第一一話 声聞界
悪夢に堕ちて――――
◇
「……ぉ……」
誰かの声が聞こえる。
少女の声。久しく聞いたことのない、懐かしい声。大切な人のもの。
「……ぃ……と……」
どうしてだろう。
その声を聞いていると、昔のことが思い出され――、
「――ねえ、尊ってば!」
急にハッキリと聞こえてきた声によって、黒宮尊は我を取り戻した。
ここは……どこだ?
周囲を見渡すと、見慣れた/懐かしい、街並みだ。
コンクリートのビル群。等間隔に立ち並ぶ街路樹。行き交う人々。
日本の東京――尊の故郷だ。
(あれ? 俺、こんなところにいたっけ?)
先ほどまでは、別の場所にいた気がするのに。
けれど、思い出そうと頭を捻ってみても、記憶には黒い靄がかかっていた。
「……ちょっと、聞いてる?」
その声が聞こえたのは、視界いっぱいに何かが滑り込んでくるのと同時だった。
完全に意識の外からの出来事に、尊は驚いて飛び上がった。
「おあわぁ! て、敵襲、敵襲! やっておしまい獣耳ッ!」
「殿中でござるか?」
「ここ外だけどねっ!? ……って、ぇえ? あれ? 玲貴? なんでこんなところに?」
あれ、玲貴とは一緒にいなかったはず。っていうか、会えなかったはず。
いや、会ってなかっただけか。そうだ、いろいろ言い訳して、自分が会おうとしなかったから……。
「白昼夢でも見てた?」
「……そうかも。や、夢の内容は憶えてないんだけどさ。なんだかなー、覚める前、すげぇ辛かったのは憶えてる」
「涙が出るくらい?」
え? と、尊は自分の目元を拭った。
湿った感触。どうやら本当に泣いていたらしい。
ぬめりのある赤い液体が染み付いた人差し指を、ぺちゃぺちゃと親指と擦り合わせながら、ミコトは左手で頭を掻いた。
「マジかよ、恥っずかし! 夢で泣くとかガキじゃんかっ」
「そんなに怖い夢だったの?」
しかしそう訊かれると、素直に頷くことができない。
『悪夢』ではなく『夢』と、自分は言う。自身も気付かない無意識だった。
気になって、もう少し深くまで記憶を遡る。
黒い靄の隙間から見える景色は、赤と黒がごちゃごちゃになっていて、ひどく気持ち悪い。
けれど、それだけじゃない。そうじゃなかった、はずなのだ。
「怖かったし、痛かったし、辛かった。それはガチなんだけど――そんなつまんねえことが帳消しになるくらい、楽しいことがあったんだ」
憶えていない、楽しかった思い出。
守りたいと思った人たち。充実した生活。
忘れちゃいけなかったはずなのに。
罪悪感と寂寥感で、また涙が溢れてくる。目から、鼻から、口から、耳から、頭皮から、爪の付け根から、毛穴から――涙が止まること知らずに溢れ出し、地に赤い水溜りを作った。
すると、玲貴が微笑んだ。すごく綺麗で、見惚れてしまうくらい、可愛くて。
ランランと鼻歌を歌いながらスキップする彼女の、爛々と輝く真紅に瞳に、尊は魅入られた。
「そっか、よかった」
玲貴はとても嬉しそうに嗤って、
――そのまま、道路に跳び込んだ。
「……………………………………………………は?」
それはあまりに唐突で。
迫る車。
助けなきゃ。
俺は、死なないんだから。
死なないから、誰かのためなら、俺が一番苦しまなきゃ。
だって、俺以外はみんな死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ。
だから俺が、一番前に立って、みんなの脅威を受け止めて、死んで死んで死んで。
「ぁ……ァアアァァァアア!!」
踏み出し、玲貴に駆け寄ろうとして――足を何かが拘束した。
「ンだよッ!?」
それを見た瞬間、尊は絶句した。
尊の足を捕らえていたのは、赤い水溜りから這い出てきた、黒宮尊自身。
『行かないで』
『死んじゃうよ』
『死は苦しいよ』
『どうせあいつは他人』
『なんで苦しまなきゃいけない』
『放っておこう』
『見捨てよう』
『そうすれば、俺は死なない』
黒宮尊の弱音。醜悪な自己愛が、尊を掴んで放さない。
「……めろ、やめろォォォォォォ!! 放せ、放せェ……!! 行かなきゃ、俺が助けなきゃ、俺が死ななきゃいけないんだ!!」
『わからない』
『どうして?』
『なんで?』
『意味不明』
『理解不能』
『わけわかんない』
『生きたい』
『生きたいよ』
『生きたいんだ』
『俺は――生きていたい』
尊の願望。弱い感情。拭い去れない人らしさ。
そんなものはいらない。人の心なんていらない。
だから、
「黙れだまれ、黙れ黙れ黙れ黙れ!! 俺は死なないんだ! 『再生』があるんだ! 俺が一番苦しまなきゃ、だから――――!」
なんとか抜け出そうとしていた尊が次に聞いたのは、安堵によって漏れた言葉。
『もう遅いよ』
足の拘束が外れ、尊はバランスを崩し、前に倒れ込んだ。
助けに行ける。玲貴を守れる。死にに行ける!
