黒鳥は二度羽ばたく
【未来――②】
以下、[リードルフ・アルケイ『黄金郷を辿る――先史魔術文明国家パルケルンの興亡』]より引用。
『[……]ここまでで現在のパルケルンを巡る研究状況を説明してきたが、最後に一つ、個人的に強く興味を惹かれた事例について紹介したい。
復活王リディのことは読者諸氏もご存知だろう。<大災害>後に打ち立てられた最初の国家の最初の王。<大災害>以前の史料が一つとして発見されていなかったこれまでの状況においては、「歴史上もっとも古い英雄」として知られた、かのリディである。
このリディに纏わる<大災害>以前の史料が最近になって発見されたようなのだ。イーストカーダ遺構からの発掘品の一つで、<大災害>発生直前に書かれたと推測される宮廷女官の日記である(図89)。その中に、若き日のリディであろうと思しき人物に関する記述が存在していたのだ。
パルケルンでは、貴族階級以外の人間の名前を文書に残すことを避けていた、というのはこれまでに見てきた通りだ。ここで挙げたリディと思しき人物についても、リディ、と固有の名前は残されていないのだが、変わりに<黒鳥>という異名が人物を指すための言葉として用いられている。
「その飛翔すること、黒鳥の如し」というのは復活王リディの威光を示す一文として、広く知られている。女官の日記に記された<黒鳥>という異名が何に由来するかはわからないが、その他容姿等に関する断片的な記述を紐解いていくと、この<黒鳥>は復活王リディと驚くほどに一致している。
そしてここからが面白い話で、この<黒鳥>は傾国を企てた悪女として記されているのだ。
少し、内容について詳しく触れると、この<黒鳥>という異名は、<黒鳥の乱>という宮廷事変の中で挙げられている。次期の王国運営を担うことになる世代の男子のほとんどが、この<黒鳥>に篭絡され、分別を失ったというのだ。結局、政略婚約が多重破棄される直前になって、<黒鳥>の出自がどことも知れないことを理由に貴族院からの糾弾を受け(当時の貴族階級は非貴族階級を犬猫と同格に見ていたというのは事前に述べたとおりだ。そのような社会状況の中で傾国寸前まで持ち込んだのは、それだけでも驚くべき話である)、彼女が宮廷を追い出される形でこの乱は収まったというのだが……。
この<黒鳥>のイメージが従来の復活王のそれとはかけ離れていることは言うまでもないだろう。<大災害>という未曽有の、未だに何が起こったかすらも定かではない、人類をあわや滅亡という段階まで苦しめたあの危機に立ち、今現在の私たちの時間まで繋げた偉大なる王。そのリディにこのような過去があったというのは、信じがたい話であり、しかし同時に、夢のある話である。
果たして<黒鳥の乱>は何を目的に行われたのか。
もしもリディにわずかでも貴族階級の血が流れていたら、もしもこの時点で彼女がパルケルンの政を思うがままにする権力を得ていたら、<大災害>はひょっとすると……。
こうして考えると、私の創作家としての血が騒ぎ、そのifを小説に落とし込みたくもなるのだが……、残念ながら宮廷ラブロマンスを書けるだけの力量は私にはない。
失われた黄金郷、先史魔術国家パルケルン。
霞がかったこの時代も少しずつ、光が当たり始めている。
いずれ多くの作家たちがこの時代のために筆を執る――、そんな未来を願って。』
引用、終了。
*
【現在――①】
三年ぶりに見たリディちゃんは、肌が冬の太陽に透き通って、びっくりするほど白かった。
だから前よりも色の濃くなった金色の髪がおでこに落とした影とか、喪服みたいに身体を覆った黒いコートが、雪風に命を吸われて枯れた花よりもずっとずうっと暗くて、綺麗で。
言われる前に、わかった。
ダメだったんだって。
「――――ごめんね、ネル」
涙なんか一筋も流れてないのに、誰がどう見たって泣いているような顔で、リディちゃんは言った。
わたしは、なんて言葉をかけてあげようか、たとえば、大変だったねとか、おつかれさまとか、気にしなくていいよとか、むしろわたしがありがとうだよとか、そういうことを考えて、結局。
リディちゃんを抱きしめて、こう言った。
「――――おかえり、リディちゃん」
そうしたら、今度こそリディちゃんは本当に泣いてしまった。
*
【過去――①】
知らない子供が、森の中でうつ伏せに倒れていた。
幼いネルはたったこれだけのことに、ひどい衝撃を受けた。
というのも、自分と同年代の――というよりそもそもが、子供というものをこの名もない村で見ることがなかったからだ。
初めて、自分と同じような形のものを見た。
小さな手足は、地面にばらばらと落ちた樹木の枝よりも細い。水鏡に映すだけではわからなかったが、自分は人から見れば、こんなに頼りない存在なのだ。そういうことを、目の前に倒れる子供を通して、理解する。
薄汚れていた。
金色の髪は、このあたりではほとんど目にすることがない。狐のそれよりも色素の薄いそれは、見るからに異邦人のそれだった。
身に纏う衣服は襤褸切れ同然、どころか襤褸切れそのもので、かろうじて元は黒色をしていたのだろうとネルは推測したが、もしかすると汚れでさっぱりわからなくなっているだけで、元はもっと鮮やかな色だったのではないか、とも思う。
ネルはじっとその子供を見つめる。
浅く上下する背中を見れば、まだ息はあることがわかる。息があるということは、まだ動く可能性があるということだ。
夏の日に、道の真ん中に寝そべっている蝉を警戒するように、ネルはそこに立って、その子供をじっと見ていた。それは観察というより、単に自分が何をしたらいいのか、そういうことがはっきりしていないことによる躊躇いだった。
そのとき、森が揺れた。
ばさり、がさり。
大げさに木々が葉を擦り、空気を揺らす。花の香りが、土の匂いに交じって、ほんのりとネルの鼻をくすぐる。
見上げた。
薄青い空に、黒い線が引かれていくのを。
渡り鳥だ。
もう、春なんだ。
ネルは視線を戻す。
黒鳥たちはもう飛び去って、次の冬が来るまでこの村に戻ってくることはない。
未だ冬の白さを残す太陽に照らされたその金髪は、汚れた黒衣も相まって、取り残された小鳥のように、ネルには見えた。
傷ついた動物を拾うのは、これが初めてのことではない。
ネルは、この村ですべてが許されている。
同時に、この村のすべての人間は、すべてのことを許されている。
今更、一人くらいは大したことじゃないだろう。
それでもやっぱり、いきなり近付いて、いきなり触ったりするのには勇気が要るから、まずは遠くから。
こんな風に、話しかけた。
――こんにちは。
――あなた、お名前は?
