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あなたの名前を呼びたくて

作者: 遊木愉生






桜が散り始めた。


つい先日まで天を桃色に染め上げていたというのに。

儚いという言葉が本当によく似合う。

突然の強い風に脆くなった花弁が舞い遊ぶ。

正に花吹雪だ。


はらりはらり、ひらりひらり。


外国からの観光客は嬉しそうにカメラを構える。

確かに綺麗だし、この一瞬を写したいその気持ちは分かるが、こちらは貴重な昼休みの時間なのだ。

あまり邪魔はしないでほしい。


パン屋から出て拙い英語でソーリー、ソーリーと手刀を切りながらカメラの前を突っ切る。


会社に戻り、デスクにつくとキーボードに紙が乗っていた。


『19時30分《鍋蔵》集合。遅刻厳禁』


─あぁ、そうか、忘れてた。


今日は社長の思い付きで開催される親睦会があるのだった。


ちなみにこの《鍋蔵》は社長の知り合いの店だ。

この店を利用するときは、社長が全額支払いをしてくれるので、嫌々ながらにも食事代を浮かせる為に参加する社員が多い。

沖田葉菜子もその一人。


葉菜子はパンを頬張りながら、隣の机の島に座る巽伸太郎の横顔を見た。

前を見れば、嫌でも視界に入ってきてしまう。


─巽くんは参加するのかな。


と思う。


彼はパソコンに几帳面すぎるほど丁寧に千鳥柄の布をかけ、いつものように手作りのお握りを食べている。



まるで、浮世絵に出てきそうな、切れ長の目に白い肌。

言われた事を淡々と完璧にこなして帰宅。

無駄口も叩かないし、全く笑わない。

そもそも誰かと仕事以外で話をしている所を見たことがないのだ。

たまに電車で見かけるが、その時は真剣に本を読んでいる。


猫背でのそのそと歩き、耳や目にかかる真っ黒い髪はいつも寝癖がついている。

全身が黒いスーツなんか着ればまるでヒジキだろう。

ついヒジキと呼んでしまいそうになる。


─おい、ヒジキくん。


これは悪口ではないぞ。


ウェブ管理部の彼は常に社内での仕事だ。

だからなのか、もしくは、元々がそういう性格なのだろうか分からないが、コミュニケーションには気を使っていない。

彼はとても変わった人なのだ。

人に寄り付こうとしないが、人が寄り付いてもこない。


しかし、そんな彼のファッションは葉菜子好みだった。

シャツにネクタイ、ベストといったシンプルな組み合わせだが、長身の彼はとてもスマートに着こなし、誰よりも似合う。

色の組み合わせも良いし、持っている鞄も靴もセンスが良い。

しかし、それ以外は特に何にもないし、何とも思わない。


巽伸太郎はもそもそと食べ終わると、湯気の立つお茶を飲んで「ほう」と息を吐いた。


─うん、29歳なのにおやじ臭いな。

と改めて思う。


今年で30歳となる巽伸太郎は葉菜子より4つ年下のはずだが、どうも行動が年よりじみている。


それは親睦会の最中でも同じ事だった。

彼は同じ部所である、田所と日内からも離れ、申し訳なさそうに背中を丸めて、ボイルした海老のような姿で鍋をつついていた。

今まさに鍋から出てきたようだ。


同じテーブルに座る営業部の人間と話をするが、彼の無愛想さに相手が苦笑いをしてそれで終了。


経理部の葉菜子はいつも本物のおやじ達に囲まれているので、その時は仲の良い営業部の小山和枝と一原美緒と鍋を楽しんだ。


「巽くんていつも一人だよね」と言ったのは和枝。

そして「私、ああいうタイプ苦手だわ」と付け加えると美緒も頷いた。

その表情に苦手以上の嫌悪感を感じる。


その後、きっと友達はいないだろうとか、彼女いない歴イコール年齢だとか彼の噂話をしていたが、葉菜子は巽伸太郎の陰口を聞きたくなかったので話には加わらなかった。

彼を好いているわけではない。

単に人の陰口は気分が滅入るのだ。


例の如く支払いは社長もちで一同は解散したが、社長を見送ったあと営業部の広尾友成が二次会だと手当たり次第に誘い出した。

腹は満たされて苦痛から解放された同僚たちは、ひゃっほーい、と叫ぶ。


─現金な奴らよ。


どうやらいきつけのクラブに行くようだ。

クラブなんて10年ぶりなので少し気後れしたものの、参加してみる事にする。

広尾友成たち数人に誘われ、和枝と美緒、3人で横になりながらクラブへと向かう。

合計で7人だ。

その時に気が付いた。


「あれ、巽くんじゃない?」と和枝が言ったのだ。

確かに彼だった。

まさか、地味街道の案内人のような彼がクラブへ行くとは思わなかった。

いや、もしかしたら自分達が知らないだけで、夜はガンガン躍りに出掛けるのかもしれない。


頭をふりふり、腰をくねくね。


─うーん。想像できない。


そう。

想像できないのだ。

クラブに行ってはいけない理由などないが。

彼に限ってまさか、という思いがあった。


─うーん、レアだな。いいものが見れるかも。

と少しどきどきした。


しかし、様子がおかしい。

広尾友成に肩を抱かれている巽伸太郎はいつもの猫背が酷い。

もう顔面が地面に付きそうだ。


─鼻を擦りむくぞ。


少し言い過ぎた。

しかし、どうも無理矢理な感じが滲み出ている。

滲み出すぎて巽伸太郎の姿が濁って見えるくらいだ。


─そういう事か。広尾友成たちに無理強いされたのか。おいおい、良い年して何やってんだよ。


自己主張が苦手な巽伸太郎に断れる訳がないのを分かっていての事だ。


巽伸太郎の背後には、何を考えているのか分からない西島博也が歩いている。

葉菜子の彼氏だ。

止めてやりなよと思うが、そこまでして巽伸太郎を庇う理由などない。


なんとなく、気持ちが落ち着かないままクラブへと到着した。

薄暗く怪しい青や白の電飾が光る。

腹の底に響く低音と頭の中に侵入してくる笑い声。

ハッピーハッピーフライデーナイトだ。


ああ、こんな感じだったなと記憶が甦ってくる。


「葉菜とクラブなんて初めてだね。はぐれないように」と西島博也が手を握ってきた。


「あと、変な男に連れていかれないように」


まぁまぁ、私はそんなに柔じゃないわよ。

私もう34よ。さんじゅうし。


しかし、しおらしく微笑んでみる。


─どう?上手く微笑んでる?


今時、社内恋愛禁止という古くさい規則を無視して二人の仲はこのメンバーでは公認されているので堂々とできる。

乾杯すると適当に時間を楽しんだ。

そのうち広尾友成が抜けてダンスフロアへと消えて行き、いつのまにか美緒と和枝もその人混みの中へ消えて行った。

程よくアルコールが体内を巡り、気もちが良くなってきた。


ターンテーブルを器用に操るDJがオーディエンスを煽り、フロアがそれに乗じて沸き上がったのに対して、葉菜子は少し冷静になってしまった。

昔なら彼らに紛れてほいほいと楽しんでいたのだろうか。


壁に凭れていると、西島博也が葉菜子に覆い被さるようにして、顔を近付けてきた。

側に巽伸太郎がいるのもお構い無しに、キスをしてきた。

軽く終わらせるのかと思っていたら、なかなか離れてくれず、ついには胸に手を這わせてきたので、葉菜子が西島博也を押して強制的に終わらせた。


「怒ってる?」と聞いてきたが、答えるのが馬鹿馬鹿しかったので、西島博也の手を取って、ダンスフロアに向かった。


ちらりと後方を見ると、巽伸太郎がフロアの角にある小さなテーブルで鞄のベルトをしっかりと両手で握り、肩を竦めて周りから少しでも距離を置こうと壁にへばりつくようにして立っていた。


─あはは、可哀想に。


その時、巽伸太郎と目が合った。

なんだか、悲しそうな表情をしていたが、すぐに顔を伏せる。


「巽。居心地悪いなら帰ればいいのに」と背後から腕を回してきた西島博也が耳元で言う。


「あなた達が無理矢理連れて来たんじゃないの」


「断るかと思ったんだけどな」と馬鹿にしたように笑う。


「肩とか組まれて強制的に見えたけど?こんな場所に連れてこられてさぁ。巽くん、なんだか可哀想だよ」


「あいつに同情?」


「あなた達が彼をどう思ってるか知らないけど、私は巽くんの事は嫌いじゃないよ。こんな事するなんて意地悪だよ」


西島博也が葉菜子の正面に回ってきて頸を捻る。


「おいおい、俺たち付き合ってるんだぜ?彼氏の前でそんな事言う?」


「大したことじゃないでしょ。子供じゃあるまいし」


西島博也は甘えるようにして葉菜子の腰に手をまわすと、ぐっと引き寄せ、力強く唇を合わせて来た。


「ちょっと!」と無理矢理離れる。


「ど、どうしたのさっきから」


西島博也は自分の口に人差し指を当てて合図をした。


─いやいや、こんな騒がしい所でやるジェスチャーじゃないでしょ。


そして、もっと激しく唇を当ててくる。

その瞬間、西島博也の視線が背後に向いた気がした。


「ああ、もう!意味分からないことしないでよ。私が人前でこういう事するの嫌いなの知ってるでしょ?」


そう言って肩を叩くと不満そうに唇を尖らせた。


「なんだか疲れちゃった」と大して疲れていないがそう言った。

彼の慣れない甘えに戸惑ってしまったのだ。


「もう?全然踊ってないじゃん」


「もうね、私は若くないの」


「俺と同い年だよ?」


「そんなの関係ない。──向こうでお酒飲んでるよ」そう言って西島博也の腕からするりと抜けた。


葉菜子は巽伸太郎のいるテーブルへ戻る。

彼は相変わらずの体勢で強ばっていた。


「巽くん。踊らないの?」と答えは分かっているのに質問してみる。


彼は何か言ったが爆音で聞こえない。

口をパクパク。


「へ?」と彼に近寄る。


「ぼ、僕はこんな所は苦手でして」と声を張らずに言った。


あぁ。と頷く。


─あ、そう。やっぱり?


