2-友達
走る。走る。走る。
石畳が敷かれた街路の上を。
朝日に照らされた道の上を。
走る。走る。走る。
彼女が借りているアパートと、学院との距離は近くはない。
物凄く遠い、と言うほど遠いわけではないが、それでもこうして急がねばならない程度には離れた距離にある。
彼女が借り家を探す際の条件の一つには、学院からの距離もあった。出来る限り近くにある部屋を借りたのだが、のだが……。
彼女の寝坊癖は、こうして彼女をほぼ毎朝走らせている。おかげで足がほんの少しだけ鍛えられたような気がするのは気のせいなのだろうかと、彼女は地味に頭を抱えていた。
学院の寮に入るという手もあるのだが、寮に入るための金額は高く、とてもじゃないが手はつけられないし、月々の家賃も馬鹿にはならない。
入ることができれば、寝坊癖に悩まされる回数もグンと減るのだろうが、悲しいことに彼女にはそんなお金の余裕はなかった。
というわけで、彼女はこうして汗水垂らしながら走るという、淑女にあるまじき醜態を晒しながら学院へと向かっていた。
「ぅぅぅ……!」
門が見えてきた。学院の入口。
腕時計を見てみると、講義までにはまだ時間があった。
そのままダッシュで門へと駆け込む。
――間に合った!
心の中でガッツポーズを取りつつ、スピードを落として足を止める。
膝に手を置いて「ぜえ、ぜぇ」と息を切らしている彼女を見て、「今日は遅刻しなかったね~」と声をかけてきた同級生の言葉がとても暖かかった。
「お、おはよう……間に合って、やったわよ……ぜぇ、……」
――だから遅刻はまだ片手で数えられるくらいしかしてないから!
「おはよう。毎朝大変だねえ。あ、アイリスさんたちはもう教室にいたよー」
手を振り合って挨拶を交わした後、同級生は過ぎ去っていく。
近所のおばさんもそうだったが、なぜ自分の遅刻について、こんなにも周りからあれこれ言われるのだろうかと、彼女は本気で悩み始めていた。
(私、そんなに遅刻してないわよね…!? せいぜい、に、2…いや3回くらいよね……!?)
とぼとぼと疲れた足を引きずりながら向かった教室の戸を開ける。
ガラガラと戸を開けると、いつもの場所に彼女の友人たちがいつものように集まっていた。
この学院の講義では、基本的に席は自由席だ。だから、教室ではこうして仲の良いグループが集まることが必然的に多かった。
「おはようみんな」
彼女が友人たちに声をかける。
彼女の友人たち。四人の、友達。
「おっはよー、シーちゃん。今日もビリー」
まず彼女に挨拶を返してきたのはシーラ。
彼女がこの学院に入る前からの友人。
「いつも思うんだけど、あなたも“シー”よね、シーラ。あとビリは余計よ」
「だね、お揃いだ」
シーラ・バイロン。
いつも明るい、彼女たちのムードメーカー。
後頭部で纏められている金色の髪は、彼女が動くたびに揺れている。
いつもニコニコと浮かべている彼女の笑顔に、彼女は思わずいつも釣られて笑ってしまう。
「ついでに言うなら、イーリスのやつも“シー”だな」
次に声をかけてきたのは、青年だった。
濃い茶色の髪に、軽薄そうな笑みを浮かべている。
「おはよう、いつもいつもほんとに遅いなぁお前は」
「うっさいわね、いいじゃない遅刻はしてないんだから」
彼はエリック・モーリス。
こうやって彼女のことをからかうのが好きで、それが趣味とすら公言している。
彼女に恋愛感情という意味での好意があるわけではない。つまり、好きな女の子にいたずらをしかけてしまう少年心、というわけではないのだが、しかしいつもからかってくる。
それをアイリスが嗜めるのも、彼らのいつものパターンだった。
彼女とシーラと、そしてエリックはこの中で一番付き合いの長い三人だ。
この学院に入る前からも、よく三人でつるんでいた。
両手に花状態だった彼はよく他の友人に羨ましがられたが、当時の彼曰く「男友達となんも変わらん」らしく、その環境を一切自慢などしていなかった。
シーラも彼女も、一部男勝りな部分があったためだった。また、「性格良し見た目良しだけど友人としか見れねえ」ともよくこぼしていた。