*
【現在――②】
人がうっかり死んだときみたいな空気だった。
わたしの家の中の話。
もう本当にすごい。
今日も今日とて家の暖炉は「今日が最後と燃えてやるぜ!」って調子でごうごう音を立てて熱を上げてるんだけど、ぱきぱきと部屋の壁が外側から凍り付けになっていくみたいに、寒さが深々と迫ってきてる。そんな気分になるくらいに、空気が落ち込んでる。
原因は明らかで、わたしの向かい側に座る金髪の女の子が、「暖を取ろうとして落ち葉に火をつけてみたら、みるみる延焼を起こして山が丸ごと火事になってしまった。これからわたしはどう生きていけばいいんだろう……」みたいなものすご~く辛気臭い、あいや、辛気臭いとか言っちゃダメだ。えーっと、う、愁いを帯びた美しい顔……?をしているからだ。
リディちゃんは、自分と私のちょうど真ん中くらいの、机の何もないところを見ながら、私が奮発して出涸らしじゃない葉っぱで入れた紅茶のカップを何も言わずに、両手で包むように持っている。
冬の日にそういう仕草をするのは、普通手を温めるためなんだろうけど、その指先がもう凍って動かなくなってるみたいに白いから、むしろ紅茶を冷まそうとしているように見えた。
かれこれ二時間くらいそうしてる。
積もる話もあるだろう、ってみんな気を利かせて二人きりにしてくれたけど、この二時間、大抵は無言。だけどたまにリディちゃんは思い出したように、
「ごめんね、ネル……」
なんて、苦し気に言うんだからたまらない。
いや、ほんとに。
この重苦しい空気をでやーっ!っとよそにやるためにわたしはわたしで言葉を探してるだけど、残念ながらそのまま二時間が経過してしまった。
残念だったね、とか(追い打ちじゃない?)。
ぜ~んぜん気にしてないよ!とか(三年間の頑張りをないがしろにしすぎじゃない?)。
すっごく綺麗になったね、ちゅーしてもいい?とか(わたしたちの友情はどこに行っちゃうの?)。
三年間、天気の話くらいしかしなかった代償がここに来てわたしに襲い掛かってる。
逆にキレ散らかすのはどうだろう、と思う。三年間貴族学校で社交してきたその口は飾りかい。純朴田舎娘のわたしのお口に頼らず、その都会派の唇で面白い話題を提供し腐らんかい、とか。
「さ、」
でも、まあ。
そんなこと言えるはずもないので。
「寒いねっ!」
「うん……」
「冬だねっ!」
「うん……」
白状すると、十分前にも同じ会話をしたし、二十分前と三十分前と四十分前と、その間を埋めつつ二時間前にも同じ会話をしました。
ダメだ―。
三年だ。
三年も王都の空気を吸ってくればリディちゃんのこの陰気な、あいや、生真面目……?なところも多少は変わるかと思ったけど、全然変わらなかったらしい。残念なことに。
残念なことに。
ここに、もう一回帰ってきちゃうくらいだし。
リディちゃんのティーカップから、もう湯気が立っていないことに気付く。当たり前だ。わたしの方のお茶は三杯目で、一方リディちゃんはまだ唇を乾かしてるくらいなんだから。
「淹れ直すね」
わたしはそう言って椅子から立ち上がる。それから、はい、と。ティーカップ出して、と手を差し出したんだけど、リディちゃんはそれを幽霊みたいな瞼で見つめて。
「…………?」
そっと、自分の手をわたしの手に添えた。
ちがう。そうじゃない。
振りほどくのも可哀想なので、わたしはまず、ふるふる首を横に振ってそれを伝えるんだけど、
「…………??」
指を絡められた。
ちがう。そうでもない。
そうでもないんだけど。
それでもまあいっか、って気分になったから。
もう片方の手も出して握らせて。
それからよいしょーっ、とリディちゃんを引っ張って立ちあがらせる。
それから。
「るんたったー、るんたったー」
適当にその手を上下に振らして。
「るんたーるんたー、るんたったー」
寝ぼけたリスみたいなステップを踏んで。
困惑するリディちゃんが歌い出すまで、踊ることにする。
三年前、わたしたちはずっと、こんな感じだった。
……ごめん、七年前くらいまでの話だったかも。
*
【過去――②】
<星の夢視>という。
ネルのことだ。
名もなき村の、経典もなければ名前もない民俗宗教。ただ、その巫者だけが、<星の夢視>と呼ばれている。
ネルが生まれたときから、その村は閑散としていた。
ずっと昔からそうさ、と言ったのは、その村で一番年長の老人だったのだから、本当に昔からそうだったのだろう、とネルは思う。
すべてのパーツが揃った家というのは、ほとんどなかった。
