」
ウィーズの目には、追い詰められた人間特有の剣呑な光が宿っていた。
暗く鋭い嫌悪を向けられ、クレナはため息をつく。旅の外套を払い、首から下げていた鎖を指で引っ張り出した。
細い銀の鎖には、楕円形の金板――金細工師の階級章がついている。貨幣と同じぐらいの大きさと厚みだったが、貨幣よりも緻密な浮彫が隙間なく施されていた。
クレナの階級章を見た途端、ウィーズとセギルの表情が変わった。
「嘘だろ……親方かよ……」
一級より上位の階級。
ウィーズは信じられないように体を戦慄かせた。セギルは難しい顔をして黙っている。
「人は見掛けによらない、の代表例だろう?」
成り行きを見守っていた――こうなることを予想していたマルクは静かに言った。ウィーズが気まずそうに視線を逸らしながら訊ねる。
「出身は……?」
「昏黄の街です」
ウィーズとセギルの口からため息がこぼれた。
北にある山間の街。豊かな金鉱があり、金細工の技術が発達した――帝国によって最初に侵略された街。
帝国による徹底的な同化統治によって、昏黄の街は伝統と歴史を失った。唯一残されたのは、優れた金細工の技術のみ。辺境の地にありがちな、言葉の崩れや訛りも帝国は許さず、厳格に正しい公用語を教え込まされた。
ウィーズがぼそりと呟く。
「……悪かった」
「お気になさらず。慣れていますから」
階級章を襟の中にしまったクレナは、〈払暁の鳥〉の残骸の傍に屈みこんだ。黄金の翼を手に取り、ちぎれた断面や施された浮彫を観察する。
「純金製なのですね」
クレナの言葉にウィーズが首肯した。
「だから前のキルシュは、帝国のやつらに奪われた」
「羽根の彫金……線の深さが均一です。素晴らしい。すべて、あなたが?」
ウィーズが頷き、ごくりと唾を飲み込む。作品の評価を貰う徒弟のように、作品に対する自信と一抹の不安が入り混じった顔をしている。
クレナは唇を緩めた。
「そんなに構えないでください、ウィーズさん。あなたへ評価を与えるために、この街へ来たのではないのです。私が受けた依頼は〈払暁の鳥〉を蘇らせること。それには、この街の記憶を受け継ぐ、あなたが必要なのです」
クレナは立ち上がるとウィーズに向き直った。
「私は〈払暁の鳥〉を知らない。どのような彫金が施されていたのか、どのように羽ばたくのか、見たことがない。でも、あなたは」
クレナが言葉を切った。マルクとセギルを見つめる。
「あなた方は、知っている。それは、とても心強いことです」
時計塔の内部は、炎に焼かれた跡はあったが、丁寧に修繕されていた。
「街に戻って来て、皆が一番に取り掛かってくれたんです。ありがたいことだ」
時計塔の最上階。
幾つもの歯車が組み合わさった大時計の裏側で、セギルは胴体だけになった〈払暁の鳥〉を台の上から取り外した。
翼がちぎれた断面から、仕掛けの鉄が覗く。壊れた翼と首は工房に運び修理するため、下でマルクとウィーズが梱包している。
「よっと」
セギルは胴体部分を抱えると、壁際の作業台へ移動させた。純金の重みで、ぎしりと木の作業台が軋む。
作業台の前の赤煉瓦の壁には、びっしりと隙間なく設計図が貼りつけられていた。クレナが一枚一枚、目を通す。
「よく燃えずに残っていましたね」
「逃げる時に、僕が持ち出したんです。ただ、〈払暁の鳥〉の詳細な設計図は燃えてしまいました。……師匠と一緒に」
息をのんだクレナとは違い、セギルの瞳は静かだった。
「この設計図がなければ、時計塔は蘇らなかった。それは事実です」
セギルが腕を伸ばし、〈払暁の鳥〉のせり出し台の設計図に指で触れる。
簡単な鳥の図が小さく描かれていた。詳細は別の紙に、きっと何枚にも渡って描かれていたのだろう。
壁に貼られた設計図の中で、〈払暁の鳥〉の姿はそれだけだった。
クレナが作業台の前に立ち、〈払暁の鳥〉に触れる。革手袋をした手が、翼と首を失った金色の鳥を優しく撫でる。
「美しいですね」
「僕もそう思います」
ふっとセギルが微笑む。
「――美しいものを作る人の手は、美しい」