「そりゃいいけどよ、俺には関係ないし。でもお前が遅れるとさ、心配するやつがいんだろ。お前が遅いのは毎朝のことだってのによ」
そう言って彼が指差した先にいるのは、アイリス・C・アンダースノウ。
愛称はイーリス。
アイリスは、彼女とはこの学院に入ってからの付き合いだった。教室に一人座っていたアイリスに、彼女が声をかけてからの付き合いだ。
そして、彼女の一番の親友でもあった。
付き合いの長い、シーラやエリックよりも。彼女とアイリスは、一番仲の良い二人だった。
四人の中で、この学院に入ってから彼女と一番過ごした時間が長いのもアイリスだろう。「あたしのシーちゃんが取られた〜!」と泣き崩れたシーラへ渾身のドヤ顔をしていたアイリスのことを思い出すと、彼女は時々思い出し笑いをしそうになる。
アイリスは彼女を見ると、心配そうな表情から一転してほっとしたような表情を浮かべ、彼女へ近づいてくる。
「おはようシオン。ああもう、こんなに汗かいちゃって。また走ってきたのね、今日もお寝坊? 昨日はちゃんと早く寝たの? 目覚ましはかけた? ああほら動かない……」
「わっ、ぷ。ち、ちょっとイーリス」
名前の通り雪の結晶のような銀の髪と、そして水色の瞳。流れる銀が陽光に煌めいていて。それがとても綺麗で、初めて会った時に目を奪われたのを彼女は覚えている。
ハンカチを片手に側に来たアイリスが、彼女の汗をそのハンカチで拭き取りながら、彼女を捲し立てる。
「ほらじっとするの。ちゃんと汗拭かなきゃ……」
アイリスの手が心地よくて、彼女は思わず目をつむってじっとしてしまう。
こんなことを毎日やっているものだから、禁断の関係……? などと、まことしやかに囁かれていることを彼女たちは知らない。
「君は本当に心配性だねイーリス。彼女が遅れてやってくるのはいつものことじゃないか。おはよう、シオン」
そうアイリスに声をかけたのはロイド。ロイド・ランス・クロムウェル。
眼鏡をかけた青年。
彼らの中で一番頭のいい学生。
彼らのグループには、四番目に入った。つまり、彼も彼女とはこの学院からの付き合いだった。
最初に彼女と、シーラとエリック。そしてエリックが以前からの知り合いだとロイドを連れて来て、最後に彼女がアイリスに声をかけて。そうして現在の、五人の友人グループが出来上がった。
そして、彼女。
シオン・バイオレット。
プラチナ色の髪をストレートに伸ばし、たなびかせる、寝坊助な美少女。
好きなものは友達と物語等。嫌いなものは勉強(苦手ではない)と友達を傷つける人。
長い間一人暮らしのため、家事は一通りそこそこ出来、性格も良いため男人気も中々。
ただし、彼女に全く恋愛に関する興味がないことと、友人グループのあまりの仲の良さから、あまり告白はされない。
「だ、だって何かあったかもしれないじゃない。事故とか、病気とか……も、もももしかしたら誘拐とか……!」
自分で話しながら、シオンがそうなっている場面でも想像したのだろうか、段々と顔が青ざめていくアイリス。
アイリスはシオンに対して、少々過保護とも言える所があった。
今のように、毎朝遅れてやって来るシオンをいつも「何かあったわけじゃないよね?」と心配したり、まるで母のようにシオンの身嗜みや生活へ気をつかったりと。
とにかくシオンのことで頭をいっぱいにしているような、そんな所があった。
「だ、大丈夫だから! ちゃんと気をつけてるから! 落ち着いてイーリス」
「そうそう。てか俺が知る限り風邪一つひいてねーよこいつは。そんな心配するだけ無駄無駄」
「あんたは黙ってなさい! 誰が風邪一つひかない馬鹿よ!」
「誰もそこまでは言ってねえよ!?」
またいつものように、軽口の叩き合いが始まる。よくあることだが、ただ口で物を言い合うだけで決して取っ組み合いにはならないあたりに、彼らのこれはただのスキンシップなのだという事が分かる。
「大体それを言うなら、あんただって私が知る限り一度だって風邪ひいてた覚えがないじゃない!!」
「俺はちゃーんと予防してるんですー。どっかの寝坊助と違ってな!」
