29話 『窮地』
「本来の目的を果たすよりも先に貴方が現れましたか。『神の使い』よ」
突然鬼の口から発せられたその言葉は、それまでただ恐怖で怯え動けずにいた街の人たちの心を一瞬にして壊した。
「「「うわぁぁぁぁ!!!」」」
1人が叫びその場からの逃走を謀ると、それに続いて通りに立っていた人々は一斉に駆け出した。
すれ違いざまに見えるその表情は恐怖と焦りに満ちていた。もちろん、今の僕の表情を他人が見ても同じ考えを持つだろう。
でも、僕は逃げるわけにはいかない。
「リースも皆と一緒に逃げて。ここは危ないから」
僕は振り返って、後ろに立つリースに呼びかける。りーは突然のことに状況が飲み込めていない様子で呆然と立ち尽くしていた。
「でも、ミルさんは...?」
リースは僕の腕を掴んだ。この場に残る僕のことを心配してくれているんだろう。
「僕はこの街の騎士なんだ。だから今ここで逃げるわけにはいかない。ここで逃げたら、もっと大変な事になるかもしれないんだ」
リースの目を真っ直ぐに見据えて答える。
「分かりました...。絶対に無事でいて下さいね」
「うん、任せて」
僕の答えに納得してくれたリースは僕の腕から手を離すと逃げる人ごみに遅れてこの場を去っていった。
通りから人がいなくなり、この場は静寂に包まれる。
そんな中、先にその口を動かしたのは鬼の方だった。
「別にどうでもいい人間なんて殺さないんだけどなぁ」
人がいなくなった通りを見回しながら、鬼は呟いた。
確かに人が逃げている間もこの鬼はそれを妨害するような素振りは見せていなかった。できるだけ不殺生を好むのか、それとも街の住人なんてただの無力な存在としか思っていないのか、それは分からないが。
「あなたは、イーブルさん何ですか...?」
僕は恐る恐る鬼に問いかけた。とはいえ警戒は解かない。常に向こうの動きに合わせて行動をとれるように心がけておく。
「うん、そう。私は行商人のイーブルです」
鬼は僕の質問に素直に答えた。イーブルさんが行商人である事を知っている以上、嘘ではないのだろう。
「あなたは何者ですか...」
僕は再び問いかける。
この鬼がイーブルさんなのであれば、まだ話し合うことが出来るかもしれない。そんな望みを抱いていた。
しかし、そんな希望はすぐに打ち砕かれた。
「見れば分かるだろう、魔物だよ。この街を壊しに来た」
鬼、いやイーブルさんは4本の腕を広げて自分の全身を見せつけるようにして答える。
「守護石のせいで、この街に入ることに魔力の大半を使い果たしてしまってね。ここしばらくはあの騎士2人から魔力を奪いながらじっとせざるおえなかったよ」
守護石...というものが何なのかは僕には分からないが、恐らくこの街にあるものなのだろう。そしてイーブルさんの言う騎士2人とはカールさんとトルンさんのことだろう。
「カールさんとトルンさんを利用していたのか...」
「まぁ騙される方が悪いと思うよ。昨晩もこの家で『魔の美酒』を飲ませたら馬鹿みたいに酔って今日騎士がいなくなる事を話してくれたし、本当マヌケだね」
だから今、エンさんや他の多くの騎士がいないというこの最悪の状況で現れたのか。
それに今、イーブルさんは『この家』と言っていた。まさか...。
僕は嫌な予感がした。
「カールさんとトルンさんをどうした」
「ここ」
イーブルさんは自らの腹を指さす。
僕は最初にこの鬼を見た時、何かを噛み砕いていたのを思い出す。まさかあれが...。
「魔力を奪えばもう用済みだからね。...本当は君からも奪おうとしたんだけど、残念ながら君の『神の力』が発動した時に吸収石が破壊されてしまったようだ」
つまり、あの時渡された水晶が魔力を吸収するものだったのか。『神の力』が発動した時と言っているが、それは多分スノウを助けた時のことだろう。だからあの後黒い水晶が壊れていたんだ。
「さて、おしゃべりはここまでにしようか。彼らから奪った魔力も体に馴染んできたし、これ以上時間を潰すと残りの騎士が来るかもしれない」
そう言いイーブルさん、いや、鬼の魔物『イーブル』はあぐらを解きゆっくりと立ち上がった。立った時の体長は通りの家々を越える程のものだ。
「私は今から『神の使い』である貴方を殺し、この街を護る『守護石』を破壊します。そうされたく無ければ、私を殺すことですね」
「そんな事、言われなくても...!」
僕は奴の脚を目指して駆け出した。
まずは脚を潰す...。この高さでは例え僕が本気で跳んだ所で奴の顔に拳は到底届き得ない。ならばまずはその頭を下ろさせる。
「なるほど、脚か」
