糸屋綺譚
その奇妙な店は、わたしのよく知っている銀座の、お茶屋さんと呉服屋さんの間にありました。
「あら……? こんなところにこんなお店、あったかしら。ねえ?」
振り返ると、そこにいるはずの主人がいません。ああ、そうだ、今日はあの人は仕事があるから、ひとりで買い物に来たのでした。
もう一度、見慣れない奇妙な店をまじまじと見ます。紺色の暖簾には、細い文字で『糸屋』とあります。隣は呉服屋さんだし、糸の専門店かなにかかしら、と、首を傾げていると、その店の引き戸が開き、着物を着た可愛らしいお嬢さんが顔を覗かせます。
「いらっしゃいませ」
鈴を鳴らしたような声、という表現がぴったりな、可愛い声で少女がこちらに手を差し伸べます。「どうぞ、お入りください」
きょろきょろとあたりを見渡しますが、少女の瞳はまっすぐにわたしを射抜いていて、不思議に思いながらも、時間を持て余していた身としては、その誘いは嬉しいものでした。
古い磨りガラスのはめ込まれた戸を引いて、中に入ると、深い藍色の着流しを着た男性が佇んでいました。その人は、ゆっくりとわたしの方を振り向くと、「いらっしゃいませ」と、低く、でもよく通る声で仰りました。
その顔を見て、わたしは思わず息を呑みました。何故なら、その男性は、能面をつけていたからです。まったく表情のわからない、少し見たらどこか不気味なその面に、何故かわたしは惹き込まれてしまったのです。表情はわからないけれど、その静かな佇まいと、優しい声音がそうさせたのでしょうか。どこかで聞いたことのあるような、ずっと昔に忘れてしまったような、なんとなくの懐かしさを孕んでいる声に、一瞬だけ訪れた動揺は姿を消してしまったのです。
「あの……ここは、何屋さんなんですか?」
ぐるりと店内を見渡しても、狭いお店の中にはひとつのテーブルと二脚の椅子しかなく、商品と呼べるものは何一つ置いてなかったからです。
「ここは、『糸屋』です」
「糸……?」だけど、どこにも『糸』らしきものは見当たりません。なんだか狐に摘まれてしまったような感覚がしました。
「さあ、どうぞ、おかけになって」
お店に引き入れてくれた着物の少女が、小さな手で椅子を引きます。その大きな瞳は湖のように穏やかでいて、でもその奥には何か情熱のような、強い光を感じます。
「どうぞ」
にこりともせず、少女がわたしが座るのを待っています。
待たせてしまうのはなんだか可愛そうな気がして、わたしは恐る恐る椅子に座りました。そうすると、少女は一度店の奥に引っ込むと、ふたつの湯呑みを持って机の上に置いたのです。目の前の椅子には能面の男性が座り、少女は用事が済むと、これ以上自分の仕事はない、とでも言いたげに、店の隅にぽつんと置かれた小さな椅子に腰掛けて、こちらをじっと見つめます。
「あの……?」
「お茶が冷めないうちに、どうぞ」
「あ……はい。いただきます」
ふう、ふう、と熱いお茶に息を吹きかけてから、一口呑むと、芳醇な香りと味が口いっぱいに広がりました。「まあ、おいしい」
「それは良かった」
「それで」湯呑みを一度テーブルに置き、質問します。「こんなおばあさんを掴まえて、何をするのかしら?」「おばあさん?」
ふ、と、男性の雰囲気が和らいだ気がしました。彼は少女に手鏡を持って来させると、わたしの姿をそこに映しました。
「……え?」
すると、どうでしょう。八十歳に手が届きそうな筈だったわたしの姿ではなく、昔の――二十歳くらいのときの姿が映っていたのです。
「どうして? わたし、おばあさんだったはずじゃ……。こんな……え?」
混乱するわたしを落ち着かせるかのように、男性が静かな声で言いました。
「ここは『糸屋』です。失くしてしまったものを引き寄せることもあるでしょう。姿形など問題ではないのです。重要なのは、あなたの『心』。さあ――お聞かせください。あなたの物語を」
※
私は部屋の隅に立っていた。
総合病院の、緊急治療室。たくさんの医者と看護師が、ベッドに横たわったお婆ちゃんの容態を見ている。
自殺だった。
いや――まだ死んではいないから、『自殺未遂』と言った方が正確だろうか。
お爺ちゃんを数年前に亡くしてから、ふさぎ込むようになったお婆ちゃんは、これからの人生に悲観したのか、お風呂で手首を切った。
いつまで経ってもお風呂から出てこないお婆ちゃんを心配して、様子を見に行ったお父さんが血に塗れたお婆ちゃんを発見した。
幸い、発見が早かったので、一命はとりとめた。ただ、年齢のせいと、流れた血の量が予想よりも多かったため、お婆ちゃんは軽いショック状態から抜け出せずにいる。
「ほんとに、馬鹿なことを……」
眉根を寄せて、お母さんが吐き捨てる。
お母さんは『嫁』だ。だから、お婆ちゃんは『姑』にあたる。『嫁姑問題』と言えば通りはいいか、世間様がそうであるように、うちにもそんなわだかまりがあった。それでも手当を受けている姑のそばを離れないでいるのは、周りを気にしてなのか、どうなのか。
それはわからないけれど――いま重要なのは、お婆ちゃんが『こちらの世界』に戻って来てくれるのかどうかだけ。
「……マフラー、編んでくれるって言ったじゃん」
お婆ちゃんは優しい。お婆ちゃんは約束を守ってくれる。
だから――大丈夫。きっと。
※
「なんだか、結婚した当時のことを思い出すわ」