「わ、わ私だってちゃんと予防してるんですけど!!? あと寝坊助は余計よ!」
彼ら三人を、同じ輪の中にいながら遠巻きに見ているロイド。
「君たちは朝からどうしてそう騒がしいんだ……僕のように落ち着くことは出来ないのか? ……ああ、いや無理か。馬鹿だし」
眼鏡を指で押し上げながら嘆息して二人を小馬鹿にするロイドに、シオンとエリックが振り向いて。
「んだとロイド! どの口が言ってんだ、先週一番酒飲んで酔ってたのてめぇだろコラ!!」
「いいのかなーそんなこと言っちゃってー! いいのかなーあのことシーラに言っちゃってもいいのかなー!!」
「え、あたし?」
息の合った二人の反撃に、突然名前を出されたシーラが反応する。
きょとんとした表情で、自分を指差しながらシオンの方へと振り返る。
ちなみに、シオンもエリックも勉学に励むことは嫌いだが、決して頭が悪いわけではない。
「っな!? おいシオン、それは言わない約束だろう!? 流石の僕もそれは怒るぞ!? というか君も十分飲んでただろうエリック!! 人のことを言える口か!」
二人に乗せられて、ロイドも彼が言うところの“騒がしい朝”に参加してしまう。
名前を出されたまま、置いてけぼりを食らっているシーラが「ねぇあたしに何!? なんなの!?」と叫んでいる。
ロイドがシーラにだけはバレたくない秘密。
そう、ロイドはシーラに片思いをしていた。ふた月ほど前からだろうか。
ロイドがシーラを好きだということに気づいていないのはシーラ本人だけで、他の三人には公然の事であった。
そんなロイドの恋を、アイリスを筆頭に三人は時々相談を受けるなどして、彼らは密かに応援をしていた。
「大体君らは落ち着きがないんだよ! もう少し自分の姿を見つめ直したらどうだ!?」
「今のおめえだって十分落ち着きがないだろ! 人のことを言う前に自分のことを見ような秀才のロイドさんよ!」
「ねえ何!? みんなはあたしに何を隠してるの!? これ仲間はずれ!?」
「そもそも私だって風邪くらいひくわよ! すぐ治るだけで、ひくから! ひくから!」
ギャアギャアと騒々しい声が教室中に響き渡り、迷惑極まりない状態となっているものの、しかし他の学生たちも慣れたもので「まーたやってるよあいつら」と、生暖かい視線を彼ら五人に向けるだけであった。
「喧嘩か!?」と心配されていたのも最初の頃だけで、今ではすっかり“美男美女だがどこか残念なグループ”の名物として見られるようになっていた。
暗くなっていたアイリスも、四人の喧騒を見て今はクスクスと笑っている。
そして教室に講師が入って来たことに気付くと、四人を止めるために口を開く。
……その講師すら彼らを見ても、もう「あら、今日も変わらず元気ね」としか思っておらず、すっかり慣れてしまっていた。
「ほらほら、みんなそこまで。もうすぐ講義始まっちゃうよ」
シオンとエリックの喧嘩は、ブルーになっていた自分を励ますものだということを、アイリスは理解していた。
シオンのことで過保護になりすぎて暗くなってしまうアイリスを、自分はこんなに元気だよと見せつけることで、シオンはその暗さを取り払おうとしていたのだ。
いささか、その手段がオーバーかつ騒がしすぎる気がするのは置いておくとして。途中からは肝心の目的を忘れた、単なる喧騒だったような気がするのも、置いておくとして。
彼ら五人はこうして互いを口悪く言うこともあるが、しかし信頼し合い励まし合い、互いに笑い合える、友人関係における理想の一つとも言える五人であった。
だから彼らはこうして、遠慮のない関係を築いていられる。
いくら仲が良いとはいえ、男も含めた友人五人で女の家に泊まり込んで酒盛りなどしているところに、彼らの信頼関係が見て取れるだろう。……もちろん、彼らの友情が壊れるようなことは何一つなかった。ありません。
アイリスの声で騒ぐのをやめた四人が、大人しく席につく。
流石に講義の途中で騒ぐようなことは彼らもしない。誰だって落第はしたくないのである。
「それでは講義を始めます」という講師の声と共に、今日最初の講義が始まった。