どの家庭もどこかが欠けていて、その穴を埋めるため、村全体が緩やかな共同体を形成している。
静かで、穏やかな村だった。
たった一人の子供で、<星の夢視>でもあるネルは、その村の中で、窒息的な優しさに埋もれて生活していた。
いつも誰かに助けられながら、たった一人の家で暮らしていた。
金毛の、渡り鳥を拾うまで。
置いて行かれた渡り鳥の少女は、リディと名乗った。
ネルが不器用な指先で一つ目の服を縫い立て、彼女の身体に膿んだ傷跡がなくなったころ。ネルがひょっとすると、自分の容姿というのは同年代と比べて見劣りしちゃってるんじゃないかと疑いを持ち始めたころ、ようやく彼女は自分の身の上について語った。
もっとも、語るべきところなど、ほとんどなかったが。
父と、母がいた。
今はいない。
はぐれたのか、捨てられたのかもわからない。
行く当てもない。
どうすればいいかわからない。
悲しい。
つらい。
わーん。
しくしく。
じゃあ一緒に住もうよ。
というのがネルの答えだった。
きょとん、と顔を上げたリディは、驚きからか涙を止めていた。
これ幸い、とネルは言葉を重ねた。
わたしも一人っていえば一人かも。
一人と一人で二人かも。
一緒に住もうよ暮らそうよ。
あなたが大人になるまでは。
もう一度渡りの季節が来るまでは。
翼を休めて暮らそうよ。
るんたーるんたー、るんたったー。
こうして、<星の夢視>の少女は一人ではなくなった。
穏やかで小さな、名もない村の子供は一人ではなくなった。
歌って、踊って。
初めての友達が、初めての笑顔を見せたとき、驚くくらいに幸せな気持ちになったので。
ネルは、自分の意図しない隠し事が、どのくらい取り返しがつかないのか、わかっていなかった。
*
【現在――③】
もう星見とかサボってもよくないかな?
冬の夜。寒いっていうより冷たい。冷たいっていうより痛い。そんな風に吹かれながら星見の丘を目指していると、最近はいつもそんな考えばっかり浮かんでくる。
どうして昔はあんなに元気だったんだろう。
外に出るなら手袋をつけろとか、コートを着ろとか、そういう小言が本当に嫌だったのに、今じゃ外に出たくすらない。
「リディちゃん、家で待っててもいいよー? 今日、すっごい寒いもん」
「ううん。ネルと一緒にいたいから」
おっ。
ちょっと暖かくなった。
すんすん。
暖かくなったから鼻水出てきちゃった。
夜道だっていうのに、わたしたちは明かりも点けずに歩いている。
目を慣らすためだ。空の遠くにある小さな星は、火の明かりに当てられた後の目じゃあ、上手くとらえられない。
畔の道の周囲には家の明かりも一つもなくて、何も生えていない、春の訪れを待つばかりの畑がずらずら広がるばかり。常緑の森の端を伝うようにして丘へと登っていくから、段々と周りに物は増えていくけれど、春や夏と違って、何の匂いも、色もない道は、やっぱり寂しい空気がある。
鼻から、口から。
白い息を吐くたびに、それが頬を凍らせちゃわないか。
冷たい空気を吸い込んで軋む肺が、ひょっとするとうっかりもう凍っちゃってないか。心配になる。
星と月の光は、空にある熱を全部吸い込んで輝いてるみたいに強くて、わたしたちの背中に伸びる影は、地面に霜を降らせるくらいに黒い。
今夜も、リディちゃんは黒服を着ていた。
闇の中、金色の髪と、真っ白で滑らかな顔が浮かび上がって、もう一つ、月があるみたいに見えた。
人の体温が恋しくて、一歩、さりげなーく、リディちゃんの方に寄った。
すると、ふふ、と小さく笑って、リディちゃんもわたしに一歩寄ってきた。バレとる。
でもその笑顔も、すぐにくらっと消えてしまう。沈んだ顔で、固まる。
うわー、何を考えてるのか手に取るようにわかる。わかっちゃう。落ち込み屋め。
ということで、脇腹をつまんでやった。
「ひゃあっ」
可愛い。
無造作に、前を向いたまま素知らぬ顔してやってやったので、隣に立つリディちゃんは、いきなり尻尾を引っ張られた犬みたいな困惑の顔で私を見ていた。
ので、強引ににかっ、と笑って誤魔化してやった。
誤魔化されたリディちゃんは「…………?」と、何かよくわかんないけどとりあえず笑っとこ、という感じの困り笑いをした。そのぎこちなさを見ると、三年の間どうやって人に顔を向けていたのかちょっと不安になる。黙ってても綺麗だから、ずっと黙っていた可能性もある。
緩やかな坂道を上っていく。
少しずつ、星が近付いてくる。
リディちゃんの気分があからさまに段々沈む。
そのたびわたしは脇腹をつまんで、水の中から引き起こす。
ひゃあっ、にかっ、…………?