「は─あ、沖田さんは?」


「もうね、私は雰囲気だけで疲れちゃったんだ」


この爆音で体力が奪われる気がする。

こんな状況で踊ってしまえば、数分後には蛇の脱け殻のように、へろへろのぺろぺろになってしまうだろう。

そうなれば夜風に乗って帰ろう。


「こっちでお酒飲んでる方がいいよ」と言ったところで気が付いた。


アルコールがない。

買ってこなきゃ、と思った時だった。


「僕、買ってきます」と巽伸太郎が無表情で言った。


「いいよ。自分のものは自分で買えるし」


巽伸太郎は隣のテーブルをちらりと見た。

そのカップルの男性の方が女性にアルコールを渡していたのだ。


─あぁ。なるほど。他の人達を見て学んだのね。


「じゃあ。お願いしようかな」


その言葉に嬉しそうに笑う。


─なんだ。笑えるんじゃない。


「何がよろしいでしょうか?」


「きみに任せる。巽くんが飲みたいものでいいよ。同じものでいい」


「──かしこまりました」と頭を下げる巽伸太郎。


きみは執事か。

質実な執事か。

服装も折り目正しくきっちりとしているので、執事のようにも見えてくる。


「では、しばしの間お待ち下さい」と髪を耳にかけバーカウンターへと向かう後ろ姿を見て思う。


─可愛いところあるじゃない。


しかし大丈夫だろうか。

バーカウンターはバーゲンセールよろしく常に込み合っている。

憮然と勇敢に飛び込まなければ、すぐに弾き出されるか順番を割り込まれるかだ。


鞄を預かればよかっただろうか、と一瞬考えたがもう遅い。

巽伸太郎は人だかりの最後尾で律儀に順番を待っている。


こりゃ飲み物にありつけるのは日付が変わっても無理かもな。と苦笑い。

鞄の紐をしっかり掴んでいる健気な姿は、一人だけ別世界にいるみたいで、少し可笑しく微笑ましい。


「葉菜」と西島博也がテーブルに戻ってきた。

いつの間に購入したのか、両手にはビールを持っており片方を葉菜子に突き出してきた。

葉菜子はバーカウンターに並び続ける巽伸太郎をちらりと見るとそれを受け取る。


「あいつが飲み物を買うのに何時間かかるか賭けようか」と馬鹿にしたように笑った。


「そんなのいいよ。つまらない」


葉菜子はビールを3分の1ほど飲んだ。


「帰ろうか」と西島博也が腰に手を回して抱き付くと首筋に唇を当ててきた。


「皆を置いて行くの?」


西島博也は小さく笑う。


「私、巽くんに飲み物頼んでるんだ」と言うと険しい表情を見せた。


「あいつに?何で」


「何でって。飲みたかったから。─ねぇ、巽くんの何がそんなに不満なの?」


西島博也は眉間に皺を寄せて巽を見た。


「地味だし、ぼそぼそと喋って気持ちが悪いじゃないか。話だって続かないんだぜ?私生活なんて知りたくないけどさ、ヤバいこと趣味にしてそうじゃね?」


「何よそれ。じぁ、誘わなきゃいいじゃない。意味分からない」


「本性を見たくて。ああいうタイプって、酒を飲んだりすると変わるんじゃないかなぁって」と意地悪に笑う。


「たちが悪い」と残りのビールを飲み干した。

巽伸太郎の様子を見ると、先程よりは少し進んだように見えたが、また最後尾に追いやられた。

それを見た西島博也は笑い「行こう」と葉菜子の手を取ってフロアを抜けて外へ飛び出した。






月曜日、いつものように昼食を買って戻ると美緒に呼び止められた。

慌ただしい様子を見ると今から出掛けるようだが「この前のクラブ、西島くんと先に帰ったでしょ」とにやつく。


「ああ、うん。ごめんね。何も言わないで」とあまり謝罪する気のないような態度で応える。


「いや、私たちはいいんだけど、巽くんがさ。すっごく困ってたよ。グラス両手に」と美緒が笑う。


─あ、そうだった。忘れてた。


葉菜子の脳裏に、グラスを両手に持って呆然と立ち尽くす巽伸太郎の姿が浮かんだ。


「私今から出掛けるから行くね」と美緒が背中を見せて去って行った。


─うーん。謝ろうか。しかし参った。完全に忘れてたよう。


コンビニの袋をデスクに置き、巽伸太郎を見る。

相変わらずの昼食風景だ。

葉菜子はコンビニの袋からデザートとして購入したプリンを取り出す。


「ねぇ、巽くん」


ゆっくりと葉菜子を見上げる巽伸太郎。


「なにか?」


─無愛想だなぁ。


「調子どう?」


訳もなく笑いかけてみる。

もちろん、愛想笑い。


「可もなく不可もなく」


─何だよ無愛想ひじき。


「この前はごめんね」


「この前─?僕、何かしました?」と目にかかる髪を耳にやる。


─おいおい、無愛想なうえ鈍感?


「いや、ほら。親睦会の帰り、皆でクラブ行ったでしょ?─まぁ、きみは無理矢理だったけど」と葉菜子は声を潜め、巽伸太郎の耳元に寄った。


「あんな場所に連れてこられて辛かったでしょ?」


「うふふ。初めての経験でしたので、勉強になりました」


「あの時、飲み物。──ごめんね」


─ここまで言えば分かるだろう?


葉菜子が姿勢を戻すと巽伸太郎は「は──ああ。うふふ」と笑った。

なんだか、能面の小面が脳裏に浮かぶ。


「何も言わないで帰ってごめんね」


「いいえ。構いません。遅くなった僕が悪いのです」


「ちゃんと買えたの?」


「えぇ。少し時間がかかってしまいましたが」と言ってうふふと笑った。


意外とよく笑うのだなぁと思った。

あまり、話している姿をみかけないので、気がつかなかっただけだろうか。


「その後どうしたの?」と聞くと「2杯とも飲ませていただきました」と平然と答える。


「お酒飲めるんだ」


「えぇまぁ。強い方です」と再びうふふと笑う巽伸太郎の目の前にプリンを出した。


きょとんとする巽伸太郎。


「プリン?」


「そう、正解。プリン。これ、あげる。お詫びのしるし。甘いもの嫌い?」


「いいえ。でも、これは─」と何か言いたげな巽伸太郎の言葉を遮る。


「じゃあ食べて。本当にごめんね」


葉菜子は再び巽伸太郎に笑いかけると、そそくさと席へと戻った。

それと同時に携帯がなる。

西島博也からのメールだった。


『あいつに何あげたの?』


─ああ、見てたんだ。面倒臭い所みられちゃったな。


西島博也は人事部である。

一つのフロアの端に人事部、葉菜子のいる経理部と並び、その隣にウェブ管理部のある技術部が配置されている。


『プリンだけど』と返信。

背中に重い視線を感じて振り返ると、西島博也がこちらを見ていた。

今から外食するのだろう。

ジャケットを羽織っている。


『葉菜の大好きなプリン?いつも食べてるやつ』


葉菜子が面倒臭くなって直接頷くと、西島博也は巽伸太郎のデスクを覗いてこう言った。


「美味そうだな。そのプリン」


巽伸太郎は「ん?」と顔を上げる。

手には使い捨てのプラスチックスプーン。

西島博也は鼻で笑うとその場から去った。

巽伸太郎が不思議そうにゆっくりとこちらを見たので、葉菜子は肩を竦めてみせた。


─何だよ、嫉妬か?巽伸太郎に?笑わせないでよね。






休みの日は大概、西島博也と過ごすが、今日は彼が同級生の結婚式に出席するため帰郷しており暇だった。


結婚か。と一人で溜め息をもらす。


もうそろそろ良いのではないかと思う反面、相手の顔が浮かばない。

当然、該当者は現在付き合っている西島博也となるのだろうが、しっくりこない。

だからと言って彼とは見切りをつけて違う人を探そうとも思わない。


自分には結婚願望がないんだろうな。と思う葉菜子。


長い間、彼氏がいない和枝と美緒は「贅沢な事を言うな」と口を揃える。


実を言えばプロポーズを受けたが返事はしていない。

まだ考えられない。

しかしこの人を逃すともう無理だろう。

果たしてそんな理由で結婚を決めてもいいものか。


葉菜子は頭を振って余計な思考を弾き飛ばした。

実際にはそんな行為で弾き飛ぶことはない。

もしそんな事ができたなら葉菜子はフワリフワリと舞う綿毛のような人生を送れたろうと思う。


家事を済ませてマンションを出た。

風が肩にかかる髪を靡かせる。


近所にある公園を突っ切って駅に向かう。

普段は買い物だけで電車に乗って出掛けたりはしないのだが、なんとなくそんな気分になったのだ。

特に欲しい物はないが市内に出る事にした。

ちなみに賑わう市内は好きではない。

煩くて混んでいるからだ。

だから葉菜子が市内に出る時は裏道や、大通りから離れた路地にある古書店や雑貨屋などを散策する。

しかし、最近その路地裏にも人の目が進入してきた。

雑誌などでこぞって『秘密基地』などと取り上げられておりとても迷惑している。


休日ともなると人は多い。

予想していたがやはり人の多さに疲れてくる。


まったく。暇な奴らだな。と自分を棚に上げる。

棚に上がったことはないが。


いつも寄る店でピアス、違う店で春らしいスカートを購入すると気分が上がってきた。

時間はお昼になるところだったのでお気に入りのピザ屋へと向かう。

1人でも気兼ねすることなくのんびりと過ごせるピザの専門店だ。

葉菜子がこの店を気に入っている理由は雑誌の取材を断り続けているからだ。


─隠れた名店は隠れてなきゃ。


この曲がり角を折れれば直ぐという路地裏。

少し先の道の端に大きな黒い塊が見えた。

何だろうと目を凝らすと、それは屈んでいる人間だった。

ぬうっと立ち上がる紺色の着流し姿。

その視線はショーケースの中を見てそらさない。

よほど欲しい物があるのだろう、顎に手を当てていた。


すらりと背が高く、猫背で目や耳にかかる程に伸びている黒い髪には寝癖がついている。


まるで巽伸太郎じゃない。と思って気が付く。


─あれ。巽くんだ。


葉菜子は買い物袋を落としそうになった。


─な、なに?あの人の私服って和装なの?


巽伸太郎は真剣にショーケースの中を見ている。

何が入っているのか気になったのでこっそり覗いてみる事にした。

巽伸太郎は葉菜子が近付いても、こちらに気付きもせずショーケースの中にくぎ付けだ。


西島博也の言葉を思い出して少女の人形ではないだろうなと思った。

もちろん冗談で。

しかし、少しびくびくして盗み見るとそこにあったのは。

変態趣味のものではなかった。


─なに?鉢?


鉢だった。

30センチほどの艶のある紺色のそれには、横に8千円の値札が置かれていた。


─は、8千円の鉢?こいつ、こんなの何に使うんだ?ハチハチ?


葉菜子が巽伸太郎の後ろについた時、彼は腕を組んで頸を傾げた。


─よほど欲しいのか。鉢が。


─気付けよ、私に。


葉菜子は呆れて巽伸太郎の背後を抜けてピザ屋へと入った。


昼時だが混雑しておらず1時間程で店を出る事ができた。


まだあの場所にいたりして、と思ったがさすがに去って行ったようだ。

ちなみに8千円の鉢も消えていた。


何屋なのかを確認したかったが店じまいをしたらしく、看板もないし扉も閉められていた。




就寝前に西島博也から電話がかかってきた。


『今日は何してたの?』


「ふらふらと。買い物しに市内まで出たよ」


『そうなんだ。珍しい。何を買ったの?』


「ピアスとスカート」


『一人で?』


─ああ、何だか面倒臭い会話だな。そんな事、どうでもいいじゃん。


「もちろん一人だよ。あ、そういえば」


『どうしたの?』


「巽くんを見掛けたの。なんか8千円もする鉢を買ってたよ。すごいよね、何に使うんだろう。ハチハチだよ」


あの時の巽伸太郎の姿を思い浮かべてニヤニヤしてしまった。


─髪でも引っ張って驚かしてやればよかったかな。


『ハチハチ?何だよそれ。てか、そんなに大切な事を軽く報告?』


─8千円もする鉢でハチハチじゃないか。通じないか。


「8千円の鉢を買ったのは巽くんだよ」


『そうじゃなくて、巽に会った事だよ』


「そんなに大切な事じゃないと思うけど。別に一緒に買い物してたわけじゃないし。見かけただけだもん。よくあるでしょ?」と言いながらもよくある事ではないと自分で思った。


その時インターフォンが鳴った。


「あ、誰か来た。後でかけ直すね」と返事を聞かずに電話を切る。


時間を見れば午後10時。

怪しすぎる。


葉菜子は忍び足で玄関まで行くと、物音をたてないように注意を払いながら覗き穴から廊下を見た。


あらら、まさか。何で。と思いながら扉を開ける。


「どうしたの」と葉菜子が言うと西島博也は楽しそうに「びっくりした?」と言って玄関に入ってきた。


「結婚式は?」


「良い式だったよ」と決まり文句を言う。


「そうじゃなくて、帰り早くない?」


「2次会出なかったからね。披露宴が3時には終わったから。車で直ぐに帰ってきた。帰り早かったらまずいわけ?」


「そうじゃないよ」と葉菜子がリビングへと引き返すとついて来る。


何か飲むかと聞こうと思ったら、急に背後から両腕が伸びてきて身体を持っていかれた。


「俺達の結婚式はいつ?」と耳元で囁く西島博也。


そんな日は来ないかもね、と言いそうになったが懸命に飲み込んだ。


「なに煽られてるの」と拘束から抜け出すが腕を掴まれる。


「人の結婚式見て気分が高まっただけでしょ」


「返事いつになったら聞けるの?待たされるって事は望みあるわけ?」と葉菜子を真っ直ぐに見る。


「どうしたのよ真剣になって」


「俺は葉菜との事はいつでも真剣だ」


何だか笑けてきた。

頬が上がるのを必死に堪える。


─ごめん、ごめん。笑うとこじゃないよね。まったく、私ったら最低ね。


「別れたいの?」


─は?