クレナの手が止まった。
「あ、すみません。師匠がよく言っていたんです。なんとなく思い出してしまって」
セギルの言葉に、クレナは一瞬だけ顔を曇らせた。撫でていた手を下ろす。
「ウィーズもマルクさんも、こんな美しいものを作れるなんて。金細工師さんは偉大ですね」
目を輝かせるセギルに、クレナは曖昧に頷いた。
「……ここまで仕掛けを復元させた時計師も、偉大ではありませんか」
「僕だけの力じゃないですから」
「セギルさんの階級は?」
クレナの言葉にセギルの目が大きくなる。
「唐突ですね」
「設計図がすべて揃っているわけでもない。それでも、あなたは蘇らせた。確かな知識と技術を師から受け継いでいるのでしょう? そうでなければ〈払暁の鳥〉を蘇らせることは、難しい」
束の間の沈黙の後、セギルが首から下げていた階級章を引っ張り出し、クレナへ見せた。
細い銀鎖には、貨幣とほぼ同じ寸法の小さな銀時計がついている。微細な針が囁くように時を刻んでいた。
「動いている小時計……親方ですね」
その歳で、とクレナが付け加えると、セギルは居心地が悪そうに頭を掻いた。
「誰かの助けがないと何もできない、不肖の時計師ですよ。時計塔だって街の人たちの尽力があってこそですし、設計図を残そうとしたのは師匠です。僕はいつも助けられてばかりだ」
「では、今度は私を助けてくれますか?」
目を丸くしたセギルだったが、真っ直ぐに自分を見つめるクレナに笑顔で頷いた。
「もちろんです」
「ありがとうございます。それと、敬語は必要ありません。名前も呼び捨てで結構です。同じ階級でしょう?」
「それならウィーズは?」
「同じ年頃なので、やはり必要ありません」
「でも、クレナ……は、誰にでも敬語だよね」
「私は仕方ないのです。こういう話し方しか、できませんから」
訛りのない言葉は淡泊に聞こえる。
そんなことより、とクレナは続けた。
「さっきマルク組合長が言っていたことですが……木枠の試行では動いたのですよね?」
「うん。木枠では問題なかった。金のキルシュで動作不良を起こすのは、これで二度目。一度目は、まったく動かなかった」
壁に貼られた設計図を注視するクレナに、セギルが訊ねる。
「金細工師の親方として、何か思うところがある?」
手を口元に当て考え込んだクレナは、やがてぽつりと呟いた。
「重すぎるのだと、思います」
「確かに純金は鉄と比べたら重い。しかしなぁ、仮に〈払暁の鳥〉が鉄に鍍金されたものだったとしたら、経年劣化で金が剥がれて、地金の鉄が見えるんじゃないか? 汚れ落としで触ったことがあるが、しっかりとした金の質感だったぞ」
時計塔の一階にある作業部屋で、椅子に座ったマルクが腕組みをして唸った。
傍らに立つウィーズも胡散臭げな顔をしている。
「〈払暁の鳥〉は、純金製に決まってるだろ」
何を言っているんだ、と顔を顰めるウィーズに、クレナは首を振った。
「純金だと重過ぎて、仕掛けがうまく動かないのです」
ウィーズが苛立ったようにクレナへ訊ねる。
「じゃあ、純金でも鍍金でもないなら、何だよ?」
「――重ね鍍金だったのではないでしょうか」
聴き慣れない言葉に、ウィーズとセギルは顔を見合わせる。
「あぁ、そうか」
マルクは手の平で自分の顔を擦った。深いため息をつき、椅子の背もたれに体を預ける。
「話には聞いたことがある。幾重にも鍍金を重ねる技法。一回のみの鍍金とは違って、金を何度も重ねるから厚みにムラが生じやすい……高等技術だな」
「マルク師匠は経験あるんですか?」
訊ねるウィーズへ、マルクは首を横に振った。
「ない。払暁の街に伝わっていたその技術は、途絶えてしまった」
ウィーズとセギルが表情を強張らせた。
どのような技術なのか、わからなければ〈払暁の鳥〉は永遠に蘇らない。
二人の青年の反応に、マルクはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「だが、昏黄の街なら重ね鍍金の技術が継承されているだろう?」