ひゃあっ、にかっ、…………?
ひゃあっ、にかっ、…………?
そろそろバレるかな、と思ったけど、結局わたしが久しぶりに友達が帰ってきたことにはしゃいでる浮かれ小娘だということがバレないうちに、星見の丘に着いた。
「待っててね」
「うん」
丘の上、開けた場所が、星託の場所だ。
坂道の終わりにリディちゃんを待たせて、わたしは歩いていく。一番高いところ。自分と、これまでの<星の夢視>がつけてきた足跡が、それを教えてくれる。
碧い夜空に、銀河が輝いている。
世界中の宝石を集めて、空に落としたとしても、全然足りないくらい、無数の光。
手を伸ばしたら届いてしまいそうで、だけどそれは光る水のように指先から零れてしまうから、地上には絶対に持っては帰れないだろうって、わかる。そんな夜の空。
わたしはその光を、瞳の奥に吸い込んだ。
水面に月が映るように。わたしの瞳の奥に、無窮の星明りが映しとられていく。
そして、わたしは瞳を閉じる。
瞼の裏には、瞳の奥に溜めた、青く輝く光が反射して映しとられる。
しばらく待って、瞼を上げて、もう一度。
それが、星の夢を視る方法。
<星の夢視>は、瞳の奥に鏡の時計、瞼の裏に、もう一つの夜空を持っている。
瞼を開いて、閉じて。
星見の丘で、わたしたち<星の夢視>は、そんな風に銀河を映し取る。そして、その銀河の中から、少しだけ、未来の記憶を分けてもらう。
だけど、本当は。
もうこんなこと、する必要もないんだけど。
「…………うん」
頷いた。
いつもどおりの未来が見えた。
振り向いて、背中側の銀河に顔を向けて、星託の場所を後にする。
「……ネル」
待っていたリディちゃんは、道中の努力にもかかわらずまた固い顔に戻っていたから。
わたしは精一杯。
村に居着いていた子犬の笑顔とかを思い出しながら、柔らかい顔を作って、こう言った。
「うん。やっぱりね、今日で最後だってさ」
でも、リディちゃんの顔を見ると、あんまり効果はなかったらしい。
*
【過去――③】
ついていきたい、と。
わがままらしいわがままを、初めて聞いた。
付き添いの男女二人は意外そうな顔をして、一方ネルは本当に嬉しそうな顔をして、こう言った。
だよねっ?
星見に向かう夜のことだった。
当時のネルは幼く、星見の丘に至るまでの道中、村の比較的若い者が付き添い歩くことになっていた。
その晩も、二人の迎えが来て、薄着のネルはさんざ服やらマフラーやら押し付けられ、雪だるまみたいにふくふくと膨らんだ後に、先に寝ててね、とリディを家に残そうとした。
そこで、ついていきたい、と。
言われたネルは、ご満悦の表情だった。
そうでしょっ。
一秒も離れたくないよねっ。
だよねっ。
リディが頷いたのを見て、大人二人は顔を見合わせ、苦笑。
仕方ない、と。
だけど、絶対絶対、はぐれないように。勝手なことはしないように。
言い聞かせてる途中で、ネルがリディの手を取った。
奇しくも、リディがこの村に現れたのと同じ、春の初めの頃だった。
一面の闇に、蕾の中に眠る花の香りだけが揺らいでいる。その道を、ネルとリディは、付き添われて歩いた。
いつも通りの星見だった。
ネルだけが星託の場所に立って、星の夢を視る。その間、リディは大人二人とそれを見守っていた。
何があるわけでもなく、星見は終わる。
いつも通りにネルは瞼を開き、銀河に背を向け、だけど少し小走りで、リディたちのところまで戻ってきた。
もう一度、手を繋ぎ。
そして、いつものように、ネルは大人たちに報告した。
八年先に、人は滅びちゃうって。
ぎゅうっ、と。
ネルはその手を強く握られて、痛みとともに、驚きを覚えた。
リディは大人しく、いつも優しい。
どうしたんだろう。そう思って、顔を覗き込んだ。
蒼白。
それ、ほんと?
ネルは頷いて、
うん、ほんとだよ?