「俺と別れたい?」


「そんなこと思ってないよ」


─あぁ、びっくりした。驚かさないでよ。


通勤電車の時刻が変わっている事を忘れて、それに気がついた時くらいに驚いた。


「じゃあ何で。俺とじゃ考えられないか?俺が、仕事辞めて独立するって言ったからか?」


そう。

西島博也は昔からの趣味だった、バイクショップをオープンさせる計画を立てていて、この度ようやく資金ができ、やっと一歩を踏み出せる段階まできたのだ。

それについてきてほしいと言われた。

別に、その先の事が不安なわけではない。


─じゃあ、何がこんなに引っ掛かるのかな。


「焦らせないで」と言いながら、何と返そうかと必死に言葉を探す。


「気になる奴がいるのか?」


「いないよ、そんな人は」


─何だろう。この不毛な会話。


「じゃあ何で待たせるんだ?もう2ヶ月も待ってるぜ」


「それって長いの?短いの?」


「わからないけど。不安だ」


滅多に弱音を吐かない西島博也の言葉とは思えなかった。

以前は他人の意見など気にしない、わが道を進む頼もしい性格だったのだが。


「私そんなに不安にさせてるかしら?」


西島博也がどっぷりと嵌まった嫉妬の沼から引きずり出してやろうと彼の襟元を掴んでやる。

もちろん想像の世界で。


「あなた以外に好きな人はいないよ」


今はこれで精一杯。

自分で言って恥ずかしくなる。

普段はこんな事言うタイプじゃないし。

女子高生の恋愛じゃないのっ。


「じゃあ何で」


「焦らせないでって言ったじゃない」と彼の腕に優しく触れる。


「一体何に渋ってる?俺との将来?俺が考えてるこれからの事が心配なのか?最初は苦労かけるかもしれないけど、俺を信じてほしい」


「そんなんじゃないってば。あなたの夢は素敵だし、叶えてほしいと思ってる。ちゃんと応援したいし」


「─じゃあ、やっぱり何か原因があるんじゃないか」


「じゃあ聞くけど、あなたは何でそんなに焦ってるの?お店は結婚しなくてもできるでしょ?むしろ、独身の方が身軽で気軽だと思うけど?」


「そんな事ない。俺は安心したいんだ。俺についてきてほしいんだ」


─もう。なかなか手強いわね。


「安心させてるって事が結婚になるなら、私は──」


頭の中で葉菜子は西島博也の襟元から手を放した。


「そんな理由で結婚はできない」


部屋の空気が固まる。

西島博也は目を伏せたまま動かなかった。






月曜日、西島博也と顔を合わせてもお互い無表情だった。


別れてはいない、喧嘩をしたわけでもない。

あの後、西島博也は無言で葉菜子の部屋から出ていった。


そのまま2週間の冷戦が続いたが、その状態に音をあげたのは西島博也だった。


土曜日の夕方、部屋に西島博也が訪れた。

玄関先で食い止めるように、扉は完全には開けなかった。


こういう場合、一般的なカップルはどんな会話をするのだろうか。

涙を流し、お互いの意固地を詫びるのだろうか。

とりあえず西島博也の第一声を待ってみる。


30秒経過。


自分の足先に視線をやっている。


1分経過。


2つ隣の住人が通り過ぎる。

軽く頭を下げて挨拶をする。


5分経過。


扉を押さえている葉菜子の指先を見ている。


10分経過。


2つ隣の住人が不思議そうにこちらを見ながら自分の部屋に戻る。


─まったく。何しにきたの。


こんなに弱気だったかしら?と不思議に思う。

このまま扉を閉めようか、西島博也を中に入れようかという選択肢が頭の中に駆け巡る。


扉を閉めると2人の関係は終わること間違いなし。

中へ入れると相手の思う壺。


未だに厄介な沼から出られていないのだ。

どうしたものかしらね、と気付かれないようにそっと息を吐く。


仕方がない。

葉菜子は再び西島博也の襟元を掴んだ。

もちろん、頭の中で。


「このままずっと突っ立ってるつもり?」


顔を上げた西島博也は少し気まずそうに視線をそらした。


「今──1人?」


何を言うのかと思ったら。


「そうだよ。入る?」


西島博也は急に嬉しそうな表情を見せると、大きく頷いたので葉菜子は扉を大きく開ける。

尻尾が付いていたら尻からブンブンと振っているだろう。


リビングに入ると「ごめん」と頭を下げた西島博也。


「何を謝ってるのかわからないけど」


「その─結婚の答えを迫ったこと」とおずおずと頭を上げる。

子犬のような瞳だ。

耳を下げてクーンと泣いている、ような表情。


─あぁ、もう。


「ご飯作るよ。食べるでしょ?」


それを聞くと笑顔を見せた西島博也は一晩中、まるで子供のように葉菜子から離れたがらなかった。


意味が分からなかった。


最近の西島博也の態度は以前とは全くと言っていいほど、違っており、戸惑ってしまう。

こんなに甘えてきたり、嫉妬を剥き出しにすることなんてなかった。

今は手に縄を巻かれ、行動範囲を決められているような息苦しさと、もどかしさがある。

以前ならば、電話のない日などしょっちゅうだったし、いきなり部屋へ訪ねてきて、様子を伺う事もなかった。

いくら昔からの夢だからといっても、将来の事で不安になるのは当然だ。

だからと言って、その不安を結婚で埋めてあげられるとは思えない。


付き合い始めた頃ならば、今より楽に考えられたのかもしれない。


─何を考えてるのか分からない。博也も、自分も。






通勤電車の中で巽伸太郎を見掛けた。

立ちながら吊革を持たず、真剣に本を読んでいる。

葉菜子の存在には気がついていない。


分厚くて表題には見たことのない漢字が書かれていた。

平仮名もあるので日本語で書かれているのだろうが、何だか小難しそうだ。

葉菜子も本が好きなので彼の読む本が気になる。

あえて真後ろに立ったが、それでも気が付かない。


─つまらん奴。


会社に到着し、西島博也がいない事を確認して巽伸太郎に話し掛ける。


「おはよう、巽くん」


巽伸太郎は自分でいれたお茶を飲んでいた。

いつものようにゆったりとした動作でこちらを見上げる。

うん、今日も背中は弧を描き寝癖も絶好調だ。


「おはようございます」


「お茶、おいしい?」


「えぇ、まぁ」


「そう。よかったね」と笑いかける。


「あ、飲みますか?」


「ううん。いらない。そうじゃないの」


巽伸太郎は怪訝な表情を見せる。


「では、何か用ですか?」


「用がなければ話しかけちゃいけないわけ?」


「いいえ、そういうわけではないですが」と出入口を頻りに気にする。


「あのね、今朝あなたをみかけたの。電車で」と言うと巽伸太郎はニヤリと笑った。

その笑顔にゾクッとする。

背中に何か這ってる感じ。

嫌だ嫌だ。

じゃあ話し掛けるなよと自分に突っ込む。


「あぁ、そうですか」


「ねぇ、何を読んでたの?すごく分厚かったけど」


再び「あぁ」と言うと湯呑みを丁寧にデスクへ置くと、鞄から今朝の本を出してきた。


「これです。うふふ」


本を葉菜子に渡す。


「あ、この作家知ってる。分厚いので有名だよね。新しいの?」


「いいえ、これは彼のデビュー作です」


「へぇ。読んだ事ないな。おもしろい?」


「はい。僕は大好きです。読んでみますか?何度も読んでいるのでお貸ししますよ」


「あれ、いいの?」


「えぇ、構いません」


「読むの遅いから返すの先になるかもよ?」


「構いませんよ」


「そう。ありがとう。じゃあ借りるね」


本を胸に抱えると巽伸太郎はニヤリと笑った。


─だから、そのゾクッとするような微笑み止めてよ。身の毛がよだつんだってば。


「あ、そうだ。巽くんって料理好きなの?」


突然の質問に頸を傾げる巽伸太郎。

何故こんな事を聞くのか疑問なのだろう。


「好きなわけではありませんが、自炊はしています」


「じゃあ、器に拘ったりするの?お茶碗とか湯飲み、ほら鉢とか」


巽伸太郎は質問の意図が分からないのか慎重に答える。


「いいえ。特に拘りはありません」


ふーん。と何度か意味も無く頷く。


─へぇ、そう。そうなんだ。ふーん。


「あの─それが何か?」


「いや、何でもないよ」と言ったところで西島博也が出社してきた。

彼は会話をする2人を不機嫌な表情でちらりと見ただけで、自分のデスクへついた。





巽伸太郎から借りた本はおもしろく、葉菜子としては異例の1週間という早さで読み終えた。

予想では2週間はかかると思っていたのだが、先が気になり少しの時間が有れば頁を捲っていたのだ。


昼休みに巽伸太郎の元へ行く。


「これ、ありがとう。すっごく面白くて意外と早く読み終えたよ。昨日は最後まで読みたくて、2時まで起きてたから寝不足だわ」


おにぎりを食べ終えた巽伸太郎は今日も緑茶でほっこりしている。

隠居した老人のように見えてくる。

縁側の先には庭が見える。

池なんかもあったりして。


「そうですか。それは良かったです。うふふ」と愛しげに表紙を撫でる。


すりすり。

よしよし、良い子だね。

大事大事。

そんな感じ。


「巽くんって本を沢山持ってそうだね」


巽伸太郎は葉菜子から少し視線をそらして「数えた事はないですが、書籍の部屋があります」と言った。


「本のための部屋?」


「えぇ。そのような方は沢山いらっしゃいますよ」


「集めてるんだ?」


「いいえ。集めてはいません。勝手に溜まっていくのです。うふふ」


「読書が趣味なの?」


「いいえ。僕にとって読書は未知の世界を知るための教科書のようなものです。それが空想の世界の話だとしてもです。趣味で読んでいるわけじゃないです」


「ふーん。ねぇ他にも何かおもしろい本はある?」


巽伸太郎は「おもしろい?」と頸を傾げる。


「僕にとって本は全てがおもしろいです。何度も読むか、もう読まないかの差だけです」


─このひじき。理屈っぽいなぁ。


「じゃあ、あなたが何度でも読みたいと思う本は何?」


「うふふ。この本を書いた作家はお気に入りです」と大切そうに背表紙をつつつとなぞる。


巽伸太郎の仕草と表情に少しいらっとする。


─そんなんだから皆に馬鹿にされるのよ。


その時、昼食から戻ってきた西島博也が2人に近付いてきた。


「何の話?」


「ん?あぁ。巽くんに借りてた本を返しただけ」


ふーん。と巽伸太郎に冷たい視線を送る西島博也。


なぜか巽伸太郎は「すみません」と湯呑みを持ってその場を去って行った。


「何で巽くんをビビらせるような事するの」


「俺なにもしてないよ。あいつを見ただけだ」と馬鹿にしたように鼻で笑う。


「その視線が威嚇してるんじゃない」


「ずいぶんと巽に肩入れしてるな。本の貸し借り以外にあいつと何かあった?」


「変な事言わないでよ」とぷりぷりしてデスクに戻る。





その日の帰り道、電車に乗っていると思いがけない人物に話し掛けられた。


「沖田さん」と言ったのは鞄のベルトを握り締めた巽伸太郎だった。


巽伸太郎は葉菜子の隣に並んで立った。


「あ、同じ電車だったんだ」


巽伸太郎はうふふ、と笑う。


「その鞄、良いよね」


「これですか。ええ、とても使いやすくて丈夫です。本革なので使いふるせば良い色合いになります。一生ものです」


「本革?すごい。お金持ちね」


「ピンキリですよ。それに、良い物を買えば長く使えます。その方が経済的です」


「そうよね。それ巽くんに似合ってる。それに凄く可愛いよ」


「は─あ。沖田さんの方が可愛い。うふふ」


「へ?」


何かの聞き間違えだろうか。

何か寒気がするような言葉が聞こえた気がした。

可愛いと言われたように思うが。


─『革良い』の間違いだ、きっと。『沖田さんの方が革良い』と言ったのだ。意味は分からないが。そうなのだ。きっとそう言ったのだ。


巽伸太郎を見るとまた、うふふ、と笑っている。


─うふふ。


「な、なに?」


「いいえ。何でもないです」と言ってまた笑った。


「沖田さんと西島さんはお付き合いされているのですね」とにやりと笑った。


─何こいつ、何なのこの笑い。


「えぇ、そうだけど」


にやにやと笑う巽伸太郎。


「な、何?」


「うふふ。べつに」


「何なのよ。言いなさいよ」と拳で軽く腕を殴る。


「いいえ、何もないですよ」


「何その言い方。気になるじゃない。気持ち悪いでしょ」


「僕がですか?」


「それもある」


「酷いなぁ」と言ってうふふ、と笑う。


何だよと思い巽伸太郎を軽く睨むと嬉しそうに頬を弛ませた顔が引き締まった。


「ご、ごめんなさい」と言ったが、横目で巽伸太郎を盗み見るとまた嬉しそうに微笑んでいた。


「何笑ってんのよ、気持ち悪い。私がいなけりゃ不審者よ、不審者。逮捕だよ」


実際に一人で笑っている人物を逮捕すればこの電車は空っぽになる。

思いだし笑いくらいは誰だってする。


─それに、不審者というだけで逮捕されるなんて聞いた事ないし。


「逮捕?うふふ、いいですね。は─あ、沖田さんに逮捕されるなら僕は嬉しいなぁ。うふふ」


「私が逮捕するわけないじゃん」


「なぁんだ」と不満そうな巽伸太郎に寒気がする。


その時だった。

まだ、駅に到着していないというのに電車が停車した。

少し待っても車内アナウンスが流れないので乗客たちは何があったのかと窓の外を覗く。


「なんだろう」


「信号待ちならアナウンスが流れるはずですね」


「事故かな」と言った所でお待ちかねのアナウンスが流れてきた。

どうやら踏み切りでトラックが積み荷を崩して散乱させてしまったらしい。

大きな事故にはならなかったが処理に時間がかかるとの事だった。

車内は一気に沈み、一斉に携帯電話を手にした。


─おいおい、疲れて帰ってるのにこれかよ。今日は寝不足だから早く帰って寝ようと思ってたのに。


寝不足になると、頭がクラクラしてくる葉菜子は立っているのが少し辛かった。


「降ろしてくれないかしらね」


「無理ですよ。危険です。それに我々を待たせて処理できる程の状態なのですよ。案外早く済むかもしれません」


「早く帰りたいよ。こんな所、息がつまる。嫌だな」


「僕は嬉しいです」


「なに?」


「だって、沖田さんと2人でいられるし」とうふふ、と笑った。


「あんたの発言、さっきから気持ち悪いぞ」


「うふふ」


─うふふ、じゃねぇよ。


巽伸太郎が本を読みだしたので暫く黙っていると、ぐるるとお腹が鳴った。

時計を見れば8時を10分過ぎたところだった。


「お腹空いたな」と呟くと巽伸太郎が本を閉じた。


「もう30分も閉じ込められていますね」


「あんたは30分も私といれて嬉しい?」


「ええ。すごく」と微笑む。


「はぁ、もう」


何だか悲しくなって溜め息が出た。

そのまま魂までも出たのではないかと思うくらい力が抜けた。


その時『お待たせいたしました』と事故の状況を説明するアナウンスの後に電車が揺れて発車した。


「気持ち悪い」と言うと巽伸太郎が膨れた。


「もう。何度も言わないでくださいよう」とむくれる。


「違う」


─違うよ、馬鹿。違わないけど、今は違う。


「気持ち悪い」


そう言った葉菜子の顔を心配そうに覗く巽伸太郎。


「あ──。顔色悪いですね。次で降りますか」


「いや、このまま乗って帰る。もう遅くなるのは嫌よ」


「駄目です。降りましょう。僕も降りますから」




電車から降り葉菜子をベンチに腰掛けさせると、巽伸太郎は近くの自販機で冷たい水を購入した。


「車内の空気が悪かったのでしょう。これ、どうぞ」


「ありがとう」と素直に受け取り、それを飲むと少しすっきりして大きく息をついた。


「ごめんね」


「何がですか?」


「付き合わせて」


葉菜子のお腹がぐるると鳴った。


「もしかしたらお腹が空いてただけかも」と笑う。


苦笑いだ。

情けない。


「では、食べに行きましょうか」と平然と立ち上がる。


「美味しい店知ってます」





その店は和食中心の創作料理の店だった。


外観は普通の居酒屋で、始めに何を飲んだかは覚えている。

しかし、不思議な事に記憶は飛び、いきなり暗闇で意識を取り戻した。


─どこだ、ここは。実家か?


─この懐かしい感覚は祖父母宅か?


─どうやって帰ってきたのかしら?


入店した時刻は覚えているが、店を出た時刻は覚えていない。

美味しかったのは覚えているが何を食べたかは思い出せない。

外観は思い出せるが何処にあったかは覚えていない。

始めに何を飲んだかは覚えているが他はもう覚えていない。


気が付くと、井草の薫りがした。

とても心地よく懐かしい。

目を開けるとオレンジの光が頭の上で優しく光っていた。

どうやら布団を被っている。

天井が高いので自分の部屋ではない。

実家でも祖父母宅でもない。


─じゃあ、此処はどこ。


頭が冴えてきた。

上体を起こして周りを見る。


畳だ。

畳に敷き布団。

襖に床の間。


どこだ、ここは。と同じ事を思うと同時に心臓がばくばくと音を立てる。


─嘘だろう?


立ち上がって部屋を歩き回る。


─嘘だろう、嘘だろう?


ここが何処であるのか何か情報がほしいが何もない。

可能性が一番高いのは──


うふふ、と笑い声が聞こえてきた気がした。


─嘘だろう!嘘だろう?おい、葉菜子!どうした!


とりあえず落ち着こう、と布団に座って枕元にある鞄の横に並ぶ自分の腕時計で時間を確認する。


午前3時20分。


最新の記憶から約6時間。

何があったのかは不明。

だから、考えても無駄。

少し頭が痛い。


そう思い立ち上がる。

そうするしかない。

もし、巽伸太郎の部屋なら突き飛ばしてでも帰ろう。

変な事をされれば西島博也に告げ口だ。

そうなれば激怒されるに違いない。

巽伸太郎も自分も。

と思った所で血の気がひく。


記憶がない間に何か間違いをしていないだろうか。

急いで身嗜みを確認。

お腹が冷えるからといつもの癖で下着の中に肌着を挟んでいることを確かめて一安心。


鞄を抱えてそろりと襖をあけると、板張りの廊下が見えた。

正面には硝子が嵌まった木枠の窓があり、そこから庭が見える。

マンションではなく、一軒家のようだ。

リンと小さな涼しげな音が聞こえてきた。


右側は行き止まりなので左側に進むしかない。

ゆっくりと板張りの廊下を進む。


抜き足差し足。

そっと、そっと。

忍び足もつけようかしら。

泥棒じゃないけども。


出てきた部屋の隣室前を通り過ぎると、左右に廊下が折れていた。

どうやら、左は他の部屋へと繋がる廊下のようだ。

右手を曲がると座卓やテレビなどが置かれている居間がある。

居間の奥には台所が見える。

廊下の奥を見ると玄関があった。


─よっし!よし!オッケーオッケー!完璧!


それでも慎重に居間を通り過ぎる。

左右にはもうひとつ部屋があり、どちらも襖が閉められている。


2つの部屋を無視して丁寧に置かれた靴を履く。


「帰りますか?」


ひゃっ!と息を飲んだ。

びっくりした勢いで立ち上がる。


─心臓が痛いじゃない!