心なしか、声にもハリが戻ったみたい。言葉も、ハキハキとする。本当に若返ってしまったのかもしれない。「よく主人と、銀ブラしたものよ」
「銀座で珈琲……ですか」
「あら、よくご存知ね。みんな、『銀ブラ』って言うと、『銀座でブラブラしてくる』ことって思うみたいなのに」
「これでも結構、歳なんですよ」「嘘。全然見えないわ」
糸屋の主人は聞き上手で、思わず自分から言葉がたくさん飛び出してしまう。
「よくね、旦那と銀座で珈琲を呑んで、路肩のベンチに座っておしゃべりしてたの」
話す内容はくだらないことから、仕事のことまで。隣の家に野良猫が懐いた、仕事の目処がついたら旅行に行こう、もうじきお腹の赤ちゃんが産まれるね――
「本当に他愛のないこと。でもそれが全てで、幸せだった……」
遠き時代に想いを馳せる。
銀座の並木道。可愛い子どもが生まれたのは、紅葉が綺麗な、こんな時期だった。大きくなったお腹を、愛おしそうに撫でる夫の姿を思い出す。もう、そんな時間はやってこない。あの人は死んでしまった。わたしを残して。
「ねえ、糸屋さん。わたしを夫のところへ連れて行ってくださらない?」
静かに話を聞いていた糸屋さんが、静かに口を開く。「それは、死を選ぶ――ということでしょうか?」
「だって、わたし、このまま独りで生きていくなんて……きっと、耐えられないわ」
愛しいあのひとの元に行きたい。
今度こそ永遠を、ずっとずっと一緒にいたい。
出会った頃のように。結婚したときのように。年老いていった時のように。全てを共にしたい。
「ふむ……。これは困りましたね」
「駄目?」
「いえ――あなたには、まだやり残したことがあるでしょう?」
「え……?」
※
ぽつん、と、涙が一滴、トイレの床に落ちた。
それが契機となったように、次から次へと涙が溢れ出る。
頬を濡らす液体を拭くことも忘れて、私は声をあげて泣いた。
「マフラー……作ってくれるって……」
ドン。
苛立ちを治めるかのように洗面台を拳で叩く。
「お婆ちゃん……約束してくれて……」
ぐしゃぐしゃ。
髪の毛をぐちゃぐちゃに掻きむしり、床に座り込む。
「お婆ちゃんの嘘つき――ッ」
※
「これでもまだ、死にたい――と、仰るのですか?」
糸屋さんが翳した鏡に、泣きじゃくる孫の姿が映っていた。その姿に、わたしは涙を止めることが出来なかった。
もう、必要とされてないと思っていた。
もう、わたしは死ぬだけだと思っていた。
他愛のない約束を、孫が、大切にしていたなんて、思ってもいなかった。
「他愛もない……でも、人によっては、それはとても重要な意味を持つことを、あなたは知っているでしょう?」
「……ええ……」
「だから」
鏡をテーブルに置き、糸屋さんが被っている能面に手をかける。
ゆっくりと外された仮面の奥にあったのは――
「……あなた……!?」
それは紛れもなく、数年前に旅立った、愛しい夫の顔だった。
「さあ、帰りなさい。君はまだこちらに来てはならない。『その時』が来たら、必ず迎えにいくから――だから、もう、帰りなさい」
溢れる涙が止まらない。
優しい微笑みを湛えた主人が、手を差し出す。
くしゃくしゃになった手を、その手に乗せる。
「また、逢う日まで」
「ええ……。必ず、必ずよ?」
「わかっているよ。僕は君にだけは、嘘を吐いたことがないだろう?」
ふ、と、意識が遠くなる。
ゆらゆらと、まるでゆりかごに乗っているかのような感覚が身体を襲う。
不思議な気持ちだった。
ただ、気分が穏やかになり――静かに、世界は光を身にまとい始めた――
※
「こんなところに居たのか!」
「あ、おとうさ……」
「来なさい、お婆ちゃんが……!」
「え?」
私は病院の廊下を走った。途中、看護師さんに注意されたけど、足は止まらない。滑り込むように緊急治療室に駆け込むと、ベッドの周りにいたはずの医者の姿がなかった。
まさか――
最悪の事態が頭を過る。
それを跳ね返してくれたのは、看護師さんの微笑だった。
「もう大丈夫ですよ」
ふらふらと、おぼつかない足でベッドに向かう。「……お婆ちゃん……」
布団の中のお婆ちゃんは、ゆっくりとまばたきをすると、「ごめんね」と小さく謝った。
そんなお婆ちゃんの頬を、お母さんは平手打ちした。
「お母さん!?」
ぐ、と、唇を噛み締めたお母さんは、そのまま何も言わずに病室を出ていった。いくらお婆ちゃんが迷惑をかけたからって、生死の境を彷徨っていた人に対する行動じゃない。思わず口を出しそうになったが、お婆ちゃんがそれを制した。
「いいのよ。今のが、あの人なりの言葉だから」
……平手打ちされて、笑っていられるお婆ちゃんが理解できない。大人になるって、大変だ。
「ごめんね、迷惑かけて。ちゃんとマフラー、作ってあげるからね」
「……うんっ」
お婆ちゃんの、しわしわの手をぎゅっと握ると、また涙が一筋流れた。
でもこれは、辛い涙ではなくて、嬉しい涙だから。
だから私はまた、泣いた。
お婆ちゃんが優しく髪を撫でてくれる。
その左手の小指に、赤い糸が結ばれていた。
糸はふわっと上空に向かっていて、その先は見えなかった。
ううん、もしかしたら、糸自体、なかったのかもしれない。
でも私には、その糸がお婆ちゃんとお爺ちゃんを結ぶものではないかと、そう思ったのだった。