そのときのリディの沈黙の意味を。
理解できない程度にはネルは外の世界を知らず。
また、そのために、内側の世界のことも知らなかった。
そしてリディもまた。
ネルの気持ちも。
大人の表情も、見通すことのできない幼子で。
――私、王都に行く。
その結論を切り出すまで、随分と時間はかかったけれど。
少なくともその決意は、この時点でリディの胸の裡に宿ってしまっていた。
*
【現在――④】
「うひゃあ~。さむいよさむいよ~!」
中に入ると、まだ暖炉の熱がまだ残っていた。
出る前に火を消したけど、星見の丘から急いで帰ってきたから、まだ冷え切る前に戻ってこれた。
急いで火を入れなくちゃ、とわちゃわちゃ凍った指先を動かしていると、後ろで。
「Li aGa」
しゅぼっ、と。
そんな音がして、振り向いた。
ぱちぱちと、暖炉に赤く炎が揺らいでいる。
その前には、細い指を突き出したリディちゃんが立っていた。
「……今の、ひょっとして?」
「うん、魔術。簡単なのだけど」
「す、」
息を、たっぷり溜めて。
「すっごーい!!!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
思わず口を塞いじゃうくらい。リディちゃんは困った微笑み顔で耳を塞いでたけど。
家と家が隣り合ってるわけじゃないから、夜中に騒いだってたぶん、そんなに問題はないだろうけど。
だけど、際限なく騒いだら、ちょっとくらいは迷惑になる。
偉い子なので、ちょっと声のトーンを落として。
「ええーっ、すごいっ。もっかいやって。もっかい!」
「薪が燃え尽きちゃうよ……」
「ええーっ、そっか! じゃあ、一回水かけて消して、それでもっかい点けて! ねっ?」
「薪が湿気っちゃうよ……」
でも見たい。
見たいものは見たい。すごく見たい。見たすぎて見たい。
そういうことを言い募っていたら、リディちゃんは、んー、と考えて、
じゃあ、こんなのは?って。部屋の明かりを消しながら。
「Li eNe ta aCu-uRu」
「わっ」
ぽうっ、と。
リディちゃんの指先から、金色の光が飛び出した。
暖炉の火だけが、壁に映った私たちの大きな影を揺らめかせている中、その金色の光は、くるくると部屋を飛び回る。
季節外れの、蛍みたいに。
小さな、はぐれ星みたいに。
すごい、って。
もう一回言ったって、この気持ちを伝えられないような気がした。
「リディちゃん」
「うん」
「わまーあー」
「…………どういう意味?」
「愛情表現」
「…………何語?」
「今作った」
「…………そう? そうなんだ」
「そうなんです」
わまーあー。
この挨拶の肝はたぶん、肩のところで掲げた犬のポーズだと思う。
わまーあー。
*
【過去――④】
自分の頭が悪いのか、それともリディちゃんの頭が良すぎるのか。
どっちもあるね、と教師役を買って出た村人は言った。尻を蹴られた。もちろんネルに。
王都へ。
リディは目標を決めて、準備に取り掛かった。教師役はかなり昔の話にはなるけれど、かつて王都にいたことがある。今でも制度が変わっていないなら、ある程度の知識を備えていけば、貴族学校に学業特待枠で入学できるはずだ、と。
遊ぶ時間が減った。
学ぶ時間が増えた。
ネルは初めの方こそ、リディに付き添って勉強していたが、そう遅くないうちにすっかり飽きて、勉強するリディに付き添うだけになった。端的に言ってたまに邪魔だったので、教師につまみ出されたりしていた。
どうして王都に行くの、ということを、ネルは随分後になってから聞いた。
何とかして止める。
そう、リディは言った。
諦めたりしない。
王都でたくさん勉強して、味方を作って、ネルが見た星の夢を変えてみせる。
無理だよ、とネルは言おうとしたけれど、結局言えず仕舞いだった。
どこからどう聞いてもそれが自分のためだなんてこと、いくらなんでも丸わかりだったからだ。それに、このとき、すでにネルは二つの秘密を抱えるようになっていた。
一つ目は、この星の夢が、ネルに初めて観測されたものではないこと。
もう、何百年も前から。
数々の<星の夢視>によって観測され、そして、これまで変えることのできなかった未来であるということ。
あえてネルがこの秘密を話さなかったことは、二つ目の秘密に起因している。
ネル自身が、その秘密を一番強く自覚したのは、リディを見送ったとき。
行ってくるね。
絶対、何とかする方法を見つけて、帰ってくるから。
隠しきれない悲しみ、寂しさ。
そういうのを、瞳に、涙の代わりに湛えて言うリディに、ネルは言う。
うん。
行ってらっしゃい。
馬車が遠ざかっていくのを見ながら、ネルは思った。
――このまま、帰ってこなければいいのに。
それが、二つ目の秘密。
ネルはリディに、一つも星の夢を変えるなんて期待をしてなくて。
本当のところ、星の夢の古さを語らなかったのも。
そんなの無駄だよ、と彼女を止めなかったのも。
王都に行く彼女を、応援すらしたのも。
ひとえに。
彼女を村から追い出したかったからだ、ということ。
*
【現在――⑤】
最後の夜だもの。
わたしたちは、同じベッドで眠った。
部屋のなかをくるくる回る、魔法の光を見つめながら。
ゆっくりと重くなっていく瞼。
もう、朝は来ない。
目覚めることも、ない。
そう思っていた。
のだけど。
「…………さみゅ…………」
なんか寒すぎて目が覚めちゃった。
暖炉の火が、ちょろちょろ情けなく揺れている。
うーん、普段だったら朝までは寒さがしのげるんだけど。今日に限ってしまらないなあ。
でっかい木を投げ込んでやろうか。
家ごと燃やしちゃうくらい滾りそうなやつ。
そんなことを思いながら、仕方なくベッドから起きる……、ダメだ寒い。布団にくるまったまま動こうとして。
「…………あれ?」
いない。
リディちゃんが、いない。
ああ。
気付いちゃった。
この冷たい空気は、単に暖炉の勢いが弱まって、夜が落ちて来たからじゃない。
夜は、正々堂々玄関から入ってきたんだ。この部屋から、人が出ていくとき。扉が開いた隙に、こっそりと。
リディちゃんが、いない。
テーブルの上に、手紙。
置いてあるそれを、暖炉の近くに寄せて、読む。
「…………ばか」
それしか言えなかった。
走るしか、なかった。
*
【過去――⑤】
西の空に、茜色が溶けていく。
山の輪郭が、太陽の火にかけられて、どろどろに溶かされていく。
ネルは、それを見ていた。
隣には、教師役だった、今となっては、その役目すらもなくなった村人が、気まぐれに佇んでいる。
終わることは怖くない。
私たちは毎日終わっていくのだから。
少しずつ、けれど確かに。
次の朝陽をも目にできないかもしれないと、心のどこかで思いながら、眠りに就く。
終わることは怖くない。
怖いのはむしろ、終わっていないことだ。
そんなことを、独り言のように、村人が言ったから、ネルは。
何言ってるかわかんない。
難しいことばっか言ってると、難しくなっちゃうよ?
