3-白い女と黒い影
灯り一つない暗黒の街を、一つの影が疾走している。音をほとんど立てず、風を切りながら走るその姿は、車よりもなお速い。
疾走しているのは、白い影だった。暗闇の中で異彩を放つ、一つの影。無表情かつ無言のまま、ただ一人で。
先の見えない暗闇の中、その影は闇などまるで問題ではないとばかりに、屋根の上を走っている。その走りは、まるで東方の国に伝わる忍ぶ者さながらの足取りだった。
屋根から屋根へと移りながら、眼下の街を見下ろしている。暗い街並みを、ジロリとその目を凝らしながら。
その目はこの闇の中すら、昼と何も変わらないほどに見えているのだろうか。街をその視界に捉えているのだろうか。
いや、見えているのだろう。見えていないのなら、このような速度で走るわけがないのだから。
それは、車よりも速く走りながら、この暗闇をその目に捉えることの出来る視力あってこそのものだろう。
その白い影はまるで何かを探しているかのように、眼下を見渡している。
(……見つかりませんね)
探しているものが見つからなかったのだろう、白い影は一度立ち止まる。
白い影は、女だった。
全身を白に包んだ白髪の女。
その影……彼女は、いったい何を探しているのか。このような不気味な場所での探し物など、ロクなものではないだろう。
不気味な場所。異様な街。
街灯はあるというのに、その全てが灯り一つすら灯していない。雲に隠れているのか、月の明かりすらない。
光のない街。
だが、不思議なことにここは完全な暗闇ではないのだ。
月も灯りも、光源が何一つとして無いというのに、一寸先すら見えない無明の深淵というわけではない。
少しだけだが、先が見える。
それが、何より恐ろしい。まるで何者かが、この世界の明暗を調節しているかのように。
不気味な街だった。不気味すぎるほどに。
そしてこの街には、生の気配がまるでしない。
だが、死の気配が蔓延しているというわけでもない。
あり得ないほど、ここは静寂で満たされている。まるで、街一つが全て神隠しにあったかのように。
月のない夜の街が、生ある者、光持つ者を拒んでいる。
そんな街の中を、なんの不安すらも抱かずに彼女はいた。
(まあ、隠れていると思われるものがそう簡単に見つかれば苦労はないですけれど……一度姉様と合流しましょうか)
そう決めた彼女は、再び走りだすべく足に力を込める。
彼女にはどうやら姉がいるらしかった。その姉は、今は彼女と別行動をとっているようだ。
まずは姉と合流し、今日はもう引き上げるかどうかの相談を――と、思ったところで。
その瞬間、突如として彼女の前方に黒い靄のようなものが幾つも幾つも発生していく。
それは屋根の上から植物のごとく生えるようにして生まれ、頭に手足に胴体と――五体の輪郭をつくり、形を成していく。
それは、人の形となっていく。
現れたのは、黒い人型ともいうべきもの。
その全身は黒より黒く、道化の物にも似た服を着ていた。
黒の体に、のっぺりとした顔だけが灰の色。
その眼窩には、本来あるべき眼球はなく、奥へ奥へと虚無の空洞が広がっている。
そこに、何も流れていない黒い血管のようなものだけが、びっしりとその内側を血走っている。
口は無く、口の部分には笑みのような模様だけが描かれている。
そして何よりも目を引く特徴として、ピノキオのような長い鼻があった。
仮面をかぶった人形のようないでたちが、彼女の前に立ち塞がる。
「名を持たぬ死、ですか」
それは、この影の名前なのだろうか。
ぽつりとその名を呟いた彼女は、迫り来る危険から身を守るため、アームロングのグローブに包まれたその手をいつでも動かせるよう、影の動向を注視する。
この影に生命の気配は感じられなかった。生きているわけではないことは、見れば分かるだろう。