ウィーズとセギル、二人から同時に注目されたクレナは目を瞬かせる。しかし、臆することなく頷いた。
「材料が揃えば、重ね鍍金はできます」
「よし。わしの工房に鍍金の薬液はあるが、まずは、鍍金する地金の鉄を鋳造しないとな。二日はかかるから、クレナは街の見物でもして、休んでいてくれ」
「いえ、薬液の調合があるので――」
「いいや、休んでな」
マルクは椅子から立ち上がり、クレナの言葉を遮った。
「仕事一筋なのは職人として結構だが、今から無理をしてはいかん。休める時に休みなさい。お前さんの出番はちょいと先だ」
マルクはクレナの肩をなだめるように軽く叩く。不承不承頷いたクレナに、マルクは苦笑し、ウィーズを連れて部屋を出た。
外に繋いでいた驢馬の背に梱包した金のキルシュを括りつけると、マルクとウィーズは工房へと向かった。
時計塔の外で二人の背中を見送る。
セギルと並んでいたクレナは、ふと石畳の上に黄色い羽根が落ちているのを見つけた。その鮮やかな黄色に惹かれて拾う。
「キルシュの尾羽だ。これは幸先がいい」
「キルシュ? よく見かける黄色い小鳥の名前も、キルシュというのですか」
首を傾げるクレナにセギルが頷く。
「キルシュの羽根は幸運を運んでくれるって、言い伝えられているんだ。ちょっと貸して?」
クレナは拾ったキルシュの羽根をセギルへ渡した。
セギルは小刀を取り出すと羽柄の先端を削り始める。ほどほどに尖らせると、上着のポケットの中をあさって何かの金具を取り出した。
小刀を使って金具を小さく加工し、羽根に取り付ける。
「はい、どうぞ。幸運を願って、身につける人は多いよ」
クレナはセギルから手渡された、ブローチに加工された羽根を指で摘まみ上げ、まじまじと観察する。
「器用ですね」
「これでも時計師の親方だからね」
おどけたように言うセギルに、クレナは口元を緩めた。
あちらこちらで槌の音が響いている。
指示を飛ばす石工の怒鳴り声の下を、使い走りの子どもたちが駆けて行く。砕けた赤煉瓦の土埃に、微かな煤の匂いが混ざっていた。
「ここが大通り。辻を二つ通り過ぎて、三つ目を左に曲がると、工房が集まる職人通りになる。マルクさんの工房もあるよ」
セギルが歩きながら隣のクレナに説明する。
大通りは赤煉瓦造りの建物が建ち始めていた。
組んだ足場の上で、壮年の金細工師が壁に装飾を嵌め込んでいる。蔦の形をした装飾は、葉の葉脈にいたるまで細かく彫金されていた。
「赤煉瓦の建物が多いですね」
「この街の伝統だよ。朝陽を浴びると、街全体が朱色に染まって、とても美しい」
クレナはぐるりと視線を巡らせた。
時折、思い出したかのように焼け跡が残っているが、それでも多くの建物が建ち並び、大通りは人々の活気にあふれていた。
「だいぶ再建が進んでいますね」
「うん。焼けた煉瓦でも、使えそうなものは再利用しているから。一から作り直すより早いし、やっぱり前と同じものじゃないと」
「再建へのこだわり……ですか?」
セギルは働く人々を見つめ、静かに微笑んだ。
「失ったものを新しく作るんじゃなくて、蘇らせたい」
街は帝国によって徹底的に破壊された。
壁の壮麗な装飾は剥がされ、扉のノッカーにいたるまで、ありとあらゆるものが略奪された。そして最後に火が放たれた。すべてが灰燼となった。
それでも、人々は街へ戻って来た。
自分たちの居場所、生きる場所へと。
暗澹たる夜が続いても、明けない夜はない。夜明けは必ずやって来ると信じて。
セギルが天を仰ぐ。澄んだ青空には太陽が輝いている。
「陽が昇るように、変わらず続いていくこと。受け継がれてきた伝統や歴史。それを後世へ伝えるのが、生きる僕たちの使命なんだと思う」
工房の使い走りだろう、ひとりの少年がクレナとセギルの横を走り抜けて行く。背負った荷包みの肩紐を握りしめ駆けるその姿に、クレナは目を細めた。
鉄でできた〈払暁の鳥〉の部品が、マルクの工房の作業台の上に載っていた。
傍らでは手慣れた様子のウィーズが、クレナが指示した配合で薬液を薬液槽へと注いでいる。素手で準備を行うウィーズに、クレナは眉を寄せた。