振り向くと玄関右側の部屋に巽伸太郎が浴衣姿で立っていた。


「び、びっくりするじゃない!もぅ」と玄関に再び座った。


「お加減はいかがですか?」


辺りが暗くて巽伸太郎の表情がわからない。


「もう良いわ。うん、すごく良い。もうね、絶好調。だから帰るわ」


─そんなの嘘。頭が痛い。


「始発を待ちますか?それともタクシーをお呼びしましょうか?」


「ど、どうしようかしら」


ズキンズキンと。

痛い。


「どちらにしても、もうすぐ明るくなります。出社時間を考えるなら、こちらでもう少し眠られた方が良いと思いますが」


そうしたいのだが、帰ると言った手前、何も言えない。


「あ、うーん」と考えるふりをするが帰るのが面倒になる。

頭も痛いし。


─だけど、こいつの世話になりたくない。何をされるかわからない。


悩む所だ。


「何もしない?」


「どういう意味です?」


「あんたは男、私は女。──ね?」


「してもいいのですか?」


「ば、馬鹿じゃないのっ。変な事しない?って聞いてるの」


巽伸太郎はうふふ、と笑う。


「それは誘っているように聞こえなくもないですが、その様子から見て違いますね。うふふ。しませんよ。殴られるのはもう嫌ですから」


葉菜子は最後の言葉に引っ掛かったが、靴を脱いで廊下を戻る。


背後から声がかけられた。


「シャワー浴びます?」


─何言ってんのよ、こいつ。


しかし。

すっきりしたい。


「覗かない?」


「そんな事しません」と巽伸太郎は小さく笑うと、葉菜子を追い越し、居間を通り抜けて台所の奥にある風呂場まで案内してくれた。


なんと湯船にはお湯まで張ってある。

葉菜子のためにしてくれたのだろうか。


「男物の浴衣しかありませんが我慢してください。脱いだ服は洗濯しますので──あ、ご自分でされますよね?使い方は」


「知ってるよ、それくらい」


「乾燥もできますので、朝までには乾くでしょう。朝はご飯ですか?パンですか?」


「あんたに合わせるわ」


「そうですか」


「覗いたら殴ってやるから」


「それ、良いですねぇ」と笑う巽伸太郎。


「本当だからね」


「覗きません。それでは、ごゆっくり」


「あ、あのさ。──ありがとう」


─何だか助かったよ。


振り向いた巽伸太郎は「おやすみなさい」と頭を下げた。


葉菜子はゆるゆるとした動作で風呂に入った。

何故か巽伸太郎を信頼している。

ただ、疑う気力がなかっただけかもしれないが。



湯船に浸かっていると、もしかして、葉菜子が中途半端な時間に起きてしまったら不安になるかもしれないと思い、起きていてくれたのだろうか、とふと思った。

先程の巽伸太郎は眠っていたとは思えないほど、寝乱れもなく、口調もはっきりとしており、足取りも普通だった。


─悪い事したなぁ。





携帯電話の目覚ましが鳴る。

ゆっくりと上体を起こして数時間前の出来事を反芻した。

辺りを見て溜め息。


─夢じゃないのね。


頭痛は無くなったが、気が重い。

布団を畳み端に寄せると、鞄を持って部屋を出る。

さっきは気が付かなかったが硝子の向こうにある庭は凄く綺麗だった。

巽伸太郎が手入れしているのだろうか。

身体が一気に軽くなり、心が落ち着いき頭がスッとした。


居間に入ると台所にスーツ姿の巽伸太郎が立っていた。

葉菜子に気が付き頭を下げる。


「おはようございます」


「お、おはよう」


─な、なんだよ。むず痒い。


「気分はいかがですか?」


「うん、いいよ。大丈夫。ねぇ、服は?」


「うふふ、怒られるのが嫌なのでそのままにしています。乾いているはずです。だけど」と巽伸太郎が悲しそうに目を伏せる。


「どうしたの?」


「その、僕の浴衣を着ている沖田さん。すごく色っぽいからそのままでいてほしいな。うふふ。刺激的ですよ」


切れ長の目が怪しく細くなる。


「ぬうっ」


今すぐ着替えなきゃ。

何としてでも着替えなきゃ。

危機的状況には変わりない。


ライオンに狙われたシマウマとはこの事。

ライオンほど勇ましくないけど。

急いで着替えを済ませ、化粧をすると居間に戻る。

そこには仏壇にお線香を立てる巽伸太郎の後ろ姿があった。


彼は葉菜子に気が付くと振り返り「素敵ですねぇ」と笑った。




床の間を背にした巽伸太郎の正面に座る。

左側には庭。

もうすでに朝食は用意されている。

ご飯もあるしパンもあった。

ヨーグルトや果物まで。


「毎朝こんなに食べるの?」


「いいえ、は─、あの沖田さんが何を食べるか分からないのでコンビニまで行きました。うふふ」


─あらら。そんな事までしてくれていたのね。


と思って気が付く。

巽伸太郎の左唇の辺りが青くなっていた。

その視線に気が付いたのか、巽伸太郎は苦笑いを浮かべた。


「それ─もしかして」


殴られるのはもう嫌ですから。と巽伸太郎が言っていたのを思い出す。


「私がやった?」


「あぁ、本当に覚えていないのですね。ご飯食べます?それともパン?」


お味噌汁の良い薫りがしたので、それを頂く。

正直、食べられるなら何でも良かった。


「ねぇ、何があったの?私、酷いことした?」


巽伸太郎は青くなった所をそっと撫でてニヤリと笑った。


「店に入ってすぐに沖田さんはビールを飲まれました。それが良くなかったのでしょう。すぐに酔っぱらいました。結局、店に居たのは一時間もなかったです」


葉菜子は白米を咀嚼しながら話を聞いている。

こんなに熱心に巽伸太郎の声に耳を傾けるのは初めてだ。


「家に帰そうと思ったのですが、住所が分からないし、鞄を探るのもいかがなものかと思いまして、とりあえず目を覚ますまで僕の家で休んでもらうことにしたのです」


「それで、その痣は?」


「沖田さんの防衛本能です。うふふ。恐らく僕が野蛮な事をすると思ったのでしょう」


─今でも疑ってるぞ。


「あぁ、本当にごめんなさい。痛かったでしょ?」


しかし巽伸太郎は嬉しそうに「えぇ、とても」と笑った。


─あ、そう。そうなのね。


─痛いの好きなのね。良かったのかしら。


「私、何か変な事を言ってなかった?」


巽伸太郎が箸をくわえたまま頸を捻る。


「例えば─私生活の愚痴とか」


何かを思い出そうとゆっくりと咀嚼する巽伸太郎。


「うーん。特にはなにも」


「あ、そう。そうなの。信じていいの?」


「そんなに秘密にしたい私生活なのですか?気になるなぁ」


「気にしなくていいから。この事はもう、忘れよう!ね?だから、昨日の事と今日の事は誰にも何も言わないで」


葉菜子を見つめる巽伸太郎は少し悲しそうだった。

こんなにも、良くしてもらっているのに、なんだか勝手な事ばかり言っていて申し訳なくなる。


「我が儘ばかりでごめんね。でも、お願い!何でもするから」


目を細める巽伸太郎は「何でも─ですね?」と怪しく笑う。


「世間一般の常識を考えてね」と付け加えると巽伸太郎はつまらなさそうに眉尻を下げた。


「何を考えてたのよ」と睨むと、うふふと小さく笑っていた。


「─ところで、巽くんってこんな大きな家に1人で住んでるの?」と部屋を見渡す。


掃除が行き届いており、余計な家具など一切ない。

障子も襖もとても綺麗な色をしているので、きっと定期的に張り替えられているのだろう。


「えぇ。そうです」


「広い家に1人だけって寂しくならない?」


「うーん。特に──。沖田さんは寂しくなるのですか?」


「そうだね。ワンルームだけど寂しくなるな」


「うふふ。じゃあ、ここに住みますか?部屋ならありますよ」


巽伸太郎が微笑みながら調子の良くそう言ったので、少し睨んでやったのだが、嬉しそうに真面目ぶった表情を作っていた。





先日、話をしていた書籍のための部屋を見てみたかったの案内してもらった。

そこは葉菜子が寝ていた隣の部屋に入だった。

壁一面には収まりきらず、机や畳の上に高く積まれている。

海外のものや図鑑、科学雑誌などもあり、多種多様な本が乱雑なようでいて、きちんと並んでいた。


部屋を出ると庭に巽伸太郎がいた。

大切そうに植木の世話をしている。

彼の手には如雨露が握られており視線の先には盆栽。


─あ、あの盆栽の鉢。あの時、巽くんが買ったやつだ。ハチハチだ。


何だか小さな謎が解けて嬉しくなった。


巽伸太郎が家を出る時刻になり、葉菜子も家を出た。

朝に巽伸太郎がコンビニで調達してくれたパンは、葉菜子の昼食になることとなった。

誰が何処から見ているか分からないので、巽伸太郎とは別れて、彼が乗った2本後の電車に乗る。



後悔先に立たず。

もっと慎重に行動するべきだった。

言い訳というか、はっきりと言えばちゃんとした嘘を用意しておくべきだった。


乗車してすぐ、目の前にいたのが西島博也だった。

彼は不思議そうに駅の名前と葉菜子とを見比べて「おはよう。どうしたの?」と聞いてきた。


「おはよう」と質問は聞こえなかった振りをして、咄嗟に言葉を探す。


「ちょっと気分が悪くて降りてたの」と少し間があってから言う。


「そう。大丈夫か?」と心配そうに顔を覗いて背中に手を添える。


「うん、もう良くなった」


「遅刻してもいいんじゃないか?」


「いや、本当に大丈夫」


西島博也が不思議そうな顔をした。


「香りが原因じゃないか?」


「香りが?なんで?」


「葉菜、いつもと違う香りだ。柔軟剤変えた?」


─うわっ!やばいっ!