息をしていない。呼吸の音が聞こえない。生命ならば本来あるべき、鼓動がこの影には全く無いのだから。
だが、かつて生きていたというわけでも無いのだろう。名を持たぬ死はその名の通り、かつて生きることすら許されなかった、死そのものであるのだから。
生命でもなければ、死体でもない影人形。
生も死も、この影には存在しない。
だが、名を持たぬ死を見た彼女の反応は、恐ろしいものを見たというような反応ではなかった。恐怖など、まるで感じてはいない。
むしろその逆。
得たりと言わんばかりの、何かを納得したかのような。
「ここで雑兵が現れるということは、“当たり”ですね。姉様へ報告することが一つ出来ました」
喜ばしいことであると。手ぶらで帰るような真似をしなくて済むという、“良かった”というあまりに場違いな感情であった。
「正直、見つけるのは姉様の方だと思っていましたから。ええ、わたしは姉様ほど感覚が鋭くありませんので。ですがこれで一つ、確信が手に入りました」
そう、これで確信が持てた。
これを呼び出せるものは、奴らのみだから。
「そちらから出向いてくれて、むしろ感謝いたしますよ。存外と、楽に証拠が見つかりましたので」
これで姉も喜ぶだろうと、淡い感謝すら影に抱いている。
ああ、しかし。
「ですが、気に入らないことが一つ」
次に彼女の心に浮かんだ感情は、間違いなく、僅かではあるものの、怒りだった。
「その姿……」
彼女は爪先から五指の隅々まで、力を張り巡らせてゆく。
白い女は、眼光を鋭く尖らせて、名を持たぬ死を睨みつける。
「黒づくめのその格好、姉様のようで不愉快だ。消してやるから、今すぐ消えろ」
ドンッ、と彼女が地を蹴ったのと、名を持たぬ死たちが彼女へ向かって駆け出すのは全く同時だった。それは、まるで鏡合わせのように。
だが走り出したのは同じでも、その速度には大きな差があった。
圧倒的に、白い女の方が速い。
猛獣と人が速度比べをしても勝負にならないように、白い女の足は目の前の影たちを遥かに上回っていた。
常人には出すことのできない風のような速度で、黒の群れに突っ込んでいく。
そしてそのまま――彼女は群れの中心を突っ切ったまま通り過ぎていく。
一見すれば、逃げたのか? と思わされる光景だった。
敵へ突っ込んだのはプラフであり、何もせずに走っただけで、本当の目的は逃走なのかと思われても致し方ないかもしれない。
だが違う。その証左として、名を持たぬ死たちが、彼女が群れを抜けると同時に次々と消し飛ばされていくのだから。
彼女は逃げたのではなく、ただ走りながら一体につき一発ずつ、その拳をぶち込みながら駆け抜けただけなのだ。
ただ一発の拳で異形を消し飛ばす人外の膂力と、走り抜けながら丁寧に一度ずつ攻撃を当てる拳速を発揮しながらも、彼女はその戦果を何も誇らない。
この程度ではしゃぐような、子供じみた精神を彼女は持っていない。
無表情で振り返った彼女は、十数体いた名を持たぬ死たちが全て消し飛んだのを確認し、姉との合流地点を目指すべく走り出す。
「やはり雑兵ではあの程度。だが、間違いなく――」
間違いなく、影を呼び出した者はそう遠くない場所にいる。
少なくとも、この暗闇の世界の、何処かに。
そうでなければ、あのようなものをこの世界で呼び出すことなど出来ないだろう。
あれは自動式のようだったから、近くにいるかどうかまではわからないが……。
そして、このような芸当が出来るということ。間違いなく権能持ち。
敵の中でも重役の立ち位置にいるであろうこと、そしてそいつがこの世界にいるであろうことに疑いはなく――。
そう思案しながら駆け出そうとした彼女は、走り出すのを急停止して立ち止まる。
なぜなら、彼女の前方に再び闇の靄が集まっているからだった。
数十体もの名を持たぬ死が人の形を取り戻しながら、闇から浮上してくる。
それだけではない。