「薬液に触れると皮膚が爛れます。一滴でも危険ですから、防護の手袋を必ずしてください」
クレナの厳しい声にウィーズが慌てて手袋をつける。
準備が整うと、クレナは鉄の鉗子でキルシュの片翼を挟み、滑り込ませるように薬液の中へ沈めた。薬液は一滴も飛び跳ねない。
おぉ、と隣で火の調整をしていたマルクが感嘆の声を上げる。
「さすが、手際が鮮やかだ」
翼が十分に薬液に浸ったのを確認すると、クレナは煮立つ隣の薬液槽へと翼を移した。
熱された薬液に沈んだキルシュの翼が黄金色に色づく。
普通の鍍金ならこれで終わるが、クレナはもう一度、最初の薬液の中へ翼を戻した。じゅわっと蒸気が上がる。瞬く間に金色が強くなる。
金の膜が全体にムラなく生じた瞬間を逃さず、翼を取り出す。再び加熱する。繰り返す。工房の中に熱が充満し、クレナの頬を汗が伝う。それでも汗を拭うことはせず、一心に手元へ集中する。
最後に水を張った桶に翼を入れると、桶の水はあっという間に沸騰した。徐々に冷えていく翼を見て、ウィーズは息を呑む。
水の中で眩しく光る、黄金の翼。
ただの鍍金とは異なる、その肉厚な金の輝きと存在感。
「完全に冷えたら磨いてください。その後に、彫金を施します」
クレナは汗を服の肩口で雑に拭った。
一仕事終えても、彼女の目はふたつの薬液槽に注がれている。薬液の様子を油断なく見つめ、次はどれほど浸せばよいのか、頭の中で時間を計算している。
静かに、それでいて鋭利な気迫を放つ彼女に、ウィーズは唾を飲み込んだ。
マルクの工房に泊まり込んだクレナは、翌朝陽が昇るとすぐに鏨を手にした。
前日にウィーズが磨き上げたキルシュの翼へ、羽の細かい筋を緻密に彫り込んでいく。大部屋の作業台に座り黙々と彫金を施すクレナの姿を、ウィーズは床を箒で掃きながら遠巻きに見ていた。
クレナは手元から視線を外さずに、ウィーズへ声を掛ける。
「片付けを終えたら、手伝ってください」
「え……?」
思い掛けないクレナの言葉に、ウィーズの瞳が戸惑うように揺れた。
「左の翼はもう仕上がりますから、右も同じように彫金をお願いします。線の深さは翼の付け根が深く、先端の方は浅くしてありますので」
「え、いやっ。オレが親方の作品を彫るなんて……そんな」
「あなたは払暁の街の金細工師なのでしょう? あなたが作らなくて、どうするのですか。階級は関係ありません。重要なのは、技術があるかないかです」
羽根を彫り終えたクレナが鏨を置いた。首を動かし、見る角度を変えて彫りを確かめる。
「断っておきますが、お情けで言っているのではありません。確かな技術を持っているウィーズさんだから、頼んでいるのです」
クレナは使っていた自分の道具をひとまとめにした。椅子から立ち、始めてウィーズを見る。
「この街に認められた一級の職人を、私は信用しています」
ウィーズの表情が変わった。職人として仕事に携わる、その誇りが瞳に火を灯す。
「深さは……どのぐらいに調節する?」
「このぐらいです」
そう言って、クレナは自分が施した彫金を指で撫でた。
――技術は見て触ってものにしろ。
どの街でも共通した職人の教え。ウィーズは表情を引き締めると、クレナが仕上げた翼を指で丁寧になぞり始めた。
翼はウィーズに任せ、クレナは奥の部屋に籠って〈払暁の街〉の首の部分に取り掛かった。
翼以上に細かな部分が多い。集中して彫金を施す。
「――若いとは言っても、さすがに食べないと体がもたないよ」
突然、頭の上から降ってきたセギルの声に、クレナははっと手を止めた。
窓から差し込む光がいつの間にか傾きかけている。見上げると、呆れた表情のセギルと目が合った。小さな籠を手にして傍らに立っている。
「いつから……」
セギルは律儀に首から下げた小時計を引っ張り出した。
「うん。七分と四十秒前からかな。もちろん、扉はノックしたよ」
まったく気がつかなかった。
クレナは鏨を置いて、座ったまま大きく伸びをした。強張った関節が悲鳴を上げる。