「う、まさか。香りは関係ないよ。」


「そう。柔軟剤じゃないなら線香かな」


仏壇に向かう巽伸太郎の姿が浮かぶ。


─う、やばい。


「お香か?」


「あ、そうなの。お香買ったから焚いてみたの。それがいけなかったのかな。うふふ」


─あ、うふふ。じゃ巽伸太郎みたいじゃない。


「じゃあ、もう焚かないほうがいいな。そうだ、昨日大変だったな」


「へ?」


─巽伸太郎め。何か言ったのか。口の軽いひじきめ。


と思ったが思い直す。

巽伸太郎が西島博也の連絡先を知っているはずがないのだ。

だから、昨晩2人の間に何があったのかを知る術は西島博也にはない。

そこで思い出す。


─あ、電車の事か。


「そう。30分は電車に閉じ込められてたよ」


「俺なんか駅で立ち往生。時間がどれくらいかかるか分からないからタクシーで帰った。葉菜もその後は帰ったの?」


「へ?」


─何だよ。いちいち恐ろしい。


「だってほら、昨日と服が一緒だし」


─うわっ。やっぱり気付いた。


「お気に入りなんだよね」


「2日続けて着るなんてよほどだな」と苦笑いをする西島博也は何も気付いていない様子なのでホッとする。



会社に到着すると、とてつもなく緊張したが、その原因の巽伸太郎はいつものようにお茶を飲んでいた。


─よく、ほっこりできるわね。

と目が合った巽伸太郎を睨むと、小さく咳き込んでいた。


にやけている。


─くそっ。褒美を与えてしまった。


西島博也は自分のデスクに鞄を置いて直ぐに何故か巽伸太郎の元へ行った。

不安になり葉菜子は二人の様子を見ないようにしながらも、注意深く見た。


二人は何か話をしているようだが、声が聞こえないのでもどかしい。


少して険しい表情の西島博也が何処かへ消えて行った。


何があったのか巽伸太郎に聞こうと思ったが、西島博也の剣幕が少し恐ろしかったので、何も言わずにいることにした。




その日は巽伸太郎と目を合わさないようにしていたが、帰りの電車で彼を見掛けた時、さすがに申し訳なくなり、話しかけた。

以前よりも、話しかけやすくなったので気軽である。


「今日はありがとう。パンもご馳走さま。──あと、プリンまで」


朝、巽伸太郎から貰ったコンビニの袋に入っているのはパンだけだと思っていたが、葉菜子がいつも食べているプリンまであったのだ。

ちょっとびっくりしたが、以前あげたので覚えていたのだろう。


巽伸太郎は「とんでもない」と無表情で言う。


「朝食もありがとう。毎朝、作ってるの?」


「いいえ。大抵は前夜に作って置いたものです。今朝のものは、起きてから作りましたが」


「じゃあ、夜もちゃんと作って食べてるんだ。お味噌汁、美味しかったよ」


「うふふ。夜も食べてみますか?」


「んな。ど、どういう意味よ」


「作りますよ。うふふ。食べに来ますか?」


「馬鹿じゃないの?あんな状況なんて一回で十分よ」と軽く睨む。


「葉菜子さんはお料理はされるのですか?」


「なんだって?」


「お料理は──」


「そうじゃなくて。名前。私の事、何て言った?」


「え?葉菜──あ」


「あ、じゃねぇよ」


巽伸太郎は「うふふ」と笑った。


しかし、その笑みは少しぎこちなかった。

それは、口許にある痣のせいだと直ぐに気が付く。


「痛そうだね。──ごめんね」


「沖田さんとの秘密の共有です」と呟くのが聞こえてくる。


その口角にある痣は痛々しい。


─私、そんなに強く打ったんだ。朝より酷くなってる気がする。


「どうかされましたか?」と沈んだ表情の葉菜子を見て心配する。


「何かごめんね。お詫びするよ。晩ごはん奢るわ」


巽伸太郎は断る事もなく「いいんですか?」と嬉しそうに笑う。

体裁を気にしないのが良い。

素直なのだ。


店は昨日の居酒屋になった。

巽伸太郎が店の状況を聞いた所、9時から団体客が貸し切るため、それまでしか居られないという事だったので、2人は1時間ほど向かい合って酒を飲んだ。

今日は控えめで。


9時になる少し前に店を出た。


「今日はありがとうございました」と頭を下げる巽伸太郎。


「私が勝手にやったことよ。気にしないで」


「うふふ。葉菜──」と言いかけた所で葉菜子の視線に気がつき、慌てて言い直す。


「あ。沖田さんと居ると楽しいです。うふふ」


「あ、そう」


そりゃどうも。と軽くあしらう。


「帰り道分かりますか?」


「馬鹿にしないでほしいな。今日は酔っ払ってないから分かるわよ」


「そうですか。なら、どっちです?」


「此処を左でしょ?」と言った所で巽伸太郎がうふふ、と笑った。


「な、なによ。違うの?」


「違いますね。うふふ」


─おかしいな。お酒はそんなに飲んでない。むしろ飲み足らないくらいだし、道の記憶は良い方なんだけど。


「行きましょう。ついてきてください」と右に曲がる巽伸太郎に従順について歩く。

見覚えのある景色。

それは1時間ほど前の景色ではなく、今朝のそれだった。

暗くなっているので少し変わって見えるが間違いない。


これは──


「あんたん家じゃない」と巽伸太郎の背中を叩く。


「そうです。僕は帰り道と言っただけで、駅までの帰り道とは言っていません」


「そんな所で頓知はいらないのよ!馬鹿!」


「飲み足りないでしょ?お酒なら沢山あります。飲み直しましょう」


最後の言葉にグッと惹かれて葉菜子は玄関を抜けた。

渋々を装っている自分に少し戸惑う。


少し待っていてください、と巽伸太郎が姿を消している間にゆっくりと居間を見学する。

朝、巽伸太郎が向き合っていた仏壇には、若い女性と葉菜子の父親ほどの年齢の男性の写真があった。


縁側を抜け、庭への硝子戸を開けると涼しい風が入ってきた。

とても気持ちが良くて和んでいると「お待たせしました」と浴衣姿の巽伸太郎が現れたのでドキッとする。


「よろしければ沖田さんも着替えませんか?男物の浴衣しかありませんが」


「そうね。借りるわ」


家飲みだ。

自由に楽に飲みたい。


葉菜子が浴衣に着替えて居間へ戻ると、巽伸太郎が楽しそうに何品かつまみを出していた。


「ねぇ、巽くん。この仏壇の男性って巽くんのお父さん?」


「えぇ、そうです」


「やっぱり。よく似てるわ」


「一昨年に亡くなりました。隣の写真は母です。僕が3歳の時に事故で亡くなりました。それから父が僕を育ててくれたのです」


「そうなんだ。大変だったでしょうね。素敵な方だったんだね」


「うふふ、そんなことありません。どこにでもいる父親ですよ」と微笑む。


何だろう。

この男。

何だか──変な感じ。

くすぐったい。


「さぁ、飲みましょう」と巽伸太郎が珍しく声を張ったので、葉菜子は驚いた。


そして、2人は暫くくだらないやり取りをした。

巽伸太郎が弄られる事が好きなのは承知だったし、葉菜子自身はそんな巽伸太郎をからかうのが楽しかったので時計の針が上で重なり合っても盛り上がっていた。


突然、雨が降ってきた。


「あはは、雨だ!」とすっかり良い具合に出来上がった葉菜子が縁側に駆け寄り、開けっぱなしの硝子戸から顔を出した。

一方の巽伸太郎は、葉菜子よりも飲んでいるはずなのに冷静な足取りで縁側に向かう。


「風邪をひきますよ」と少し心配そうな様子で葉菜子を見ている。


「大丈夫。これくらいでひきはしないわ」


「ひきますよ。ほら、戻って顔を拭いてください」


「あんたさ」と巽伸太郎の顔に指を突き付ける。


「はい?」


「あんたさ、此処に私を連れてくる計画だったんでしょ?」


─分かってんだから。私は馬鹿じゃないのよ。


「団体客なんて嘘でしょ?上手い事言って私が此処へ来るように仕向けたのね?」


─白状しなさいよっ。


「──さすがですね。うふふ」


「うふふ、じゃねぇよ。バレバレだっつうの」と葉菜子は庭へ飛び出し雨の中に飛び込む。


「あ!葉菜子さん!」と巽伸太郎が葉菜子の腕を掴もうとしたがそれをすり抜ける。

一瞬にして浴衣が雨を吸い込み重くなった。


─あ、こいつまた私の名前を呼んだ。


─葉菜子さん、だって。


「あはは、気持ち良いな。巽伸太郎!お前も来い!」


「嫌ですよぅ」と顔を背ける。


「キスしてあげる」


「へ?」とこちらを向く巽伸太郎。


「こっちに来たらキスしてあげる」


「あ、それは、でも─」と頬を紅くさせる。


「朝、言ってた何でもするってのとは別だよ」


「ほ、本当に?」


「だから来い」と手招きをする。


巽伸太郎は少し動いたが首を横にふる。


「どうせキスをするのは僕にじゃないとか言いだすのでしょう?」


「何?」


「例えば、写真とか、鏡とか、硝子とか──」


「来れば分かる。だから、おいでよ」


巽伸太郎はそろりと縁側から庭へ出た。

彼もあっという間に全身が濡れ、身体のラインがくっきりと表れる。

葉菜子の目の前に立った巽伸太郎。

髪が目にかかっているので、葉菜子はそれを耳に掛けてやる。


─あぁ、どきどきする。

─身体の芯が熱くなる。


巽伸太郎に触れたい。


葉菜子は緊張している巽伸太郎の右腕を掴んで自分の腰に回した。

自分も巽伸太郎の腰に手を回し、雨すら入れないように密着する。


こんなに真剣に見つめ合うのは初めてかもしれない。


「好きです。葉菜子さん」


そう呟く巽伸太郎の頬を撫でる。


「真面目だね」


葉菜子はそのまま巽伸太郎の顔を引き寄せる。

そして青くなっている痣──唇より少しずれた箇所に優しくキスをした。


「あはは、ほら。キス。したでしょ?戻ろう!風邪ひくよ」と縁側に入ろうとした時だった。


後ろからぎゅうっと拘束された。


抱き付かれているのだ。

巽伸太郎に。


「ちょっと?」


「意地悪だ」


「ごめん、ごめん。ね?本当にごめん」


少し可哀想なことをしたと反省するがなかなか解放してくれない。

きつく、それでも優しく。


「ねぇ、本当にごめんって。怒らせるつもりはなかったの」


「嫌だ」


「ごめん」


謝るしかなかったが、巽伸太郎は放してくれない。

彼の温もりが背中に伝わり、少し心地好いと思ってしまった。


「怒ってません。だけど、放したくないです」


「困るよ。2人で風邪ひくよ」


「2人で治し合えばいい。人肌は温いって言うじゃないですか」


「2人で風邪ひいたら意味ないでしょ」


巽伸太郎は黙った。

葉菜子の存在を確りと抱き締めている。


「ねぇってば」と言いながらももう少しこのままでいいかもと思う。


溶けてしまいそうに温かく、気持ちが良いから。


