0-プロローグ2
大きな部屋に、男が一人。
聖職者の衣装に身を包む、長身の男。
彼は部屋の中心から少し離れた場所に立ち、何ごとかを呟いている。
彼は奇妙な男だった。初老と言うべき老人のようにも、未だ若い青年のようにも見え、まるで常に存在の輪郭がゆらめいている火のような。そんな妖しげな雰囲気を醸し出している。
しかし何よりも際立っているのは、彼の顔半分を覆っている仮面と、今この時も延々と血を流し続ける聖痕だった。
その二つが、この男の異様さを何よりも際立たせているであろうことは、誰が見ても明らかだろう。
彼の顔の左半分を覆っている仮面は、臙脂色の涙を流しながら静かに泣いているという女の仮面だ。それが、彼の顔を左半分隠している。
彼女は何に泣いているのか。悲しいことがあったのか、ならば何に悲しんでいるのか。
それとも嘆いているのか。まさか嬉しくて泣いているわけではないだろう、これは明らかに悲嘆の様相である。
そしてその仮面とは対照的に、彼の顔の右半分は笑っていた。
喜んでいる。
いたずらが成功した子供のように。
恋が成就した少年のように。
嬉しいのだろう。ニコニコとしたその笑顔からは、嬉しいという彼の気持ちが溢れている。
服装を見る限り、彼は神父であるのだろう。しかし、様々な違和や異様さが彼を彩り、彼が神に仕えているようにはとても見えなかった。
「あぁ……嬉しいですねぇ、喜ばしいですねぇ。これでまた一つ、生け贄の聖餐が捧げられました。寿ぎましょう。謳いましょう。貴女の尊い命は、決して無価値なものではなかったのです。素晴らしい!」
彼は今も、両の手の甲に刻まれた赤い聖痕から血を垂れ流し続けている。そしてそれが、何よりも恐ろしかった。
なぜなら、床が血で埋め尽くされているからだ。つまり、この血はずっと流されていたということになる。そう、四方三十メートルはあるだろうこの部屋の床を埋め尽くすほどに、ずっと。
夥しいほどの、血の量。
壁に飛び散っている血もすべて彼のものであるとするなら、いったい彼はどれほどの血を体外に放出したのか。
そしてそれほどの血を流しているにも関わらず、なぜ彼は生気溢れる顔でこれほどまでに気力に満ち満ちているのか。
いったいどれほどの血が彼の体には流れているのか。
分からないがしかし、彼が普通の人間ではないということは、誰の目から見ても明らかだろう。
異常性とは、一目見ただけで分かるほど凡庸からはかけ離れているからこそ、普通と違いすぎることなのだから。
しかし彼は、そんなことなど気にもとめていないという風に、血を流す両の手を掲げながら、失われた命へと祈りを捧げていた。
「えんえくとぅな、えるくとぅな。
たーてすやーけす。けあえるとぅな。
えんてくとぅな、えあるとぅな。
たーてすやーけす。けとぅるえるな。
貴女が無事に天の郷里へ昇れるよう、犠牲となるその命が、無駄となることなど無いように。私はここに誓いましょう。ですから、貴女は安心して――」
それはどこの国の言葉でもない、誰も聞いたことのない、現世のものとはまったく異なる祈りだ。
いったい彼はどこの、そしてなんの教えを戴く神父であるのか。如何なる教義を守り、説く者であるのか。
それはいつか明かされるだろう。
だが、ことこの現状では、重要なことはそこではない。
彼が朗々と垂れ流した祈りがこの星の如何なる言葉でもないというなら、彼以外にその祈りを読み取ることはできないのだ。
つまり、彼が何をしているのかが分からない。何を言っているのか分からないから、この場での目的も何も分からない。
ここにもし第三者がいたならば、この場の光景は邪教の儀式としかその目には映らないだろう。事実として、これは邪教の儀式であるのだろうが。
祈り終えた神父は、少女の魂へと言葉をかける。
穏やかな目つきで、優しく語りかけている。
その犠牲を無駄にはしない、安心して天へと昇りなさい、と。犠牲にしたのはそちらだろうに、どの口が言っているのかという話ではあるが……ともかく、神父は子を諭す父のような穏やかさで少女の魂へと語りかけている。
その顔つきだけを見るなら、なるほど彼は聖人だろう。聖職に就いているのも頷ける清さである。
ならば彼は、その教えと祈りで、少女の眠りを祝福し、せめて安らかにと命への礼を尽くしているのだろうか?