「アヒ、アフヒャ、グヒッキっ」
嗤う。満面の笑みを浮かべる。
立ち上がる手間さえを惜しい。地を這ってでも構わない。
尊は玲貴の元に駆け付けようと、顔を上げて――、
「尊のせいだよ」
その瞬間。
玲貴が、車に撥ね飛ばされた。
暗転
「うぁ、ああぁぁああああああああああああああああああああ!?」
そして、ミコトは跳び起きた。
錯乱状態のまま辺りを見渡すと、そこが洞穴だとわかった。
視界に、二人の少女の姿が映る。
彼女らは訝しげに、絶叫したミコトを見ていた。
サーシャの赤い瞳が、心配そうに揺れる。
「どうしたの、ミコト? 泣いてるの?」
「な、泣いて……? あ、あれ?」
どろりとした、真っ赤な涙。
ああ、恥ずかしい。夢は夢でも悪夢だ。悪夢を見て泣くだなんて、ガキかよ。
「だい、じょうぶ、だ。ああ、だから、心配いら――」
言おうとして、彼はいつの間にか、川辺に立っていた。
右手には、サーシャの左手が握られている。その先に行かないよう、強く握り締めて。
視線の先で、血が舞い上がった。
果敢にラウスに立ち向かって行ったレイラが、心臓をレイピアで貫かれ、絶命した。
サーシャの絶叫。
ラウスが迫る。
何がなんだかわからない。
さっきまで、洞穴にいたはず――。
赤に濡れた漆黒の凶刃。
殺人鬼が、ラウスが迫る。レイピアの切っ先が、迫る。凶刃が、迫る。
――死が、迫る。
動けない。避けられない。すべてが間に合わない。
死にたくない。こんな訳がわからない死に方、嫌だ。
『行きたい』
『死にたくない』
『見殺せ』
『盾にしろ』
自分の声。
クソッタレな卑しい感情が、漏れ出したもの。
ミコトは咄嗟に、それに従う。
その結果は、当然の帰結。
少女を盾に。
ミコトは尻もちを付いて倒れ込む。
サーシャの心臓を、レイピアが貫いた。
口から血を吐きながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「ミコトのせいだよ」
サーシャが、絶命する。
暗転
「やっぱり、駄目なんじゃねえか……」
その手に、サーシャの母の形見である青い結晶を握り締め、ミコトはぽつりと呟いた。
ガルムの谷の上から、その光景を見下ろして、やっぱりな、と思う。
やはりサーシャは、魔王教に勝てなかった。
バーバラに捕えられ、檻の中に入れられる。
やはりグランの復讐は、遂げられなかった。
《浄火》の使徒の炎に焼かれ、骨まで焼き尽くされ、死んだ。
やはりレイラは救えなかった。
魔王教徒どもに凌辱され、女……否、人間としての尊厳を殺され、舌を噛み切って自害した。
「勝てるわけ、ねえんだ」
『だからわたしは、今度はわたしが、レイラやみんなを助けたい!』
「なーにが助けたい、だ。俺を放り出しといて、ふざけんな」
『ミコトの言った通り、ずっと卑下してきた。わたしはわたしが、あんまり好きじゃない。でも、それでも、好きになりたいって思ってる!』
「死んだら意味ねえだろ、馬鹿。俺じゃねえのに、死んだら終わりだ」
『――ミコトは、優しい人だよ』
「嘘つけよ。俺は、死なないくせに、皆を見捨てたんだ」
『わたしは形見よりも、ミコトのほうが大事だから』
「なんで、俺なんか、大事だなんて言うんだよ。ほんっと、頭おかしいぜ、お前」
俺はこんなに駄目で、クズで、ヘタレで。
みんな命を賭けて戦っているのに、自分は生き返るくせに、こうして逃げている。
この状況は、誰が招いたものだ。
一歩踏み出せば乗り越えられた運命。その一歩がこうなったのは、誰のせいだ。
「……俺の、せいだ」
暗転
「起っきろーい、フリージスぅ!」
布団を剥ぎ取り、その下にいた者を大気に晒す。
熟睡していた美青年が不快そうに身動ぎするのを、ミコトはニヤニヤと悪戯する。
フリージスの体を揺すったり、フライパンを楽器のように鳴らしたりして、眠りを覚ます。
「リー……ス。す、まない、な。少し、肩を貸してくれないかい?」
寝惚けてミコトをリースと見間違えるフリージスに、ミコトは笑い出すのを抑えられなかった。
「あは、あはっははは! やべえクソ面白れぇ! くっ、くくくはは…………ハッ!」
背後に気配。
振り向くと、そこにはフリージスに仕えるメイド、リースがいた。
無表情なのに、この圧迫感。
これが覇気か!