巽伸太郎の力が緩んだので葉菜子は彼に向き合う。


「狡いですよ、葉菜子さん。とても色っぽい」


浴衣が肩から落ちそうだ。

巽伸太郎の視線が胸元に移る。


「あなたが抱きつくからずれたのよ。それも計算してた?」


「そんな余裕ないよ」と視線をずらす。


「どうする?」


「どうする?って」


「何でもするって約束したわよ。今使う?」


「僕がそれを使うって言えば叶えてくれますか?それとも使わないって言っても叶えてくれますか?」


「随分と慎重ね」


「傷付けたくないから」


葉菜子は冷静だった。

巽伸太郎に押し倒されても受け入れられるほどに。


だが、巽伸太郎は葉菜子から離れて硝子戸を開けると室内へと入った。


「傷付きたくないの間違いじゃない?」


「そうかもしれないですね。さぁ、入ってください。いい加減にしないと本当に風邪をひきますよ。タオル持ってきますね」


風呂を借り着替える。

交代で巽伸太郎が風呂に入っている時に小雨の中タクシーを止め、葉菜子は黙って出ていった。




何だか嫌な気分だった。

楽しく飲んでいたはずなのに、なぜこうなったのか。


自分のせいなのだ。


部屋に到着すると玄関にいたのは西島博也だった。

当然驚いた。


「どうしたの?」


「部屋に来てもいないし、携帯に電話しても繋がらない。お前こそどうしてたんだ?」


「飲んでたのよ」


「化粧落として?髪も湿ってる。部屋に帰っていないのに、線香の薫りがきついぜ?」


「何が言いたいの?」と玄関の扉を開ける。


「明日の約束覚えてるよな?もう今日だけど」


「──皆でバーベキューでしょ?」


和枝、美緒、広尾たち数人とバーベキューの予定になっていたのだが、今の今まですっかりと忘れていた。


─何だかこの頃調子がおかしいよ。


「覚えてるわよ」とバレバレの嘘をつく。


「きっと天気は悪い。バーベキューは中止だ」


「そう。それは残念ね」


「考えたんだよ。家飲みだ。知り合いに頼んで家を貸してもらう。──なに、心配ない。快く引き受けてくれるよ。広尾たちにも言ってあるから大丈夫だ」


西島博也は薄笑いを浮かべて葉菜子に近寄った。


「泊まっていいか?」


葉菜子は小さく頷いた。





バーベキューが出来ないので、集合時間が15時になる。

西島博也が行き先を告げないので聞き出すのは諦めていたが、昨晩からの彼の様子を見ていて不安を覚えていた。

すると巽伸太郎の家がある駅で下車して皆と合流した。


「博也の知り合いって誰だよ」と広尾友成。


「まぁ楽しみにしてなって」


西島博也の薄笑いに葉菜子はとても嫌な予感がした。

葉菜子は集団の最後尾を一人で歩いた。

このまま誰にも何も言わずに帰りたい気分だ。


─博也。なに考えてるのよ。



そして、先程の葉菜子の予感は的中する。


「ここ巽ん家なの?」と一同ははしゃぐ。


「あいつこんな立派な家に住んでんのかよ」


西島博也がインターフォンを鳴らす。


─出てこないで、出てこないで。


しかし、巽伸太郎は呆けた顔をしてでてきた。


─何で出てくるの!馬鹿!


しかし、巽伸太郎は「いらっしゃいませ」と言って玄関を開けた。

まるで、来訪を知っていたかのような平然とした態度に、葉菜子が驚いてしまった。


─ど、どういう事?どうなってるの?いらっしゃいませって何?


各々は巽伸太郎の家に感嘆しながら居間へ集まった。


台所を借りてつまみを作ったり、酒を出したり、音楽をかけている中で巽伸太郎を見るが目を合わそうとしない。

葉菜子は部屋の隅でおとなしく座っていた。

何故か仏壇の扉は閉められている。

皆のように騒げない。


酒が入れば声がでかくなる。

巽伸太郎は何処か行ってしまったようで、姿を見ない。

本当に家だけを借りているようだ。

失礼な話である。

葉菜子は溜め息ばかり吐く。


「葉菜。トイレどこ?」と西島博也が聞いてくるので台所の奥にある風呂場の横だと教えてやる。


「やっぱり、そうか。前に来た事があるんだな?」


─はぁ!しまった!引っ掛かった。


西島博也の目が冷たい。


「ちょっと来て」と葉菜子の手を引っ張って立たせる。

すると葉菜子が寝ていた客間へ連れて行かれた。

リンと涼しげな音が鳴る。


「ここは客間のようだな。お前、ここで巽とヤったのか?」


「ば、馬鹿なこと言わないで」と西島博也の腕を払おうとするができなかった。


「また嘘か?」


「泊まったけど、本当に何もしてないよ」


「二日連続で此処に来たんだろ?何もないとは思えない」


葉菜子をぐっと引き寄せる。


「俺とお前は付き合ってるんだ。今は。分かってるよな?」


その時、葉菜子の腕を掴む西島博也の拳を見て驚く。


まさか。と思って恐る恐る聞く。


「その手、赤くなってる。どうしたの?」


チラリと自分の拳を見る西島博也。


「あぁ。これ。ある奴を殴ったのさ。そいつは俺が殴る前から怪我してたけどな。慣れないことはするもんじゃないな」と笑う。


「さぁ、どうしようか。お前と巽がヤった部屋で俺とお前もヤるか?」


「だから、何もしてないってば」


「巽だって男だぜ?好きな女が寝てるのに放っておくわけないじゃないか」


─巽くんの気持ちに気付いてたの?だからクラブで見せ付けるようにキスをしたのね。なんて人なの。


「巽くんはそんな事しない」


─あいつは馬鹿正直なんだ。私が嫌だと言えばそれには逆らわない。


「言っただろう?あいつだって男だ。きっと変な妄想とか抱いてるぜ。ヤバい趣味があるんだ。あいつと俺、どっちが上手かった?」


「もう、やめて!」


そう言った勢いで西島博也の頬を殴ってしまった。

部屋の外の会話がよく聞こえてくる。


恐ろしい事をしてしまった。

だけど、巽伸太郎を悪く言われてとても腹が立ったのだ。


「巽くんは──あなたよりずっと男らしいわ。何も知らないくせに」


西島博也の冷たい視線が葉菜子に突き刺さる。

そして前触れもなく相手の身体が葉菜子を求める。

西島博也が意地になっているのがその乱暴さで伝わってきた。


─ごめん。巽くん。


リンと鳴った。


「此処はラブホテルではありません」と襖が開く。


立っていたのは巽伸太郎だ。


上半身が下着だけになっている葉菜子をチラリと見てから西島博也を睨む。


「取り込み中だ。見てわかるだろ?」


「此処はラブホテルではありません」


西島博也は面倒くさそうに立ち上がり巽伸太郎の横を通りすぎる時に「お前たち二人に話がある。来い」と言って居間へ向かった。


巽伸太郎は葉菜子に近付くと、触れようとはせず服を渡してくれた。


「きっとこれから良い事があります」


「へ?」


「僕に任せてください。うふふ」


「うふふ、じゃないわよ」


「色っぽいなぁ」


葉菜子は急いで服を着ると、巽伸太郎と居間へ向かった。


そこは静まりかえっていた。

座卓には酒瓶が置かれており、西島博也が腕を組んで座っていた。

和枝や美緒たちが不思議そうにその光景を見ている。


「おい、巽。俺の前に座れ」


西島博也にそう言われて、音を立てずに座卓まで歩くとスッと座った。


オーディエンスはこれから何が始まるのかとワクワクしている。

西島博也は厳しい顔つきだし、巽伸太郎は何を考えているのか分からない。

不安と恐怖を抱いているのは葉菜子だけのようだ。


「今まで秘密にしていた事がある」と西島博也が切り出した。


「俺は来月で会社を辞める」


オーディエンスからはどよめき。


アマチュア劇を見ているような錯覚に陥る。


「前から決まっていた事なんだ。やりたい事があって。独立すると決めたんだよ。それについてきてほしいと葉菜子に言った。つまり俺は結婚を申し込んだ。それは3ヶ月も前の事だ。随分と待たされた。返事は今さっき聞いた。俺はフラれた。格好悪いフラれ方だった」


西島博也は巽伸太郎の目を見てそらさなかった。


「未練がましい事はしない。俺は夢に向かって進みたいからな。それはそれ、これはこれだ。しかし、巽伸太郎」


オーディエンスは巽伸太郎を見る。

巽伸太郎の猫背が直る。


─なんだ。真っ直ぐ座れるんじゃない。


「俺はお前に苛立っている。からかっても、殴っても飄々と笑ってるお前が苛つく」


はぁ、と巽伸太郎が答える。


「勝負しろ。巽伸太郎」


─ちょっと、何を言いだすの。


「俺もお前も力自慢という訳ではないから暴力は却下。俺は知識人ではないから不利な戦いはしたくない。お互いに受け入れられる勝負は酒だ。ルールは簡単だ。テキーラショットを交互に飲んで潰れた方が負け」


西島博也は自分と巽伸太郎の前にショットグラスを置いた。


「この勝負に葉菜は関係ない。俺とお前の勝負だ。いいな?」


巽伸太郎は返事をする代わりに瓶の液体を自分のグラスに注ぐと一気に飲み込んだ。

沸き上がるオーディエンス。

西島博也は口角を上げると、自分も同じようにしてお互い一杯ずつ飲んだ。


葉菜子は二人の酒の強さは知っている。

西島博也の限界を一度見た事があるがそれはとても凄い量を飲んでいた。

一方、巽伸太郎は相当量を飲んでも変わらないのは分かっているが、葉菜子はその限界を知らない。

そこが、恐ろしかった。


葉菜子がうだうだ考えている間にも勝負は進んでいる。

着々と瓶の中を減らしていく馬鹿な二人。


見てられないや。と庭に出る。


巽伸太郎が大切に育てている盆栽が月光を浴びているのを見て羨ましくなる。


背後からは下らない勝負に沸き上がる男たちの歓声。

和枝と美緒がどうなっているのかと葉菜子に訊ねてきたが、自分もよく分からないので納得させられるような返事はできなかった。

二人は「まったく、男は馬鹿よね」と苦笑いを浮かべて帰って行った。


そう、馬鹿なのだ。

西島博也も巽伸太郎も。

そして葉菜子も。


オーディエンスの数名は疲れているのかいつの間にか眠っている。

起きているのは勝負をしている二人と広尾友成だけだった。


広尾友成に状況を聞いてみると勝負は二十杯目を過ぎた所だと言う。


「止めるように言ってもらえる?」


「無理だよ。あの二人見てみ?男は馬鹿だって思うだろう?それでもさ、やってしまうんだよ。その時は誰にも止める権利はない。ただ、見てるしかないんだよ」


「死んじゃうよ」


「あはは。大丈夫。そこまで馬鹿じゃないよ」


少しだが、西島博也の呼吸が荒くなってきた。

瓶を傾ける巽伸太郎の腕が上がっていない。


二人とも危なくなっている。


─ねぇ、もう良いんじゃないの?