――否である。
「――――我らが偉大なるαe▽kgυの慰めとなり、愉しませ、永き暇を潰す玩具となるがいいでしょう」
彼は先程までとはうって変わり、恐ろしいほどにその口元を歪ませ、悪魔のごとき笑みを浮かべながら、神父は悪なる祈りを捧げる。
使い捨てになどしない。少女の魂はその一片にいたるまで決して無駄遣いになどしないのだと、犠牲者の魂を陵辱する最悪の言葉。
それは、聖なる祝福にあらず。この世の混沌を拝する背徳の使徒だけが紡ぐことの出来る、暗黒の祝福である。
彼は神父。しかし、正しい者では絶対にないのだ。
彼は悪なる者。血と狂気と邪悪の歯車に魅入ってしまった、邪神父であるのだから。
そんな者が吐く言葉が清らかなものであるはずもなく、命への礼儀など知りもしない最低の人間なことは明白だ。
彼が捧げた少女の魂は、これから永遠に安らぐことなく、βpmaζgの眠りを慰撫する人柱の一つとなるのだ。それが眠りから目を覚ますまで、永遠に解放されずに――。
「さて、さて」
少女のことなど忘れたかのように彼は表情をもとに戻す。
掲げていた手を下ろし、彼は部屋の中心、そこに浮かぶ一つの宝玉を見る。
それは、鈍い輝きを放つ神秘の王翠。
それは、彼の天へ続く門を開く大いなる鍵。
門へと至る道をつくるための至宝。
彼が今、全てを捧げた奉じているものに他ならない。
生け贄の血で濁るたびに、輝きを失っていくごとに、その本来の機能を取り戻すのだ。
「では、さて」
彼は部屋をぐるりと見渡して。
宝玉に照らされた血しか見えないその部屋に、満足し。
「三人目の血は捧げられました。これで残りは、あといくつか――」
もう一度、王翠の輝きを目にして。
「よろしい」
何かを納得したかのように、頷く。
「次なる犠牲はどうなるか。これまで通り、さしたる障害もなく命と肉を散華させるか。はたまた、阻む試練となりえるか。はて、さて」
「しかしやはり、そう上手くは行かないでしょう。怖い者たちも動いている。彼ら彼女らが、私と我らを阻むべく、剣と腕を振るい、我らの前に聳え立つ、高き壁となるでしょう。
しかし」
「しかしそれでこそ。それでこそ、祈りはより純度を高め、私の努力は報われることでしょう。より大きく膨らんだ歓喜とともに、喜びの日を迎えるでしょう!」
彼はその右顔を笑顔で満たしながら一人、赤く染まった部屋で叫び続ける。
彼が拝するもののために、彼はどこまでも純粋に邪悪を振りまくのだろう。
邪悪な神父は高らかに。焦がれ、熱に浮かされて。
上気した顔に、狂気を貼り付けて。
いつまでもいつまでも、その手から血を流し続けながら。
「さあ、ご観客の皆様! どうかご静観とご静聴を!
我ら彼らの運命劇をどうかご観覧ください!
この劇は、筋書きなんてございませんが。私と彼と彼女と貴方と、生きた脚本を描きましょう!
退屈ならば席を立ち、見所あれば役者演者に拍手と笑顔を!
しかし静かに、お静かに。どうかどうか、お静かに――。
では、では」
「はじ、まり。はじ、まり」
邪教の神父は腰を折り、誰もいないたった一人の舞台の上で。
無人の観客へと、頭を下げて、綺麗に綺麗にお辞儀する。