今度は四方八方から、前後左右から、眼下の街からも、何十体もの影が次々と現れる。
「……面倒な」
流石に今度はさっきのように、一瞬で片付けるということはできない。
今現れている影は、目算ではあるが先ほどの数倍以上だ。更に今この時も、次々と現れ続けている。
負けはしないまでも、少々時間を取られてしまうことにはなるだろう。面倒ではあるが、まず負けることはない。
だが、問題は数ではない。
そう、数などは問題にはならない。
ここで考えるべきは、なぜなんの痛痒も彼女に与えることは出来なかった、このような雑兵を何十以上も呼び出したかということ。
まさか、目的もなく呼び出したわけではないだろう。そして、この一瞬で推察できる影を呼び出した目的はそう多くはない。
まず一つ、こちらの疲労を狙っている。
だが、まずこれは無いだろう。名を持たぬ死数十程度では、彼女に疲れなど起こらない。十数の影を一瞬で撃滅した先ほどの結果から、敵方もそれくらいは予測できるはずだ。まあ、長い時間を戦い続ければ話は別だろうが……。
次に二つ。数を増やせば倒せると思った。
だが、これは一つ目よりも更に輪をかけてあり得ないだろう。
数は確かに力になる。だが、半端な数が通じるのは常人までだ。常人を超えた超人たる彼女を数で倒そうと思えば、それこそ膨大な数が必要となるだろう。
今彼女の眼に映っている数では、足りないと言わざるを得ない。これもまた、相手も分かっているはずである。
ならば最後の可能性。
単純に、時間稼ぎだ。
増え続ける影をまともに相手していては、いくら彼女でも時間は食う。
そうして時間を稼ぐこと。これが目的である場合だ。
そして次に、それが正解である場合、時間を稼ぐ目的は何か。
時間を稼ぐということは、必ず何かしらの目的があってのことなのだから。
「まさか、姉様の身に何か? いや、けれど」
そう彼女は危惧するも、直ぐにそれは無いだろうと思い直す。姉が負けるはずなど、ないのだから。
姉への絶対的な信頼から、この考えを頭から外す。
ならば次に考えられる目的としては、彼女が影の相手をしているこの隙に――。
「逃げる気ですか。ならばこの近くに潜んでいると、そう判断しても宜しいので?」
逃走。それ以外には無いだろう。
殿という言葉があるように、最後方の部隊が敵の追撃を食い止めて足止めし、頭を逃すという単純な策。
この影たちで彼女を足止めし、隙を見て逃走を図ろうということだろう。
先ほどは、この近くにいるかどうかまでは分からないと考えていたが、どうやらそれは撤回しなければならないらしい。
――だが、そう安々と上手くは事を運ばせない。
こちらの道を塞ぐように立つ影を、その鋭い眼光を放つ白い瞳で睨みながら、彼女はこの影の先にいるであろう何者かへと告げた。
「させると思いますか? この私が? むざむざと?」
そんなまさか。させるわけがない。
確かに、この近くといっても正確な場所が何処かは分からない。
また、一つ一つの場所を丁寧に探す時間はないだろう。
それに加え、彼女に勘で居場所を突き止められるような直感力はない。
ゆえ、彼女はさせぬと言ってはいるものの、残念ながら逃してしまう可能性の方が高いだろう。本当に敵がこの近くに潜んでいるのならばであるが。
「ええ、ええ確かに。この影をまともに相手していては今からあなたを見つけることなど出来ないでしょうし、そも本当に近くにいるのかいないのか、その確認すらもできません。ですが、分からないのならばそれはそれでやりようはあります」
先ほどまで探索していたというのに、もしかしたら見逃してしまっていたかもしれないと思うと、見逃してしまった自分を恥ずかしく思うものの。
だが、今は恥など感じている場合ではない。失敗は、死なぬ限り挽回のチャンスはあるのだから。