「もう限界なんじゃないのか?たちゅみ」


─たちゅみって。呂律回ってないし。声に張りがないじゃん。あんたこそ限界なんじゃないの。


「いいへ。まだオッケーっす」


─いいへ。って。喋れてないし。しかもオッケーっすて。普段そんな喋り方しないでしょ。


─駄目だ。二人ともアウトだ。


「ねぇ」と広尾友成に向き直るとすやすやと眠っている。


どいつもこいつも、大馬鹿野郎だ。



先に潰れたのは巽伸太郎だった。


「もう、無理です」とグラスを逆さまにした。


西島博也はその言葉に安堵したのか、小さく笑い立ち上がるとよろよろとした足取りで葉菜子の前で止まる。


「大丈夫なの?」


「あぁ。じゃあな」と言って広尾友成達を乱暴に起こす。

彼らは飛び起き西島博也の勝利を喜んだ。

そして、西島博也の肩を支えながら家を出て行った。


巽伸太郎は横になっている。

彼と二人だけの家はとても静かで心地好い。


「ねぇ、大丈夫?」と背中に触れる。


「うーん」と唸る巽伸太郎は体勢を変えて葉菜子の膝の上に頭を乗せた。


「良い事あったでしょ?」


「そうだね」と巽伸太郎の髪を撫でてやる。


「私たちが来る事知ってたの?」


「昨日、西島さんに話し掛けられた時、もしかしたら近い内に来るかもしれないと思ったのです。きっと西島さん、僕の住所を調べたのでしょう。僕と葉菜子さんが会っていたのがバレていたんですよ」


「だから仏壇の扉を閉めたの?」


「深い意味はありませんが。うふふ」


「もしかして、まだ余裕ある?」と聞くと巽伸太郎はうふふと笑った。


─強すぎる。


「早く皆に出ていってほしかったのです」


「で、どさくさ紛れに膝枕?」


「うふふ。良い事」


葉菜子が小さく笑うと巽伸太郎が上体を起こした。


彼と視線を絡ませると、身体の芯が熱くなる。


「葉菜子さん。──好きです」


その言葉に心臓が跳ねる。

身体は火照り、嬉しさが込み上げてきた。

そして、何故か涙が出てきた。


葉菜子は唇の痣をそっと撫でる。


「痛かったでしょう?」


「キスすると早く治るかも」


「しても変わんないよ」と笑うと巽伸太郎は拗ねたように口を尖らせた。

だから「やるだけやってみよう」そう言って彼の頬を両手で優しく包んだ。

そっと彼の唇に自分の唇を重ねる。

柔らかくて温かい。

アルコールの味がする。


「ほら、治らない」と笑うと巽伸太郎はゆっくりと葉菜子の腰に手を回して胸に顔を埋めた。

その重さを借りてゆっくりと身を倒す。

巽伸太郎の大きさを感じグッと温かくなった。

呼吸が合わさり本当に溶けてしまいそうだ。


巽伸太郎は葉菜子の身体に抱き付いたまま離れない。


まるでコアラだ。

なんだか心地好い。


髪を撫でてやる。

暫くすると力を抜いた巽伸太郎が顔を上げ自分の上体を腕で支えて葉菜子を見た。


そして、巽伸太郎は何も言わず葉菜子の唇にキスをした。

指は首筋を優しく伝い、胸に触れる。


巽伸太郎は何度も彼女を求め、葉菜子はそれに優しく答えてくれた。


巽伸太郎は彼女の髪に触れながら目覚める日が来るとは思っていなかった。

彼女はあのまま西島博也と結婚するものだと考えていたのだ。

悔しくて悲しい思いもした。


気持ちよさそうな寝顔に内緒でキスをする。


幸せだ、と思った。


日の光に彼女が目をしかめて起きた。


「おはようございます」


巽伸太郎は昨晩自分が着ていた浴衣を葉菜子に被せた。

葉菜子はそれにくるまって庭を見る。


「おはよう」


目が合うと何だか恥ずかしくなる。


「あ、そうだ。私、巽くんに内緒にしてたことがあるの。そんなに大したことじゃないんだけどね」


「内緒?」


「あの盆栽」と葉菜子の白い腕が浴衣からスッと伸びる。


「あの盆栽の鉢。値段知ってるよ。八千円でしょ?ハチハチだよね」


「そう、ハチハチ。なぜ知ってるのです?」


「買う現場を見てたのよ。相当欲しそうにしてたね」


「うふふ。見られていたのですね。以前の鉢が窮屈になってきたので新しくして植え替えたのです。─あの盆栽は父から受け継いだ物なのです。盆栽はそうやって代々受け継がれて育てるものなのだそうです。僕がお祖父さんになってもあの盆栽はまだまだ大きくなるのでしょうね」


「いいね。そういうの素敵」


「葉菜子さんの方が素敵です」


巽伸太郎は浴衣に手を入れると葉菜子の背中に触れた。

そして、首筋にキスをし、さて次は柔らかい胸に──と思ったところで「調子に乗らない」と葉菜子に小突かれた。


「そういうところも素敵です」


その言葉に葉菜子は巽伸太郎の唇に優しくキスをした。




嫉妬なんてものは葉菜子の人生の中で滅多に起きるものではなかった。


あの子の持っているカチューシャが自分の愛用しているオバサンみたいなそれより可愛くても、あの子が葉菜子の好きな人と付き合っても、まぁ、仕方がないとかどうにもならないし─特にどうかしようとは考えなかったが、とかそう思っていた。

それはそこまで手にしたいものではなかったからそう思うのだろうと自分で分析する。


しかしそれが、よりによってこの歳に─34にあいつが原因でおきるとは思っていなかった。

本当に、情けない。

その思いは今まで経験したことのないような不安や孤独だった。

それは今がとても素敵で潤っている証拠であり、その幸せと不安とで生じる『差』が原因かもしれない。


─巽伸太郎め。


葉菜子はパソコンを見る巽伸太郎の横顔を睨む。

睨む。

睨む。


─おい、睨んでるんだからこっち見ろよ。今までなら見てたじゃない。


─嬉しそうにしてたじゃない。


─なんで?


その原因は巽伸太郎の正面に座る二十五歳の園田咲希。

ウェブ管理部の日内が妊娠をきっかけに退職し、変わりにこの女が入社してきたのだ。


名前からして可愛い。

もちろん、容姿も可愛らしい。


鼻にかかる、甘えるような声。

目を大きくするメイク、わざとらしく尖らせる唇にちょっとだけ頚を傾げる仕草、どこかのファッション雑誌そのままの服装。


─ん、まぁ。可愛いんじゃない?


女たちから見ればその程度の感想だが男性陣から見れば違うのだ。


そんなものだ。


彼女は男だろうが女だろうがお構い無しに甘える。

男はすぐに甘やかす。

女はそれを見て男は何歳になっても騙されると冷やかす。


巽伸太郎は園田咲希に話しかけられても最初のうちは無愛想だった。


─そうだ。

─私が彼女だから。園田咲希に興味なんてなかったに違いない。


─巽伸太郎め。


園田咲希は何故か巽伸太郎になついている。

初めのうちは気にしていなかった。

どうせ、すぐに違う男に媚びるだろうと思っていたからだ。

それに、巽伸太郎には自分がいるから、彼はそれを弁えていると高を括っていた。

しかし、園田咲希は巽伸太郎から離れない。

日が経つにつれ、親密化していっているように思う。

そう思ってから嫉妬という哀れな感情を持ち始めた。


─何でよ。


巽伸太郎よりも見映えの良い男なら沢山いるし、愛想のいいやつも沢山いる。


─きみには似合わないわよ。だから手を引きな。

─シッシッ


その間にも「巽さぁん。これ、どう思います」とデザインについて話し掛けている。


静電気の作用でまとわりつくビニールのように鬱陶しい。


─近い。

─顔が近いぞ。


巽伸太郎は時々うふふと微笑みながらそれに答える。


─おい。

─殴ってやろうか。


よく見れば頬を赤く染めている。

もっとよく見れば、園田咲希の腕が巽伸太郎の腕に密着している。

彼女の目の前で堂々と。

嫌がる素振りや、振り払うこともしない。


こいつも男なのだと思った。

くだらない。

エロ男。


─その伸びている鼻の下を切って短くしてやろうか。


二人を見ないようにするが園田咲希の声が耳につく。

苛苛するので少しリフレッシュ。

給湯室に逃げ込み皺が濃くならないようにと眉間をマッサージする。


─あぁ、もうっ!何なのよ。


自分のマグカップに入れるのは巽伸太郎が大切に飲んでいる珈琲だ。

親戚から貰ったという、たまにしか飲まない高級な物らしい。

巽伸太郎には秘密にしているが、最近こうして頂いている。


─飲んでやる。

─飲んでやる。


苛苛。


─馬鹿馬鹿。


苛苛。


─何、甘い声に溶けそうになってるのよ。

─私のこと、忘れてるわけじゃないでしょうね。


そう思っている自分が嫌になる。

悲しくなる。


巽伸太郎は正直なのだ。

女性には馴れていないので、緊張してああなっているのだ。

仕方がない。

仕方がないのだ。


─あのエロ男め。

─仕方がない事などない。


ポットからお湯を注ぐと芳ばしい薫りがフワリと届き、少し落ち着く。


─よし、戻ろう。


それを持ってデスクに戻ると二人は居なくなっていた。


─あらら、どこへ行ったのかしら。


不安だ。

何か疚しい事をしてたりしないか不安だ。

巽伸太郎の性格上そんな事はないはずだが、園田咲希の素性は知らない。

あの女から仕掛けられて断れずに一線を越えたり越えなかったり。

越える寸前だったり。

そもそも越える気まんまんだったり。


頭の中が大変な事になっている。


─あぁ、ちょっと、どうしよう。どうしよう。泣きたいよう。こんな自分が情けないし。


「沖田さん、どうしたの?」と禿げ上がった上司の藤堂が観音様のような微笑みで話しかけてくる。


眩しい。

比喩ではない。

電灯が反射して本当に眩しいのだ。


少し笑えたので気が紛れた。


「そんな難しい顔して。何かわからない事ある?」


藤堂は温厚である。

しゃべり方も、性格も。

まるで祖父のようだ。


「いいえ。すみません」と軽く頭を下げるとジイジは微笑んだ。


「あまり溜め込んじゃ駄目よ。分からない事も不満もね。ストレスになっちゃうよ。こうなっちゃうよ」とジイジは笑いながら今はもう毛などない頭をつるりと撫でた。


「はい。ありがとうございます」と微笑む。

苦笑いに近かったかもしれない。


巽伸太郎の席に視線を戻すと、今度は園田咲希のデスクで話をしている。

園田咲希の背後に巽伸太郎。


─近い。

─おい。

─近いってば。


葉菜子はマグカップに口をつける。

味が分からない。

味どころではない。


帰りたい。

こんな空気耐えられない。

巽伸太郎なんて嫌いだ。

結局、お前も若い女が好きなのだ。


葉菜子は再び給湯室へと向かうと、まだ一口しか飲んでいないマグカップの珈琲を全て捨てた。




晩ごはんを食べ終わった頃に電話がかかってきた。

巽伸太郎だ。


滅多にかかってこないのだが、出ないと決めた。

しかし、その決心は直ぐに打ち消された。

ジイジの言う通りだ。


言ってやる。

不安だったと言ってやる。


そう決めたと同時に電話が切れた。


─あ。


─切れた。



─笑える。



もしかしたら園田咲希と夕食を共にするとの報告だったのかもしれない。

もしくはそれの事後報告。

その後もよろしくやったという報告かもしれない。


不安は不安を呼び寄せ小さな渦から何でも吸い込む大きな渦へと変化する。


うだうだ考えているのが嫌だ。

明日が来るのが嫌だ。






しかし、それを止めることは出来なかった。

誰も、時間を止めるなんて事はできないのに、何故そんな馬鹿な事を望むのだろう。


今日も新しい日が始まる。

嫌な一日だ。


相変わらずの別出勤なので、葉菜子が会社に到着した時は既に巽伸太郎はお茶を飲んでいた。

葉菜子と目が合うと微笑んで軽く挨拶。

それだけなのに凄く嬉しかった。

いつも通り。

私のこと忘れてるわけじゃなかったのだ。と思ったその時、園田咲希が「おはようございます」と巽伸太郎に近寄る。

そして、小声でこう言ったのが聞こえてきた。


「昨日はありがとうございました」


それを聞いた葉菜子は今までにない素早い動きで巽伸太郎を睨んだ。

さすがに不味いと感じたのか、巽伸太郎はこちらをチラリと見て園田咲希に愛想笑いを投げた。


─はいはい。そうですか。そういう事ですか。

─分かったよ。悲しいけど。分かったよ。


葉菜子はその場で眉間をマッサージする。


何故か苛苛しない。

帰りたい。

今はもうそれだけ。


なんとか仕事をこなした。

巽伸太郎と園田咲希の関係を気にかけず、無視を決めた。

あの二人がそういう関係になると分かれば、何となく気持ちは落ち着いた。

とても悲しいけど。


今日はお疲れ様。

エステに行きなさい。

そして好きな物を飲んで、美味しい物を食べなさい。

気持ちよく眠りなさい。


そう自分に言い聞かせる。


そして、それを行動に移した。


エステに行った後、近所のスーパーで今日は遠慮なしに買い物をした。


明日は休みだ。

一人で潰れてやる。

エステを台無しにしてやる。


化粧を落として部屋着に着替える。

音楽を流し、おつまみをこれでもかというくらいにテーブルに広げ、アルコールを手の届く範囲に置く。

時刻は午後八時。


─食べて飲んでやる。


葉菜子自身、こんなに荒れるのは初めてだった。

失恋しても気持ちを切り替えるのがとても早かったので、正直今の状況には戸惑っている。

こんなに巽伸太郎の事が好きなのだ。

そう自覚して涙が出てきた。


好きなのに。

好きなのに。


こんな歳で嫉妬なんて恥ずかしくて誰にも言えない。

本当は今すぐにでも会いたいのに。

わたしだけを見てほしいなんて、言えない。


涙は出始めると止まらなくなった。


ワインをマグカップになみなみとつぐと、一気に飲み干した。


酔うのだ。

酔わないと嫌な事ばかり考えてしまって眠れないから。


電話が鳴る。


無視だ。

無視。


巽伸太郎だったので無視をする。


─どうだ。

─無視される心境は。

─悲しいだろう?