一瞬、村人は虚を突かれたように。
はは。
馬鹿もたまには、真理を突く。
尻を蹴られた。
ねえ。
呼びかけるネルは、空を見ていく。
もしくは、橙の空に消えゆく、鳥たちを。
あの鳥は、どこまで行くの?
村人は少し考えてから、
そうだな。あの鳥の種について、私は詳しくはない。
けれど、あの種であの大きさであれば、地理的に言って向かう餌場は……。
簡単に言って。
そりゃ、行きたいところまで行くのだろうさ。
村人の答えに、ネルは、頷き。
珍しく、物憂げな目つきで。
…………そっか。
いいね、それ。
それから、もうひとつ、尋ねた。
じゃあさ。
なんで、戻ってくるの?
行きたいところまで、行ったのに。
村人は答える。
そりゃあお前。
行きたいところと、帰りたいところは違うだろう。
ネルは、頷かなかった。
……ばかだなあ。
ほんと、ばか。
*
【現在――⑥】
走るの、何年振りだろう。
自分の荒い息が、のたうつ鼓動が、耳の骨を揺らすみたいに響く。夜の空気は霜を含んでいるから、みるみるうちに肺は凍り付いて、置き去りにされていくわたしの吐息は、きっと砕けた宝石の粉みたいに光っている。かあっ、と顔に熱が昇る。涙が出る。それでも走る。汗か、それとも夜露か。わからないまま、わたしは走る。
『ごめんなさい。
そう言って、この手紙を始めなくちゃいけない自分を、心の底から、情けなく思います。
ごめんね、ネル。
私は、世界を救えなかった』
リディちゃんの行く場所なんて、わかりきっていた。
一つしかない。
星見の丘。
わたしたちが、終わり始める場所。
大きな大きな、災厄の降ってくる場所。
これまで数百年の間、何度も星の夢を見続けた、星が夢を見続けた、約束の場所。
今夜という夜に、世界の終わりが始まる場所。
『きっと、上手くいくはずだと思ったの。どうにかして、国中の力を集めて、世界の終わりを防ぐことが、できると思ったの。
実際のところ、あとほんの少しのところで、ほんの少しが、足りなかっただけ。
血の一滴さえあれば、それで済む話を。それで済ませられなかった。
悔やんでも、悔やみきれません』
手紙なんて、読まなくてもわかってた。
時間の無駄だったって、後悔しちゃうくらいには、全部わかってた。
三年も離れてたっていうのに、リディちゃんは何もかも、わたしの知ってるリディちゃんのままだった。
生真面目で、綺麗で、落ち込み屋で、思い詰め屋。
誰もリディちゃんのこと、責めたりなんかしないのに、自分で勝手に自分を責めてる。
自分のこと、取るに足らないものだと思ってる。
そんなこと、ないのに。
そんなこと、絶対にないのに。
『ごめんなさい。ごめん。上手く、話がまとまりません。あなたに伝えなくちゃいけないことが、山ほどあるのに、喉に詰まってしまったみたいに。ごめん。ごめんね。私、ダメだった。ごめんね、ネル』
ねえ。
ねえ、リディちゃん。
どうして。
どうして、リディちゃんは、変わってくれなかったの。
『私、あなたに未来をあげたかった。
あなたが私にくれたみたいに。希望とか、生きる意味とか、そういうものをあげたかった』
どうして、こんな、何もないところに、帰ってきちゃったの。
『ネルが諦めを、諦めとも知らないまま抱えているのを見て、どうにかしてあげたいと思った。
なのに、こんなことになってしまって』
リディちゃんが、どっかに行っちゃえばいいって、わたし本気でそう思ってたんだよ。
どこでもいいから、わたしの知らないところに行けばいいって。
どこでもいいから、ここじゃないところに行っちゃえばいいって。
本気で、そう思ってたんだよ。
『こうして書きながら思い返すのは、王都で、もしもこのまま、なんて思ったことばかりで、違うの。ごめん、こんなこと書かれても困るよね。でも私、そういうことを、あなたを置いてなんてこと、考えてしまうこともあって、そのたびに、もうどうしようもない気持ちになって、それで、でもね』
この村はね、ずっと、死ぬのを待つだけの村だったんだ。
<星の夢視>の言葉を信じた人だけが、残った村。
全部を諦めた人だけが、残った村。
全員が揃った家族がないのも、そのせいだったんだ。みんな、付き合いきれないって、そんなこと信じるのは馬鹿げてるって、そう言って、出て行っちゃったから。
子供がいないのもそう。
わたしが生まれた年から、もうこの村は、人を増やすのをやめたの。
もう、可哀想だろう、って。
どうせ死ぬんだから、生まれて来たって、意味なんかないだろうって。
この子を最後に、終わりにしようって。
ここはね、ずっと昔から、もうみんなのお墓だったんだよ。
生きたまま、みんな死んでたの。