……勿論、彼女が見逃してしまったわけではなく、まだ探していないこの先の何処かに潜んでいた何者かが、彼女が近くにやって来たことで焦り、こうして影を呼び出した……という場合であるかもしれない。
また、影は全てブラフであり、なんの意味もなく嫌がらせ目的で呼び出したという可能性も、極小ではあるが無いわけではない。
現状、その確認が出来ない以上、全ては憶測でしかないが――。
だが、けれど。
「分からないのならば」
見つけることが出来ないのならば――。
「この辺り全て、砕き散らせばいい話ですので」
見つけられないのならば、見つける必要が無いほどこの地区全てを破壊すればいいだけの話であると、なんとも簡略で物騒なことを言い放った彼女がその白い拳に力を込めて――。
その瞬間、させぬとばかりに名を持たぬ死達が一斉に彼女へと向かって殺到する。
「ああ、この反応。やはり、いるのですね」
この近くにいるという確信を、彼女は持つ。
相手の反応を見るための言葉であったが、どうやら正解だったようだ。
破壊させてなるものかと言わんばかりのその反応は、裏を返せば自分はこの近くにいると宣言しているようなものだ。
影の手をするりと躱し、迫り来た前方の影に拳をぶつける。拳をぶつけられた影は、まるで脆い紙風船のようにその胴体が弾け飛ぶ。
そして、殴った拳とは逆の拳を思い切り、勢いよく後方へと振りかぶる。
その拳は彼女の後ろへと迫っていた影へ吸い込まれるようにして向かい、影をそのまま打ち砕く。
まるで後ろに目でもついているかのように、死角からの攻撃に対応してみせる。
この暗闇の中で戦うことも、なんのハンデにもなっていない。鷹のごとき鋭い目が、暗闇の中を見通している。
「姉様は言っていた。一対多の戦いにおいて、相手がどれだけ多くても所詮は一対一の繰り返しだと。それが刹那という短い間に、連続して襲って来るだけなのだと。ゆえに――」
足を蹴り上げ、撃ち抜かれた影の顎が思い切り跳ね上がり、そのまま影の首と胴体が離れ離れとなる。
跳ね飛んだ首が街路に落ちて、コロコロと転がりながら闇へと消えていく。
「その刹那に、襲い来る敵を全て薙ぎ倒してしまえば、敵に囲まれることなどないのだと」
蹴り上げた足を、一瞬でそのまま下に振り下ろす。
まるで薪を叩き割る斧のように、首を断ち切るギロチンのように、その足は処刑刀となって影の頭上へと振り下ろされる。
頭上からそのまま蹴り裂かれた影は真っ二つとなって左右に倒れながら消滅していく。砕け散ったピノキオのような長い鼻も、黒い粒子となって闇へと還っていく。
言葉を紡ぐ間も、彼女は次々に名を持たぬ死を屠っていく。
倒された影は数秒で消滅していくため、その体が場に残り戦闘の邪魔をすることもなかった。
「だから守りなどいらない。必要なのは、ただ速さなのだと」
彼女の言っていることは、ある種の極論であるのだろう。
それを実現するために必要な条件は、普通は満たせないようなものばかりである。
常軌を逸した身体能力に加え、相手を一撃で屠るための膂力。全方位の敵を相手にするための対応力。その他諸々に加え、彼女の言う通り速度が必要となるだろう。
また、相手が一撃で倒れてくれる程度の強さであることも。
敵が一撃では倒れてくれない程の頑強さを有していれば、一瞬で相手を倒すことは不可能なのだから。
だが。
「ああ、そもそも。多対一を挑んでくる時点で、そいつらは数に頼らねばならない雑魚なのだから、どれだけ多くても余裕でぶちのめせるだろう。と、わたしの姉様は仰っていました」
だが、名を持たぬ死たちは、はっきり言って彼女から見れば雑兵でしかない。
力の差が明確に存在する以上、こうして一撃で滅することも可能であるならば、彼女の言う“極論”を実践することもまた可能であるということ。
「ですので、このような雑兵をいくら送り込んだところで、わたしは倒せませんので」