「何をしていらっしゃいますのでしょうか、ミコト様」
「言葉遣いどうしたの!?」
「お気になさらないで頂きたい。貴方が知る必要はないでしょう?」
「敬語が崩れ始めた!」
それから、ぎゃいぎゃいと騒いだ――そんなことが、あった気がする。
すべて過去。決しても戻らない、嘘と偽りのセカイ。
――紫紺の極光が閃き、サーシャの左腕が消えた。
……お前らのせいだ。
暗転
「――改めまして。オレは《無霊の民》の戦士、オーデ・アーデ・ムレイ。このたびは、ラカとこの身を救っていただき、ありがとうございました」
オーデ……。
「オレは、皆様に救われました。もしも危機が訪れたなら、この拳を以て敵を討ち滅ぼし、この身を以てお守りすることを――誓います」
やめ、て、くれ。
誓いなんて、いらない。
そんなの、いらないんだ……。
「……そして、申し訳ありません。不躾な願いを、聞いていただけないでしょうか?」
俺に押し付けるなよ。
願いだなんて、そんなの、自分で叶えろってんだ。
「オレが、もしもいなくなったら……。ラカを、支えてはくれませんか? あの子はけっこう、年相応なところがありますから」
だから、お前でやれってば。
ラカだって、お前がいなきゃ、駄目なんだから。
――場面が飛ぶ。
紫紺の極光が、ミコトに迫る。
その射線上に、オーデが割り込んだ。
オーデは微笑んでいた。
卑屈さの欠片もない安堵、けれど少しの未練と後悔。
「――ラカを頼みやす」
そして、死ぬ。
何も映さない。虚ろな目が瞬き一つせず、黙してミコトを見つめている。
俺のせいだ……。
暗転
ラカの表情から、感情が消えた。
力が抜けたように、地に座り込む。
「そ……んな、の。ねーよ……。オーデは強くて……。オレを守ってくれた、すげー奴なんだ……。――誇り高い、《無霊の民》なんだ!」
「…………」
「大切な人なんだ。仲間で、家族だったんだ……」
悲痛な顔。震えた声。悲哀の涙。
そこにいたのは、たった独りで泣いている少女だった。
「かえ、せ……」
その少女は感情の捌け口を探して、目の前に立つ者に狙いを定めた。
「――返せよ、ミコトぉッ!! オレたちの誇りを! 家族を! 命を! 幸せを!! ――オーデ・アーデ・ムレイをッ!!」
そうだ。その通りだ。
オーデがミコトを助ける必要など、まったくなかったのだ。
ミコト・クロミヤは生き返る。『再生』がある限り、真の意味で死ぬことはない。
そんな反則的アドバンテージがありながら、ミコトは彼らに『再生』のことを話さなかった。
グランやフリージス、リースたちと合流した、四カ月前とは違う。
説明しなければならない状況など訪れなかった。いや、違う。そうじゃない。
ミコトは『死』というモノを、深く認識した。だから、好んで話したくなかった。
そうして気持ち悪いと思われ、忌避されるかもしれないと思うと、とても怖かった。
二カ月という長い時間があったのに、二人を心の底から、信頼できなかった。
もし、話していたなら。
オーデはきっと、自分を見捨てていただろう。
彼が死ぬことは、絶対になかったのだ。
「………………。かえし、てよぉ……」
目の前で、独りの少女が泣いている。
彼女は今、弱っていて、助けが必要なのだ。
その役目は、自分じゃない。
オーデの役目だ。決して、自分じゃない。
なのに、オーデは死んでいて。
彼はミコトと違い、生き返ることはない。
そして、彼が告げた最期の言葉が、脳内で勝手に反芻される。
『――ラカを頼みやす』
そうだ。
俺はこの命の全てを費やして、オーデの役目を引き継がねばならない。
自分に、オーデの代わりなんてできないけど。
彼女を殺さんとする『死』を、請け負うくらいならできる。
暗転
