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名無し人形劇  作者: 冷やしヌードル
第一章 はじまり
1/6

0-プロローグ1

 一つの人影が夜の街中を走っている。必死に腕を振って、足を交互に動かして。

 走っているのは女だ。

 まだ若い。少女の域を抜け出ていない、おそらくは何処かの学院の生徒なのだろう。

 少女はとても焦っているようだった。

 事実、焦っているのだろう。その顔は恐怖にゆがみ、目からは涙をぽろぽろと落としている。

 持っていた鞄はとっくの前に放り投げてしまっていた。お金や大切なものも中に入っていたけど、そんなことはどうでもいいと思えるほど、今の彼女には他のことを考える余裕がない。


「はぁ……はぁ、はぁっ……!」


 彼女は全速力で走っている。

 今までの人生で、間違いなく一番走っている。

 息は乱れて、胸が苦しい。

 足はすでに疲労困憊で、あと少し走ればもう倒れてしまいそうだった。

 だけど、決して足を止めるわけにはいかなかった。疲れ切った体に鞭を打って、彼女は走り続ける。

 地を蹴って、地を蹴って、蹴り続ける。

 どうしてこんなことになったのか、いつから走り続けているのか、もう彼女にも分からない。ただ分かっていることは、自分の身に危険が迫っているということだけ。

 走らなければならない。ずっと、この夜が終わるまで。

 走り続けなければならない。ずっと、逃げることが出来るまで。

 なぜか人気(ひとけ)全くない(・・・・)街を走りながら――。


「ぜっ、はっ……はぁ……!」


 もう自分が何処を走っているのかすら分からない。ここは自分が住んでいる街の何処でもない、全く見知らぬ場所なのだということは頭のどこかで分かっていても、それをきちんと認識することが出来ない。

 今はただ、逃げることに必死なのだ。

 そんな彼女を、明かりを灯さない街灯がまるでせせら笑うかのごとく見下ろしている。

 街灯は、彼女の道を照らさない。


(いつまで、走らなきゃならないの……!?)


 限界だ。倒れてしまいたい。

 今すぐベッドの中にダイブしてもいいのなら、それはなんという幸福だろう。今すぐ願いが一つなんでも叶うなら、絶対に彼女はそう願うに違いない。

 死の恐怖。

 生まれて初めて味わう、死ぬかもしれないという恐怖。その恐ろしさから逃げ出せるなら、どんなことでもするだろう。彼女は今、まさにそんな心境だった。

 だけどいくら願っても、足を止めてはならない理由があった。

 走り続けなければならない理由があった。


 ――――背後から何か(・・)が迫って来ている。


 ずっと。ずっと。

 いつまでも。いつまでも。

 走っても走っても走っても走っても。

 背後にへばりついて離れない。

 べたべたと音を立てながら、それは彼女(えもの)を追っている。

 人間の足音ではない。人は、こんな足音を出さない。

 少なくとも、少女は今までこんな足音を聞いたことはなかった。

 幸いなのは、その足は速くないということだろう。少女が逃げ続けることの出来る程度の速度だ。決して足は速くない。

 少女の体力が無尽蔵なら、いつまでも逃げることができるだろう。――しかし、少女の運動能力は凡庸だ。今は極限状態でいつも以上の体力を発揮しているが、いつまでも続くわけはない。

 だが、これ(・・)はいつまでも追い続けてくるのだ。それ(・・)に疲れという概念はないから。どれだけ走っても、走っても。

 だから、ずっとずっと離れない。

 女が諦めるまで。獲物が倒れるまで。

 それは決して、追うことをやめない。

 この夜からどうにか脱出しない限り、彼女はそれ(・・)から逃げられない。

 ――――より長く恐怖を味わうという意味では、幸いでは全くないのかもしれなかった。


 少女は走る。

 走り続ける。

 石畳の道を。

 満月の夜を。

 暗い世界を。


 もう、逃げ場など何処にも無いことに気づかないまま。

 もう、逃れ出る(すべ)など無いことを知らないまま。


 ――もう、振り向いてしまいたい。

 本当はとっくに撒けたのではないか?

 本当は背後には何もいないのではないか?

 私の恐怖が、後ろから何かが追いかけて来ているという幻を生み出しているだけなのではないか?

 だから、止まって後ろを振り向いても大丈夫。そこには何もいないから、安心して、ほっと息をついて。家に帰っても大丈夫なのではないか?

 ……そんな希望に、縋り付きたかった。

 でも嫌だ。止まりたくない。

 悪い予感が次々と溢れてくる。

 止まったら、私はいなくなってしまう――。

 そんな予感が、さっきからずっとしている。


 だから、彼女は止まらずに走り続けている。


(死にたくない死にたくない死にたくない、死にたく……っ!)


 だけど。


「あっ…………」


 かくんと、足が曲がった。

 足が止まる。

 限界が来たのだ。少女の力が底をつき、もう走れないのだと足が悲鳴を上げている。

 それも当然だろう。

 まだ少女というべき年齢の女が、休憩もなしにいつまでも走り続けていられるわけがない。

 走ることに慣れているならまだしも、彼女は残念ながらそうではない。

 加え、背後から何かが追ってくるという恐怖、追いつかれたらどうなるか分からないという恐怖、一人ぼっちだという恐怖、明かりが無いという恐怖。様々な恐怖が精神的にも大きな負担をかけていた。身体も心も、疲れ切ってしまったのだ。

 しかしむしろ、ここまでよく走ったと慰めるべきなのであろう。どのくらい走ったのか、彼女にも分からないほど逃げていたのだから。


 足が曲がった勢いのまま、彼女は前のめりに転げてしまう。バタンと、彼女は倒れた。

 立てない。

 もう足が、ピクリとも自分の意思で動かせない。動いてもくれない。

 もう走って逃げることは出来ない。

 だけどそれでも、死にたくないから。

 生きて帰りたいから。

 なんでもない顔で、ただいまって言いたいから。

 足が駄目なら這ってでも、ここから逃げてやるのだと、彼女は手を動かしてズリズリと体を前に進めようとする。


 ――ぺた


 そんな彼女を嘲笑うかのように。

 彼女の後ろから、音がする。


 ――ぺた ぺた


 (――嫌、近づいてる、これ、いや)


 ――ぺた ぺた ぺたぺた ぺた


 音は近づいてくる。どんどん、一歩ずつ、少しずつ。

 少女がこけたからだろうか。音が近づいてくる速さは、さっきまでよりも遅くなっている。

 まるで、少女に恐怖をより与えているかのように。

 舌舐めずりをした猛獣が、獲物を食らう前にいたぶって遊ぶかのような空白の時間。

 それが少女にはどうしようもなく耐えられなくて、これ以上はもう駄目だったから。

 だから、彼女はとうとう後ろを振り返って――。







 彼女が最後に見た光景は、腐臭漂う暗闇と、そこに鋭く生えている大きな牙だった。

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