風を切りながら砲弾の如く走る拳打が影を打ち抜き、打ち抜いた勢いのまま影が消える前に、風穴が空いた影を掴み、“ドンッ!”という音とともに影を刀剣のように横薙ぎに振るう。
振るわれた影に別の影が叩き折られ、近くの影が幾体も両断される。
近くに寄って来た影はくの字に曲げられ、そのまま弾き飛ばされていく。
振り終えた、武器代わりに使った影はそのまま投げ飛ばし、投げ飛ばされた影は砲撃のように着弾して周りの影を巻き込みながら消滅していく。
「……ですが、やはりキリがありませんね、これ」
倒しても倒しても、また新たな名を持たぬ死が湧き出てくる。
既に数十は影を屠っているものの、影が尽きる様子はない。
家の壁を伝って登り、下にいた影は続々と屋根の上へと集まってくる。
「やはり元を断たねばなりませんか。供給を止めねばいつまでも湧いてきそうですし。しかし、どこにいるのやら……」
視線を彷徨わせてみても、やはり影以外の何かが動いている様子はない。
動いているのは名を持たぬ死たちだけで、これを呼び出している者の気配は感じられなかった。
だが、いるはずなのだ。先ほどの影の反応から、彼女はそう確信している。
“やらせない”と言わんばかりのあの反応は、この地区一帯を一気に全て潰されてしまえば自分が見つかってしまうことを恐れたがためだろう。
ならば、このどこかで影を彼女にぶつけ時間を稼ぎながら、逃げ出すべく機を伺っているはずである。
今逃げ出してしまっても、彼女に見つかってしまうかもしれないから。この暗闇に身を隠しながら移動しても、彼女に闇は通じない。
それを避けるため、今は息を潜めているはずだ。
(ほんとに全部壊せれば楽なのですけれど)
この辺り一帯を全て壊し、瓦礫で生き埋めにできればそれが一番楽なのであろうが……結局、楽なのは相手を倒すところまで。その後に死体の確認という面倒な作業をしなければならないのだから、どちらにせよ面倒なことに変わりはない。
(まあどちらにせよ、そんなこと出来ませんが――)
掴みかかってくる影の腕を逆に掴み、引っ張ることで体勢を崩し、土手っ腹に膝を叩き込めば影の胴は四散する。
そのまま下半身と分かたれた上半身を、別方向の影に叩きつける。叩きつけられた影がぐしゃりと潰れるのを見もせずに、彼女は影を手放す。
間を空けず、叩きつけた勢いのままぐるりと半回転し、拳を打ちつける。
一撃必倒。全ての影を、一撃で倒している。
背後から薙ぐように振るわれる影の手を、頭を下げ膝を曲げ、しゃがむことで回避する。
しゃがんだまま、屋根の上につけられた足に力を込め、蹴り、蹴られた屋根は陥没。ロケットのように上空へと跳び上がる。
跳んだ勢いが減衰し動きが止まった瞬間に、“ドンッ!”という轟音がまたも響き、本来は動くことすらままならぬはずの上空から、加速しながら彼女は頭から落下する。
ぐんぐんと速くなる落下速度のまま、屋根が近づいてくると彼女はくるりと頭を上にして態勢を元に戻し、足を振り上げる。
加速しながらの急降下はそのまま威力へと転じる。急速落下の勢いを利用した、踵を振り落とした彼女の蹴りが、先ほどまで彼女がいた家ごと影たちを吹き飛ばす。
爆音が響き、家が丸ごと潰れて崩れ、発生した衝撃に巻き込まれた周囲の影も吹き飛ばされる。
「……ああ、またやってしまいました。姉様に止められていたのですが……」
ガラガラと瓦礫の中から現れた白い女は、しばらくぶりの地面を踏みしめながら“またやってしまった”と独りごちる。
そしてどうやら、相手は真下に隠れていたわけではなかったようだ。灯台もと暮らし、というわけにもいかないらしい。
見つからなかったことに落胆しつつ、言いつけを守れなかったことに沈みながらも、だが一息つく暇はないらしい。
あらかた吹き飛ばされた影を再び呼び出すべく、黒い靄がまた集まりだしている。