死んでるから、みんな優しくて、みんな何もかも許されたんだ。
『今日、ネルに会って、ようやくわかった。
私、やっぱりあなたに、一秒でも長く、生きてほしい』
だから、よかったのに。
捨ててくれて、よかったのに。
捨てて、ほしかったのに。
こんな村、こんなわたし、もう死んでるものなんか捨てて、遠くの空に、羽ばたいてほしかったのに。
リディちゃんがどこかで生きているかもって、終わるときまで夢を見させてほしかったのに。
どうして。
ねえ、どうして。
『意味がないなんてこと、わかってる。
だけど、誰も立ち向かわないよりも、たった一人でも立ち向かった方が、ネルの命が長く続くなら』
どうして、わたしをちゃんと捨ててくれないで。
どうして、遠くの空に羽ばたいていかないで。
『私は、もう一度戦います。
もう、翼はないけど。相手は空みたいに大きいけれど。それでも、』
こんな、鳥籠に――。
『ネル。
私は、私のすべてをかけて、あなたを愛しています』
リディちゃん。
わたし、馬鹿だから。
リディちゃんみたいに、「愛してる」なんて言葉、上手く使えないんだ。
だけど、大好き。
初めて会ったときからずっと。
「愛してる」に少しだって負けないくらい、リディちゃんのことが、大好きだよ。
本当に。
世界で一番の、大好き。
*
【現在――⑦】
「Qu ta Xe iSHe-oZu――!」
星見の丘で、また夢を見た。
夢みたいな、光景を見た。
空から、碧い、銀河色の蝶が振ってくる。
大群が。空を覆うような、空気の匂いが目に見えてるみたいに滑らかな蝶の群れが、空から、夜を埋めるように降りてくる。
月の裏から来る災厄。
わたしたちの、滅び。
ずうっと、星の記憶を通して、星の目を通して見ていた。
月の裏側の、碧い蝶。次々に増えていって、今では月の裏側を、ほとんど埋めてしまった、夥しい蝶。
それが、今、降りてきている。
魔力の源――エーテル。
碧い蝶は、丘の木々に、草に、土に、風に、光に。触れるだけでエーテルを吸って、ますます輝きを増していく。
その中心で、リディちゃんが、戦っていた。
黒い風が、竜巻が、リディちゃんを取り巻くようにして、蝶を切り刻んでいく。無残に破れた薄い翅が、宙を舞う。
だけど、その翅からまた、新しい蝶が――、再生する。
輝きは、決して弱くなったりしない。
それは煌々と。
すべてを奪う、この世で一番美しい光のように――。
「リディちゃん!」
叫んだ。
吹きすさぶ風に、絶対負けちゃうような声だったけれど。
ほら、届いた。
「ネル!? iSHe――!」
「おお!?」
リディちゃんが、また不思議な魔法の呪文を唱える。
そうしたらわたしと、リディちゃんの間に、ぶわっ、と。前髪を上げて、それから思わず目も瞑っちゃうような風が通り抜けた。
蝶が吹き飛んで、道ができた。
すたたっ、と。走って行って、わたしはリディちゃんの隣に立った。
リディちゃんは、顔から似合わない、いやある意味結構似合う汗なんかを流して、唇を震わせている。ああ、たぶんこの竜巻の魔法、すっごく疲れるんだろうな、って見てわかる。むかーし、夏の日にリディちゃんが倒れかけてたとき、おんなじような顔をしてた。
でも、どんなときでも綺麗に見えるよ。
わたしがリディちゃんのこと、好きすぎるからかもしれないけど。
「なんで、ここに……」
「来ちゃった」
「き、来ちゃったって、何考えてるの!?」
「それはこっちの台詞じゃー!」
「ひゃあっ!」
そんな疲労もお構いなし。
感情の向くまま、お腹を揉んでやった。
風が不意に弱まって、蝶がはらはらこっちに向かってくる。
慌ててリディちゃんが魔法をかけ直す。わたしは気にしない。気にしてあげない。
「うーん、わたしの気のせいかな……。なんだかこのへんに、勝手に行っちゃった人がいるような……? どこだろー」
「そ、それは……」
「あとわたしのこと好きすぎる人もいる気がするなー。どこだろー?」
「ちょっと、もう!!」
碧い光の中でも、そうってわかるくらいにリディちゃんは顔を赤くする。耳まで赤い。可愛いねおじょーちゃん。あ、でもやばい。わたしも赤くなってるかも。
バレませんように。
バレちゃってますように。
にひひ、と笑って。
いつの間にか、わたしより背の高くなったリディちゃんを、下から覗き込むように。
「そんなにわたしが好きかー?」
「……うん」
思ったよりストレートな答え。
おおう、みたいな声が出ちゃう。
リディちゃんは、きっぱり頷いて。
「愛してる。一秒でも長く、生きてほしい」
だけど、ここで怯むわけにはいかないから。
考えといた台詞。