「もっと早く、声を掛けてくれてもよかったですよ」
「すごく集中していたからね。中断させたら悪いと思って」
セギルの口の端が緩んでいる。
「……本心は?」
クレナが目を眇めると、観念したかのようにセギルは肩をすくめた。
「昏黄の街の最高峰の技術を、間近で見てみたかった」
「そうですか。そんなに褒められたものではありませんよ」
今更ながら、クレナは香ばしい匂いに気がついた。セギルが持つ小さな籠から漂ってくる。
「差し入れにミートパイを買って来た。さっきウィーズにも渡したよ」
ぐう、とクレナの腹が正直に鳴った。セギルが籠から包みをクレナに手渡す。手を汚さずに食べられるように、ミートパイは紙に包まれている。
「食べる時も保護の手袋をしたままなんだ?」
「…………」
包みを開けようとしたクレナの動きが止まった。
不思議そうに見つめるセギルに、クレナは束の間逡巡したが、やがて無言で手袋を外した。
途端に、セギルの瞳に驚きと罪悪感が宿る。
それらを無視し、クレナは包み紙を開けてミートパイに齧りついた。香ばしく焼き上げられたパイ生地の中には挽肉と細かく刻んだ野菜が入っている。
「豚の挽肉?」
「――え? あぁ、うん、ミートパイだから」
「昏黄の街だと、一口大に切った鳥肉です」
「そうなんだ……」
会話が途切れる。
クレナは黙々と口を動かしている。
しん、と部屋の中は静まり返った。窓の外、夕刻を迎えた街のざわめきが遠く聞こえる。
クレナはミートパイを食べ終えると、包み紙を丁寧に折りたたんだ。セギルが受け取り、持ってきた籠に入れる。彼の視線にクレナは気づいていた。
「以前、誤って薬液に触れて火傷したのです。見苦しくて、すみません」
クレナは左手で右手を撫でた。右の甲の皮膚は赤黒く変色し、爛れていた。
「どうして……」
セギルが苦しげに眉根を寄せる。
「未熟さの証です。お恥ずかしい」
「違う。どうして、嘘をつくの?」
途端に空気が張り詰めた。
クレナの瞳に険しさが宿る。
その鋭い光をセギルは真正面から受け止めた。
「仕事の怪我なら、あなたは隠さない」
仕事一途の性格はセギルにも理解できた。高い技術を有しながら、驕らない謙虚さも。そんなクレナが嘘をつく理由。
「その歳で昏黄の街に認められた親方だ。想像でしかないけれど……輝かしいばかりの道のりではなかったと思う」
誰かに暗い感情をぶつけられたとしたら。年の若さをはじめ火種は容易に想像できる。
ふいにクレナが目を逸らした。俯いて視線を床に落とす。
「――兄がいたのです」
言葉の過去形にセギルは言葉を失う。クレナの声音は淡々としている。
「親は帝国本土へ連れて行かれたので、十六になるまで兄と二人暮らしでした。昏黄の街の職人の中でも最も親方に近い人で、次の親方試験では、兄の作品が選ばれるだろうと、皆も言っていました。ですが……」
選ばれたのは、クレナの作品だった。
自分より先に妹が親方になる。その現実を受け入れられなかった兄は、自身の工房――妹と住む家に火を放った。
「炎の中で、一緒に外へ逃げようと伸ばした私の手を、兄は掴んでくれませんでした」
右手の火傷の痕に爪を立てる。
この手が兄を絶望へと突き落とした。
「それでも、私には金細工しかなかった」
十六の少女が食べていくには、生きていくためには、稼がなければならなかった。
組合に持ち込まれる仕事を頼りに街を出た。親方になれば工房を持つことができるが、兄との記憶が残る地に工房を開く気には、どうしてもなれなかった。
「まばゆい金を触るこの手は、醜く汚れているのです」
「それは違う」
セギルが首を横に振る。
「――美しいものを作る人の手は、美しい」
弾かれたようにクレナは顔を上げた。セギルの静かな瞳と目が合う。
「師匠の受け売りだけど。真理だと思うよ」
達観も諦観も通り越して、彼の瞳は凪いでいた。
チルルル、と軽やかなキルシュのさえずりに目が覚めた。
いつの間に寝てしまったのか。