――逃げるためじゃなく本当に自分を倒すために呼び出してるんじゃないだろうな、と思わず彼女はそう思ってしまう。そのくらい、しつこかった。逃げなければならないのだから、しつこいのは当然であるのだが。
これはやはり、供給元を早急に絶つべきだろうと彼女は決め、そのために復活した名を持たぬ死たちをぐるりと見渡す。
「――そこ」
彼女は複数ある影の集団の中の一つを目指し、地を蹴って駆ける。
彼女から見て左斜め前にあるその集団は、影の数が一番多い集団だった。
彼女は駆けながら、選択の理由を述べていく。
「自分のいる場所に最も多く、硬い守りを固める――ええ、当然の心理ですよね」
自分が倒されるわけにはいかないのだから、守りを固めるのは当たり前のことである。
そしてそれは、最も硬い守りでなくてはならない。時間を稼ぐにせよ、命を守るにせよ、防御行為には信じられる要素が無ければならないからだ。
「ですから、あなたの居場所はそこです――」
しかし、この場にいる兵――防御手段は名を持たぬ死のみ。
先ほどから彼女に傷一つ負わせることも出来ず、蹴散らされるだけだった影たちで己を守ろうと思うなら、その方法は出来る限り影を多く集めること――数しかない。
より多くの数を集めて壁をつくること。それくらいしか、この影でやれることはないだろう。
ゆえに、影が最も多く集まっている場所にこそ、影を呼び出し操っている者は隠れている。
彼女の考えは、そういうことで―――
「――なんて言うと思いましたか?」
―――はない。
彼女は突き出した右足を止めて疾走を停止し、別の集団へと視線の矛先を変える。
「ええ、ええ。普通はそう考えるかもしれませんが、ですがそれではすぐバレます」
今のように。
「だって当然のことですから。相手だって、そう考えます」
数が多い場所が一番守りが固いのだから、そこに隠れる、そこにいるはず。
誰だって、そんなことは直ぐ思いつく。
だからこそ、少しでも用心深い者なら逆にそれを避けようとするはず。
なぜならば、今最優先で行うべきことは己の身を守ることではなく、逃げることであるのだから。
身を守るために守りを固めるよりも、己の居場所を気取らせぬことに注力しなければならない。
居場所がバレてしまえば、逃げることは一気に難しくなる。
彼女が己の目の前に現れることを許してしまえば、彼女は敵を決して逃がさぬため全力を尽くすだろうから。
ゆえに焦らず、まずは隠れること。
急ぐこととは真逆の概念である、潜むということをまずは行う。
決して、居所が簡単にバレるような守り方はしない。
それでこその、“逃走”であるのだから。
「ですが、だからといって守りを固めないわけにはいかないでしょう。自分が倒されてしまえば、逃げるも何もないのですから」
だから、ある程度の守りだけは固めるはずだ。
万が一にでも、殺される、もしくは捕まるわけにはいかないのだから。
そうなれば、二度と日の目は拝めない。
「そして決定的なのは、わたしがここへ駆け出しても周りの影に全く焦る様子がないこと」
そう。普通、居所がバレてしまえば大なり小なり焦るものだろう。
あからさまに動揺してしまえば居所が決定的にバラしてしまうようなものだが、自分がいる間に突入されてしまうよりはマシなのだから。
だが、周囲の影たちにはなんの焦りも見られない。
その反応は、“自分はそこにはいない”とバラしているようなものだ。
「ゆえに、あなたの居場所は―――そこです」
以上のことから、ある程度の予測はつく。
最低限、信じられる防御を敷いている箇所。すなわち。
一番守りが固められた場所ではなく、二番目に守りが固められている場所。
二番目に影の数が多く集まっている集団が、守るように背にしている建造物。
そここそが、この影たちの主がいる場所――!