脚目がけて走る僕の前にイーブルは腕の1本を突き出す。けど、そんな簡単に僕も止められたりはしない。
「たあぁぁぁ!」
進路を塞ぐ巨大な手のひらに僕は殴りかかる。
バキ...と骨を砕く手応えを感じて、僕はその手をはじき飛ばした。
「ほう...。流石は神の使い。ただの人間とはパワーが違う」
関心したようにイーブルは呟くが、敵に賞賛された所で嬉しくもない。そんな声を無視して僕は脚の前まで辿り着き。先程手の骨を砕いた時のように殴りかかる。
その脚...もらった。
「...ふんっ」
僕はそう確信したが、僕の拳が届くよりも先に、イーブルは両脚を使ってその巨体をもろともせずに跳び上がった。
あの巨体だ、このままでいると着地した時の衝撃に巻き込まれかねない。
そう思い僕はすぐにその場から退避する。
僕がある程度の距離をとれたところで、巨体が再び地上へ舞い戻る。その衝撃で先程まで僕がいた地点のレンガはめくれ上がり、吹き飛ばされている。あと少し判断が遅れてしたら危なかった...。
しかし、この方法で回避されてしまうのであれば脚を狙うのは得策とは言えない。となればどこを狙えば...。
「おーっと、何ボーッとしてるんですかァ!」
さっきまでの穏やかな口調はどこへやら、僕の攻撃をかわしテンションの上がった様子のイーブルが僕に叫ぶ。
そしてそれと同時に奴の足元に飛び散っていたレンガの破片を脚を使って僕の方へと蹴り飛ばしてくる。
「くっ...」
飛ばされたレンガは広範囲に散っていて、かわし切る事は不可能そうだ。
僕は顔の前で腕を組み、ダメージ覚悟でレンガを受け切る事に決める。しかし、
「がっ...」
飛ばされたレンガの破片の中には砕けた時に先が鋭く尖ってしまっていたものもあり、それらは容赦無く僕の腕や胴に突き刺さる。
それだけでなく、奴の脚力で飛ばされたレンガは凄まじい威力で、受け切る事も出来ずに僕の身体は軽々と倒されてしまった。
不味い、早く立ち上がらなくては...。
そう思っても、腕に刺さったレンガの破片のせいで腕に上手く力がかからない。
「遅い!」
僕が立ち上がるよりも先に、こちらへ駆け寄って来たイーブルがレンガ作りの通りに倒れ伏した僕の身体をその巨大な手で拾い上げた。
そして僕の身体を簡単に持ち上げると、更にもう1本の腕も使って僕の身体を締め上げる。
「があああああ!!!」
奴に身体を締め上げられ、刺さっていた破片が更に身体に食いこむ。今までに感じた事のない激痛が全身を襲い、僕は喉が潰れてしまいかねない程の声で絶叫した。
「さて、貴方をこのまま握りつぶす事も出来ますが、それではつまらないですね。せっかくなので貴方には叩き潰されて盛大に血しぶきを上げてもらう事にしましょうか」
そう言うと、イーブルは残る2本の腕のうち僕に骨を砕かれていない方の腕を天高く掲げた。
その腕で動けない僕の事を上から叩き潰すつもりなんだろう。しかし、激痛が身体を支配し少し動くだけで破片が身体に食い込んでしまう今の僕にはどうすることも出来ない。
『死』...。この世界に来てからそれを実感したのは最初に黒騎士に会ってしまった時以来だろう。
あの時は僕が神から授かった魔法、いや、イーブルの言う通りならば『神の力』のおかげで切り抜ける事が出来た。しかし、今はそれを使ってもどうしょうもない。
元の世界で死んで、結局この世界でも簡単に死ぬ。それならば何故僕はこの世界へ来たのだろうか。
そんな事を今更考えても、直に僕の命は終わりを告げてしまう。ならば、最期くらいは無駄に足掻くこともなく、素直に死んでしまおうと思って僕は目を閉じた。
「...そうは」
「させないわ!」
しかし、そんな僕の耳に2人の少女の叫び声が響いた。
僕が慌てて目を開けると、僕の真上に振り上げられていた腕には無数の氷柱が突き刺さりその動きを止めていた。
そして、近くの家の屋根から1人の少女が飛び出した。金色の髪をなびかせながら、少女は僕の事を締め上げる腕の上に着地すると2本の剣でその腕を斬り裂いた。
斬られた事で拘束する腕の力が抜け、僕は手から抜け出すと、上手く地面へ着地した。そして、腕に乗っていた少女も地面へと着地する。
「ごめんなさいミル。街の人たちを城の方へ誘導していて遅れたわ」
僕の隣に立ち、まだイーブルの事を警戒して剣を構える『シィ・エスターテ』。
「...ヒーローは遅れてやって来る」
そして僕らの後方で魔法を唱える『スノウ・インヴェルノ』。
「2人とも...ありがとう...」
僕がこの世界に来た時にはまだ出会えていなかった、僕の隣で戦ってくれる人が僕の窮地を救ったのだった。