─悲しいと思ってくれてるのかな?


長めの着信は葉菜子の強制的な拒否で切れた。


それから暫く飲んで食べて悲しい気持ちに慕って心を痛めて、そしてまた飲んで食べて─と繰り返した。


まさしく負のスパイラルだ。


よし。

ならば落ちるとこまで落ちてやろう。


部屋の電気を消す。

室内はオーディオプレーヤーの青い光だけになった。

これだとさすがに手元が見えないので、アロマキャンドルを部屋の四隅に置いたら、逆に何かの儀式のように見えた。

呪いの儀式だ。


元の位置に戻り、再び飲み始める。


そこで気が付いた。

もうワインを二本も空けているのに眠くならないし意識もある。

いつもならこんなに飲むことはない。

一人では一本も空けられないのだ。


おかしい。

こんなにも酔いたいのに。

アルコールまでも葉菜子を裏切ったのだ。




すると突然玄関の方でごそごそと音がするのでドキッとした。


─ど、泥棒?


─鍵はかけた。うん。確認したから間違いない。


ガチャンと解錠した音が部屋に響く。


─ちょ、ちょっと!誰。何?失恋した上に泥棒?勘弁してよ。


と天を仰ぐように上を見る。

巽伸太郎ではない。

何故なら鍵は渡していないからあり得ないのだ。

そこでふと思う。

西島博也は持っていた。

だが、返却してもらったのですぐにそれも違うと確信する。


もう泥棒しかない。


ここに住人が居ると知れたら泥棒はどうするのだろうか。

まず、こんな時間に侵入して何をする気なのだろうか。


─こんな時間?

─今何時?


とりあえず、住人が帰っていてもおかしくはない時間だ。

物取りではないのだろうか。

それなら余計に怖い。

鉢合わせの住人が殺されると聞いた事がある。


キイと扉が開いた。

そして、ガチャと閉まる音が聞こえると、施錠する音も聞こえてきた。


それは確実に居る。


パチンと電気がつけられた。


泥棒は電気をつけるものなのだろうか。と疑問に思う。

そして、リビングへの扉に填まるすりガラスに人影が見えたその瞬間、とても恐ろしくなった。

しかし、どうする事もできない。

恐怖で動けないのだ。


─ううう。怖いよ。助けて。嫌だよう。


ノブが回り、扉が半分開いて影が声を出した。


「葉菜子さん?居ますか?」


─お?


「葉菜子さん?」


─あ。


「葉菜子さん?」


─え?


「た、つみくん?」


「あ、いるんだ」と電気をつけた巽伸太郎。


眩しくて目が開けられない。


「どうしたんです?これは何かの儀式?」とキャンドルに近づく。


「あ、あなた。何で?か、鍵──」


巽伸太郎は「ああ」と言ってニヤリとした。


葉菜子の目の前につまみ上げられているのは見覚えのある鍵だっだ。

立ち上がって寝室に入り、それがあるはずの小箱を開ける。


ない。

西島博也から返されたスペアキーがない。


背後の巽伸太郎を見る。


「ここから取ったの?」


「だって葉菜子さん、なかなか鍵をくれないし」と唇を尖らせる。


「馬鹿!私、怖かったんだから!泥棒に殺されるとおもったんだから!」


「ごめんなさい」


「馬鹿!あんたなんて知らない!何よもう!信じらんない!馬鹿!もう!嫌だ!」


何に対しての抗議なのか自分でも分からないくらいに怒鳴った。


「すみませんでした」と必死に謝る巽伸太郎。


「ご、ごめんなさい」


「何よ!人が苦しんでるってのに!信じらんない!本当に─何なのよ」


涙が止まらない。


「キャンドル灯したら儀式みたいになるし、ワイン飲んでも酔えないし、泥棒かと思って怖い思いまでしたのに!何よ!もう」


馬鹿だ。

本当に。

私が馬鹿なのだ。


「酔えないのは当然ですよ。だってこれ─ノンアルコールって。うふふ」と瓶を見せるのでそれを奪い取る。


─本当だ。

─ノンアルコールだ。

─そりゃ、酔えないよ。


「帰って」


「へ?」と間抜けな返事をする巽伸太郎。


「帰って。嫌いだ。あんたなんて嫌いだ。可愛い子と仲良くしてればいい。別れてあげる。鍵を返しに来たんでしょ?勝手に持って行った鍵を勝手に返してくれればいい」


「お、おい」と巽伸太郎らしからぬ反応をする。


見合う。

いつもの巽伸太郎ではない。

深刻な表情だ。


「帰って」


「嫌だ」


「帰って」


「嫌だ」と葉菜子の腕を掴もうとするが何故かそれをすり抜けてしまった。

暫くの静寂。


「あなたは私をどう思ってる?」


「好きです。以前よりももっと」


「嘘だ」


「嘘じゃありません」ときっぱりとした口調で答える。


「嘘だよ」と言う声が震えてしまう。


「嘘じゃない」


「私よりもっと好きな人がいるんでしょ?」


こんなにも苦しんだのだ。

悲しんだのだ。

不安になったのだ。

少しでもそれを分かってほしかった。


巽伸太郎は驚いた表情を見せる。


「葉菜子さんがそんな風に思っていたなんて知らなかった。──それは園田咲希さんの事ですね?」


返事の変わりに涙が出た。

彼の口から彼女の名前が出た。

核心に迫る時が来たのだ。


「他人のプライバシーを明かすのは良くないとは分かっていますが、今は葉菜子さんと僕の一大事です。だから言います。園田咲希さんは──なんと言いますか──女性のようでいて、元は男性なのです。まぁ、知っている方も多数いらっしゃいますし、隠す事でもないとは思うけど、敢えて言い触らす事でもないと仰っていました」


「へ?」


「昨日、園田さんにね、僕と葉菜子さんの関係を告げました。彼女は「もし、沖田さんが私と巽さんの仲を不安に思っていたら、遠慮なく私の事を話してほしい」と言っていました。何故、彼女がそんな事を言い出すのかと思っていたのですが──そういう事だったのですね。彼女のプライバシーも大切だとは思いますが、僕にとっては貴女の方が大切です。でも絶対に、誰にも、言わないで、下さい。葉菜子さんを信じています」


「は─あ、うん。約束する。でも、何故、それを巽くんに?」


結構なニュースをすんなりと受け入れられる自分に驚く。


「社内に想いを寄せる人がいるそうです。それは誰かとは聞きませんでしたが」


じわりじわりと距離を詰める巽伸太郎。


「貴女が──葉菜子さんが、そんなに思い悩むなんて思っていなかった」


そこで、巽伸太郎はうふふと笑う。


「何、笑ってんのよ。私が悩むことがおかしい?」と睨む。


─全てはあんたのせいなんだから。


「そうか、やっぱりそうだったんだ。うふふ。可愛い」


「何一人で納得してるのさ」


「珈琲ですよ。会社に置いている僕の珈琲。たまにしか飲まないのに随分減ったなと思っていたのです。葉菜子さんが飲んでるのかなとは思ってたんだけど、最近の減り具合が気になって。うふふ」


「な、何よ。飲んじゃったものは返せないよ」


「そんなことは言いませんよ。好きなだけ飲んでください。うふふ。ただ葉菜子さんは園田咲希さんに嫉妬されていたのですね。彼女に当たるわけにはいかないから腹いせに僕の珈琲を飲んだんだ。うふふ。可愛いな。うふふ」


急に恥ずかしくなる。

自分の幼稚な行動を思い返し赤面。


─ああ、もう。

─やっぱり馬鹿なのは私じゃないか。

─本当に恥ずかしい。


ニヤリと笑っている巽伸太郎から目をそらす。


恥ずかしくて見てほしくない。


穴があったら入りたい。

穴が無ければ壁に塗り込めてほしい。

とにかく、恥ずかしすぎる。


「はぁなぁこぉさん」と苛苛するような口調で名前を呼ぶ。


─私をからかっているのだ。

─巽伸太郎のくせに。

─もう、恥ずかしい!


「はぁなぁこぉさん」


そう言って顔を覗きこんでくるので背を向ける。


「あ、怒っちゃいました?」


「あはは。そうだね。怒ってるね。すごく怒ってる。もうね、噴火だよ、大噴火」


「こっち向いてください」


「嫌だ。怒ってるんだから」


「子供だなぁ」


「うるさい」


「何に怒ってるんです?」


その言葉にドキッとした。


「分からないの?」


「原因は─園田咲希さんの事ですよね。それは解決したものだと思ったのですが」


─そう。

─それだけなのだけど、それが解決した今、葉菜子の怒りの理由はない。


だからドキッとした。


「僕、女性のそういった柔らかい部分というのですか、そういう所に鈍いようなので。今後、葉菜子さんを怒らせない為にも」


─ああ、どうしよう。今さら怒りが鎮まったなんて言えないし。謝るのが一番なんだろうけど、何と言えばいいのか分からない。


「あなたは私が怒っている方が好きなんじゃないの?」


─被虐体質でしょ?


「うふふ。嫌いじゃないです。でもやっぱり好きな人には笑っていてほしい」


─笑っていてほしい、か。

やっぱり──巽伸太郎。

私は貴方が──


「うふふ。使っちゃおうかな。──以前、葉菜子さんが何でもするって言ってたあれ。今使います。だからこっち向いてください」


仕方ないなぁというような表情を作りゆっくりと向き直る。


「あーあ。こんなに泣いちゃって」と巽伸太郎が葉菜子の頬に触れる。


その手つきは優しくて温かくて気持ちが良い。


「うふふ」


巽伸太郎の笑顔。

手離したくないと思った。


「もっと使い道あったでしょ?」


「今使うのが僕にはベストだったのです」


「──ごめん。変に勘違いして─嫉妬─までして。子供みたいに拗ねちゃった」


「子供みたい。可愛い。うふふ」


「その、可愛いってのやめてよ。もう大人なんだから。似合わないよ」


「照れてる葉菜子さんも可愛い」


「馬鹿にしてるでしょ?」


「してませんよぅ」


「─情けないよ。いい大人が取り乱して」と苦笑い。


「大人こそ取り乱すものです。一生懸命な証拠。それだけ僕の事が好きなんですよ」


改めて言われると赤面。

よく自分でそんな恥ずかしい事が言えるね。


「調子に乗るな」


─嬉しいけど。


急に巽伸太郎が葉菜子に抱き付いてきた。


─これだもん。反則だ。

こんな、不意にされると──


「もっと僕に甘えてください」


見透かされた。


「僕だって貴女を包めるんです」


「それは身体でってこと?」


「またそんな事言って。ふざけないでください」


「子供みたい?」


「そう。意地を張ってる子供」


「意地」


「僕には分かっていますよ。葉菜子さん」


巽伸太郎が葉菜子の顔を正面から見る。


「ほら。側にいるだけで安心するでしょ?」


巽伸太郎の顔が赤くなっている。

照れているのだ。


「だから、甘えてほしい。僕はいつだって応えるから」


─いいの?

─甘えても。


甘え下手なんだけど。


今までは甘えさせていた。

だから自ら相手に包容力を求める事は無意識に避けていた。

自然と受け止める側にまわっていたのだ。

それが今まで当たり前になっていたが、巽伸太郎に出会って気が付いた。



葉菜子は巽伸太郎の腰に手を回し、胸に顔を預けた。

きつく抱き合う訳でも、キスをするわけでもない。

ゆったりと、ふんわりと。


こんな風に寄り掛かるのは初めてだ。

彼の鼓動がしっかりと伝わる。


これだけで二人が溶け合い一つになった気がする。

巽伸太郎が髪を撫でてくれた。

優しく、ゆっくりと。


「巽伸太郎」


「はい」


葉菜子は巽伸太郎の胸から頭を上げて彼の目を見た。


「大好き」


巽伸太郎は優しく笑う。


「はい。僕も大好きです」


今晩も明日の晩も一緒に居たいと告げよう。

明日の朝も明後日の朝も隣にいてほしいと言ってみよう。


彼は優しく抱きしめてくれるから。


END


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