急速に方向を転換し、彼女は再び駆け出していく。
逃がさないという意思を足に込め、風もかくやという音にも迫る速度で彼女は疾駆する。
足を踏み込むたびに街路を抉りながら突き進む彼女に、遅まきながらも急ぐ様子で他の場所にいた影たちが集まってくる。
(遅い――ッ!)
そしてそれこそ、彼女が正解を引いたという証拠であろう。先ほどとは違い、明らかに影たちが焦っている。
影たちは彼女を止めるべく、こちらへ向かってくる。
だが、影たちでは彼女に追いつけない。
最初の攻防で、それははっきりと分かりきっている。
この影では、彼女に決して敵わない。
だから、名を持たぬ死の一切を彼女は無視する。
地を踏み砕くほどに踏み込んだ彼女の足から、轟音が響く。
さっき家一つを蹴り潰した時のように、だが今度は真上ではなく斜め上へと急加速で跳躍する。
白い流星と化しながら跳ぶ彼女はそのまま、足を鞭のように振るい――
―――目の前の壁を蹴り砕いた。
砕かれた壁の瓦礫が散乱する内部を、彼女は用心深く進む。
ここは敵地。罠があるかもしれないのだから、慎重するに越したことはない。
慎重に構え、視野を広げて相手の動きを見逃さないよう集中する。
だが、それは無用の心配であることが直ぐに分かった。
――誰も中にはいなかった。
そこは一つの部屋だった。
窓も扉も何一つない、伽藍堂とも言える空間だ。
明らかに、誰かが住むための部屋ではないだろう。
部屋と言えるかどうかすら疑わしいほど、そこには何もない。
だが、そこには一つだけ異色のものが存在した。
血。
乾いて変色してしまっているが、それは間違いなく血だ。
それも、部屋の全てにびっしょりと飛び散っているほどの、夥しい量の血だった。
床はもちろん、壁にも、果ては天井までもが乾いた血で濡れていた。
不気味ではあるが、しかし今はそんなことはどうでもよかった。
誰もいない。
つまりそれは、彼女は間に合わなかったことを意味する。
逃げられた。
まだ何も動いていないと彼女は認識していたが、しかし相手は彼女の認識を上回るほどの隠形を使用するのだろうか。
「……く」
拳を握りしめ悔しがるものの、だが悔しがっている暇はない。
すぐにこの建物を全て調べ、何もないようなら姉と合流しなければならない。
最も、調べても何も出ないであろうという予感はあったものの。
彼女はまず下から調べるために一度下へと降りて行った。
■
「惜しかったですねぇ」
暗い部屋の内で、一つの声が響く。
その声は、名を持たぬ死を操っていた張本人のものだった。
彼は彼女を騙し切り、まんまと逃げ延びることに成功していた。
白い彼女はあの建物を全て調べ終えたのだろう。
あの場所を出ると、すぐに跳び去っていった。
用済みである影は全て消してしまっているため、もう戦闘は発生しない。
あの影が呼び出されたのは、一度目は単に自動での召喚だった。
誰かが近づいてきた場合に反応し、自動で召喚されるように設定していたもの。
二度目の召喚は、実のところを言うと彼の勘違いが一因だった。
影が呼び出されたことを察知した彼が、彼が潜む建物に仕掛けられた監視の術を用い彼女を見ていたのだが、すると彼女が彼のいる方向を向いてしまったのだ。
まさかバレた? と思った彼が逃げるための時間稼ぎとして、名を持たぬ死たちを呼び出したのだ。実際のところは、彼女が姉と合流すべく偶然その方向を向いただけであるのだが。
だがどちらにせよ、彼女がこの近くに来たという時点で彼は逃げる気だった。
彼女が別の誰かを引き連れてここへやって来れば、彼が見つかる可能性がグンと高まってしまうのだから。