「――妾の騎士にならないか?」
ごめん、アスティア。
俺、やることがあるんだ。
セイギ。
使徒。
魔王。
勇者。
魔王教。
エインルード。
それらから、皆を守る。守り通す。
そうして、敵がいなくなったら。
また、ここに戻って来よう。
――俺はいつか、ここに戻って来る。必ず、約束だ。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます。指切った。
俺の故郷に伝わる、絶対約束を守りましょうね、っていう儀式かな。破ったら指を切られて、万回殴られて、千本の針を飲まされるんだ。
「ふん。破ったら、本気でするからな。し……信じているからな」
ああ、信じてくれ。これでも俺、けっこう誠実で通ってるんだ。
きっといつか、戻ってくるよ。
約束だ。そう約束は守らないと。
そうじゃなきゃ、指を切られて、万回殴られて、千本針を飲まされるからな。
約束は、守らなきゃ。
戻らなきゃ。
俺は――――約束だから――――ぁ――――。
暗転
「尊、友達はできたかー?」
「うっせー。二人いりゃ十分だよ」
「はは、まあ量より質って言うしな! でも、もうすぐ中学生だ! 環境が変われば、色んな奴らと会えるぜ!」
「俺はここままがいいんだけどなぁ」
場面が切り替わる。
目の前に、黒宮家の墓がある。
その墓に、一人の男の遺骨が、納められたところだった。
墓石に、新たな名が刻まれる。
『黒宮誠』、と。尊の、父の名が。
「どうして、こんなことに……」
母が泣いている。
慰めなきゃ。
「…………。――母さんは、俺が守るよ」
……そう、誓ったくせに。
暗転
――寒い。
ざらざらしたコンクリートの上に、クロミヤミコトは倒れていた。
体中がボロボロだった。
不思議と痛みは感じなかった。ただ、体の芯が冷えていくのだけがわかった。
左手の血が垂れて、左目に入った。曇天の空が赤く染まる。そこでようやく、空が曇っていたのだと気付いた。と、空から何かが降ってきた。――あ、雪だ。
赤い、雪。
血に落ちて、べちゃりと、粘着質な音を立てる。
世界が赤く、染められていく。
近付いてくる、死の感覚。
生きたいのか、死にたいのか。もう、自分でもわからない。
でも、守った。
車に轢かれそうだった幼馴染を――玲貴を、救い出したのだ。
さて、玲貴はどこだ。
倒れたまま尊は、辺りを見回した。
――すぐ近くに、傷だらけで倒れる、玲貴の姿があった。
「ぁ……、ぁぁ……」
間に合わなかった。
尊の手は、届かなかった。
玲貴の手を握る。彼女の手は温かくあるべきなのに、何も感じない。
尊の感覚も薄れていたが、なんとなくこう思う。――冷たい。
(これが、死ぬってことか……)
そんなの認められない。認めたくない。
「待、てろ。すぐ、たすけ……」
何もできない。
体は動かない。
声も出ない。
「み、こと……」
「しゃっちゃ、だめ、だ……」
玲貴の目から、光が失われていく。
どうして玲貴が死ぬ。誰のせいだ。誰が殺した。
世界に奪われる。彼女が消えてしまう。
そんなの駄目だ。なのに、世界は不条理だ。
やめてくれ……。
これ以上、見せないでくれ……。
暗転
「尊のせい」
「ミコトのせい」
「お前のせい」
「お前が死ねばよかったのに」
「俺が死ねばよかったのに」
「敵を殺さなきゃいけなかったのに」
「殺したかったのに」
「俺を殺さなきゃいけなかったのに」
思考が。
感情が。
心が。
命が。
染まる。染まっていく。
赤に。黒に。殺意に。狂気に。憎悪に。闇に。死に。
最後に残った意識は、ただ落ちる。
先の見えない闇の中へ。
落ちて、
落ちて、
落ちて、
落ちて――、
――――黒宮尊は、死んだ。
――――ミコト・クロミヤは、死んだ。