クレナは間借りしている部屋の机から体を起こした。肩から腕にかけて鈍い痛みが走る。強張った関節をほぐすように大きく伸びをした。
窓から見える空が白んでいる。
五日がかりで完成した〈払暁の鳥〉は昨夜のうちに時計塔へ取りつけられた。
クレナは椅子から立ち身支度を始める。
顔を洗って服を着替える。机の上の手袋へと手を伸ばすと、傍らに置いてあるブローチに目がとまった。
幸運を運ぶ黄色い羽根。
窓の外からは、相変わらずキルシュの鳴き声が聴こえる。
しばらく逡巡していたが、クレナはブローチを手にすると襟元に留めた。机の上に手袋を残し、部屋を出る。
まだ街は薄闇に沈んでいたが、通りには人影があった。
皆、クレナと同じ場所へ向かっている。クレナが時計塔の建つ広場に着くと、すでに多くの人々が集まっていた。その顔には期待と不安、希望と疲れが入り混じっている。
その中で、クレナはいつかのショールを羽織った婦人を見付けた。
彼女もクレナの存在に気づく。彼女は自分の襟元につけたキルシュの羽根のブローチを指で撫でると、クレナに微笑んだ。同じ幸運の羽根が、今はクレナの襟元にもある。
「おはよう、クレナ」
時計塔にいると思っていたセギルの姿にクレナは驚く。
セギルも手袋をしていないクレナに気づいて一瞬だけ目を見張ったが、すぐに口元をほころばせた。
「時計塔にいなくて、いいのですか?」
「うん。マルクさんが任せろだって。〈払暁の鳥〉の復活を広場で見ていろって、僕もウィーズも追い出された」
セギルの視線の先、少し離れた場所に立つウィーズは固い表情で時計塔をじっと見つめていた。クレナの顔が曇る。
「まだ成功するかどうか、わかりませんよ」
「成功するよ」
きっぱりと言い切ったセギルに、クレナは目を丸くする。
クレナが口を開く前に、時計塔の鐘が鳴り始めた。
さっと人々の間に緊張が走る。誰もが固唾を飲んで時計塔を見上げる。
鐘の音が止む。
文字盤の天辺、装飾の雲が左右に開く。
姿を現した〈払暁の鳥〉は、眠っているようだった。
うずくまるように頭を垂れ、翼をたたんでいる。
一目見た人々がどよめいた。まだ動いていないのに圧倒的なその存在感。
徐々に増していく陽光を受けて〈払暁の鳥〉はまばゆく光り輝いていた。
オルゴールが音楽を奏で始める。
眠りから覚めるように〈払暁の鳥〉が首をもたげた。雲ひとつない薄青の天を仰ぎ、ゆるやかに折りたたんでいた翼を広げる。
その両翼に、一際強い光が差した。
日の出の瞬間。
人々が息をのむ。
〈払暁の鳥〉が――羽ばたいた。
数多の縋るような祈りを受けて、力強い羽ばたきを繰り返す。機械仕掛けであるはずなのに、その自然で滑らかな動きは生き生きとしている。
オルゴールの最後の和音が消える前に、人々の驚喜の声が広場に轟いた。
感極まって涙を流す者、傍らの者と抱き合い喜びを分かち合う者。ぽかんと信じられないように〈払暁の鳥〉を見上げていたウィーズは、あっという間に大勢の人に囲まれ、どしゃぶりの称賛の言葉を浴びせられた。
セギルの周囲にも人々が詰めかける。皆、一様に笑顔だった。
帝国によって壊された街。
街の象徴が奪われ、歴史と伝統も炎に焼かれた。
それでも、瓦礫と化した街の中から人々は立ち上がる。
奪われなかった誇りを胸に抱いて。
絶望に膝を屈しない。
歓喜に湧く人々に、もみくちゃにされたクレナは、石畳の窪みに足を取られた。バランスを崩し、転びそうになる。思わず右手を突き出した。
その手をセギルが掴んだ。
職人特有の武骨な指。かさついた肌の温もり、大きな手。見上げると、セギルが微笑んでいた。
「ありがとう」
彼の言葉に、クレナは胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
滲む視界の中で、キルシュの群れが鳴き交わしながら飛んでいく。黄色の翼が朝陽を受け、黄金色に輝いている。朱色に染まる街に金粉を散らしたかのようだった。
払暁の鳥が、夜明けを告げる。
人の手によって壊された街は、人の手によって蘇る。
何度でも、何度でも。