ゆえに彼は名を持たぬ死の召喚を実行。逃げるために彼女と一戦を交えたのだ。
結果的に見れば、相手の手札を少しでも見られたのだからプラスと言ってもいい結果だろう。
「いやいや、危ないところでしたよ。ええ、これは本当のことですよ」
笑いながら話す彼の声に、彼女への嘲りは存在していなかった。むしろ、褒めているかのような声色だ。
女は、彼が用意していた囮の部屋を看破したのだ。騙されたとはいえ、そこまでは突き止めた。
それだけでも十分に、賞賛されるべきだろうと彼は思っている。
だからこそ、彼の声に嘲笑はなかった。
「あなたは惜しかった。確かに、一番守りを固めている場所に隠れていたのでは、それはすぐにバレてしまう。……ですが、貴女が言った二番目。それもまた、言ってしまえばすぐにバレてしまうことでしょう」
そう。それだって、彼女が看破したようにバレてしまう可能性があった。
だから、答えはそのさらに奥。
守りが最も硬い場所でも、二番目に硬い場所でもない。
その裏、守りの硬さが最も柔い場所――つまり、守りが最も薄い場所にこそ、彼は隠れていた。
のでもない。
答えは裏のその更に裏。転じて、むしろ表こそが答え。
守りが薄いどころではなく、なんの守りもないただの建造物にこそ、彼は隠れていたのだから。
「木を隠すなら森の中、という言葉があります。まさしくその通りでしょう、何かを隠すならば同じ物で溢れている場所へと隠すのが一番いい方法だ。ならば、私が隠れる場所というのもまた、森の中だ」
単純な話である。
そもそもからして、名を持たぬ死の守りなどという分かりやすい目印がある場所に、なぜいちいち隠れなければならないのか。
どう考えても、なんの変哲もなくそこらへんに当たり前に立っている場所に隠れるのが、一番見つかりにくいに決まっているではないか。
だからこそ、彼を見つけようと思うなら、彼女は名を持たぬ死とはなんの関わりもない場所を探さねばならなかった。
……まあ、その場合は彼女の考えていた通り探している暇など無く、別の建物を探している間に彼に逃げられた可能性が高いのだが。
ゆえに彼女も、影に応戦しながらどこに彼が潜んでいるのか動きを伺っていたのだろうから。
「さて、あまりのんびりしていられる時間はありませんね。早く立ち去らねば、彼女が戻ってきてしまう」
彼はコツコツと足音を響かせ、今度こそ本当に逃げるべく、隠れ場所を後にする。
この戦いは彼の勝利に終わったが、しかし油断はならない。彼は油断していない。
さっきの戦いも、もしかしたら見つかっていたのかもしれないのだから。
だから、彼は笑う。
こうでなければならない。終幕へと到達するためには、乗り越えるべき壁が無ければならない。
そうでなければ意味はない。
試練こそが、喜びの日を迎えるための最良の道筋であるのだから。
彼の右顔は笑う。
彼の左顔は泣く。
泣いた女の半面は今この時も涙を流し続け、もう半分の彼の素顔は今この時もにこやかな笑顔のまま。
邪教の神父は歩き出す。
その両手の甲に刻まれた聖痕から、血を流し続けながら。
「フフ、フハ、ハハハ」
「ハハハ、ハハ、クハハハ」
「ハハハハハハハ、アハハハハハ! アーハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――ッ!」
闇の王翠をその手に取って、邪教の神父は高らかに笑う。
初めての戦闘描写挑戦。
戦闘や戦法に関する知識は恥ずかしながら無いので、書いてあることが本当かどうかは分からない。