「わたし、リディちゃんといないときは、生きてないよ」
結構、上手く言えた。
呆気に取られたリディちゃんに、微笑みかけるとこまでできた。
告白に、勝ち負けがあるかは知らないけど。
あるとしたら、完全に勝った。
「それ、どういう」
「そこまで言わせるー?」
「……いや、でも。そんな、だって、そうしたら、私……」
わたわたと、落ち着かないリディちゃん。
ここまで乱されてるのは珍しい。珍しいのは良いことだ。全部の角度から見てみたい。そんなことを思っていると、不意に。
「どうしたら……」
ぼろっと。
涙が。
「ええっ!?」
不意打ち。
完璧な。
告白の事後処理に勝ち負けがあったとして。
完全に負け。
「なんで泣くのー!? どしたどしたー?」
顔を手で覆ってさめざめと泣こうとするリディちゃんの両手を取る。それでがばっと、かつさりげなく手を開かせて顔を見る。いや、他意があるわけじゃなくてその姿勢を取り始めたらリディちゃんは長そうだし、長引いたら大変そうだと思ったから無理に早めに落ち着けようとしてるんだけど。
両手を取られたリディちゃんが。
目線だけ下げて。
顔も隠せず。
泣いております。
ちょっとぽーっとしちゃった。
いやそんな場合じゃなくて。
「だって、そんな。私、どうしたらいいか」
わかんない、と。リディちゃんはしゃくり上げて泣く。子供みたいに。
子供の頃、みたいに。
だから、子供の頃みたいに。
抱きしめる。
「わたっ、私、ネルに。生き、生きて、ほしくてっ」
「うん」
「だけど、そんな、そんなこと、言われたらっ。もう、なにも、私、なにも」
「リディちゃん」
ここにいるよ。って。
伝えるみたいに。
「わたしもね、わかんないよ」
ついでに。
素直な気持ちも、伝えちゃったりして。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうって、思うよ」
「……う、ん」
「どうにかならなかったのかなって、思うよ」
「……うん」
「でも、そういうの。結局ひとつもわかんない」
涙。
流さないように、頷く感触。
好きだよ。
全部。
「だから、これからどうなるのかも、わかんない」
「…………え?」
こうしていると。
全部、何もかもを、思い出していく。
星の記憶じゃない。
わたしの記憶。
二人で過ごした、日々の記憶。
二人で過ごさなかった、日々の記憶。
どっか行っちゃえって、見送った記憶。
怖くて、ついていけなかった記憶。
諦めなかった、リディちゃんの記憶。
ずっと諦めていた、わたしの記憶。
今こうやって、震えてるのはわたしかな。それともリディちゃんかな。
リディちゃんもおんなじように、わかんないといいな。
「まだ、見てないものがあるんだ」
「見てない、もの?」
「この星の、わたしたちの星の夢」
あ、と。
リディちゃんが気付く。
そう。
星見の丘からわたしが、わたしたち<星の夢視>が見ていたのは、夜空に輝く星の夢だけ。
わたしたちの生きる、この星の夢は、一度も見たことがない。
だって――。
「リディちゃん、海に行こうよ」
夜空には、わたしたちの星は光っていない。
この星から空だけ見ていても、この星の夢は見られない。
だから、海に行こう。
水面に映る星空を、わたしたちの星空にして、わたしたちの夜空が見る夢を視よう。
わたしたちの、まだ見たことのない、夢を見よう。
そこに希望があるのか、そんなこともわかんないけど。
それでも、最期まで、わたしたちはわたしたちの夢を見よう。
「行けるかな?」
「わかんない」
「途中でどっちかが死んじゃったら?」
「わかんない」
「私、私……」
「リディちゃん」
戸惑う背中を、そっと撫でて。
「もう一度……、鳥籠と飛ぶのは、嫌?」
ああ。
わたしこんなに嫌な言い方するんだ、って。
自分、再発見。
答えなんて――、
「……ううん。だって、あなたは……」
とっくに、伝わってたのに。
*
【未来――①】
その日。
世界の終わりが始まった日。
無限の蝶が、空を埋め尽くす中。
一羽の鳥が、飛び立った。
真っ黒な、鳥。
滅びを待つ村の、滅びの冬に、舞い戻ってしまった渡り鳥。
自分が何をするか。
自分が何をなすか。
希望が待つか。
絶望が待つか。
それすら知らずに、風を切った黒い鳥。
しかし、本当に、本当に不思議なことに。
彼女は。
行きたい空と、
帰りたい空と。
初めから。
その二つを抱えて、羽ばたいたのだという。
鳥が大きかったか。
空が小さかったか。
はたまた、奇跡でもつかまえたか。
行く先知らずの、渡りの旅に。
黒鳥が空と、飛んで往く。
昔話になる前の、ほんの一瞬。
そんな今が、あったそうだ。