第一〇話 無間地獄
超巨大魔方陣。生命搾取『ライヴ・テイカー』が起動する。
青い光が溝を辿り、魔方陣の外周部から、内側へと迫ってくる。
光はついに、ミコトの元に到達した。
――それが、地獄の始まりだった。
「は――――ぁ」
最初は違和感だった。しかしそれは急速に不快感、そして激痛へと変じていく。
ミコトの生命力が、魂という器から強引に、堰を切ったように溢れ出す。
生命力は魔力へと精製され、体外へ排出するよりも早く、人体という器へと溜まっていく。
それはさながら、限界まで水を溜め込んだダムか、もしくは風船だ。
その例え方は正しかった。だからこそ、次に起こることは、当然の理。
許容量を超えたダムが決壊するように。
限界に至った風船が破裂するように。
――溜め込んでいられなくなった魔力が、ミコトという器を破り、決壊した。
「ぎぁ、ぐぃ、がぁぁ、ぁぁあぁアぁ……! ぁあああアァああぁぁあ、ぁああアあああああああああァァァあああアあああ!?」
体の穴という穴から魔力と、血液が漏れた。
一度穴が開けば、もう終わりだ。小さな穴は、放出の圧によって裂けていく。
穴がなければ、肌を引き裂いてでも、外へと流れ出す。
それでも、まだ終わらない。いつまでも終わらない。心臓が、臓器が、膨張する体に圧される。しかし臓器は押し潰されまいと、形を伸縮させる。
それはポンプだ。体の外へと魔力を押し出そうとする。さらにまた、ミコトという器が壊れていく。
鼻血や吐血、血涙などといった次元ではない。
文字通りだ。文字通り、毛穴や爪の隙間、穴と言う穴から血が噴出する。
全身から命という命が、ミコトという器を引き裂いて溢れ出す。
「いだぁ、いぎぃぁあぁ! がふ、ごば、がぶあばがぐぁづずじぎびぼバがガががががああブあがアががあがあがっがッががあがあがカああっがァっ!!」
耐えようとすることさえできない。我慢でどうにかなる次元ではない。
力を込めようとすれば筋が断裂し、閉じようとした目蓋が裂け、拳を握ろうとすれば骨が砕け、体を抱きしめようとすれば肌が破れる。
意識しないようにしても、断続的に襲い掛かってくる激痛を無視できない。飛びかけた意識は、一瞬で現実に引き戻される。
そこでまた、激痛を繰り返すのだ。
「ふ……リー、じすぅ!! や、べろぉ、やめでぐでぇ……!!」
ミコトが助けを求めたのは、フリージスだ。その男は、ミコトから搾り取られた魔力が集まる場所で、静かに佇んでいた。
フリージス・G・エインルード。かつての仲間。仲間だと、信じていた男。
彼に魔術を教えられ、中級魔術師に至った。言わば、ミコトにとって師に当たる人物だ。
魔術を教えられたのは、彼の思惑通りだと知ったけれど。それでもあの日々は本物だったと、思っていたい。
心のどこかでまだ、ミコトは信じている。フリージスがエインルードの言いなりになっているのだと。本当はこんなこと、したくないのだと。
けれど。
「僕は、リースの使命を果たす」
ミコトが縋った男の表情は、能面のような無表情で。ミコトが苦しむ姿に、罪悪感すら浮かべておらず。
二つの青い瞳は、氷のように凍て付いて、何も映していない。
ミコトは真の意味で理解した。
フリージス・グロウス・エインルードは、裏切った。
いいや、そもそも、味方ですらなかったのだ。
「リー、ずぅ……! おばえ、ふりぃじずの言い、なりに……なってんじゃ、ねえ!! いいどがよ、兵器で、てべぇばァ!?」
ミコトが向けた言葉に、リースは即答する。
「わたくしは――『アヴリース』は、フリージス様のために在ります」
ミコトは理解した。
リースはいつも通り、フリージスの味方であった。
いつもと、いつも通りと、変わらない。自分が兵器になってしまうというのに……。
「狂っでやがぐぅ! 狂人どもがァ!!」
「何よりも使命を優先する。これが、エインルードの価値観さ」
「いギぁがぐぎぎげあがっがっがあああがっがばばばバばばっばばばァばばばぁばあばばああ――――」
パン、と体内で何かが弾けた。
次の瞬間、ミコトは多量の胃液とともに吐血する。
胃と肺が、同時に破裂した。
「ばっ、がっ、ぁぶあっ!? 痛い、胃体いたい異体イタイ遺体ぃぁいあぁいあああいだだあいだいあぢあだいあ!! じぬぅ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬシぬシぬシぬシぬシぬシヌシヌシヌシヌぅぅぅ……!!」
電子レンジに入れられても、ここまで酷いことにはならないだろう。
伸縮する体に、内臓が押し潰される。膨張する臓器に、体が張り裂ける。
こんな激痛が、延々と続くのか……?
「いや……だ。いやだいやだ嫌だいやだイヤだいやダいやだいやだいやいやだいアだいだやぢだだいぢャだ……!!」
死にたい、と。すぐにでも終わりにしたい、と。
ここまでハッキリと思ったのは、初めてのことだった。
抗えない自殺願望のままに、ミコトは自分の首を掻き毟った。
首の皮膚が剥かれるとともに、爪が剥がれ落ちる。そんなちっぽけな痛みは、全身から伝わる激痛の海へ沈んで消えた。
小さな痛覚が麻痺した中で、爪が剥がれたことなど気にも留めず、とにかく我武者羅に掻き毟る。
「ぎゃギャぎゃだぢゃヂャぎあだがゴどあどあがゴあすやヤさどあかさだばがひびゃぎゃぎゲァだぞどびぼバばがだじゃがやあだダいだいばばッばば――――ァァ――――!?」
視界が霞んでいく。
感覚が遠ざかっていく。
熱が、水が、息が、体が。
自分という存在が、消えていく。
何か、やりたいことがあったはずなのに、それさえももう、思い浮かばない。
どうでもいい。
この地獄から解放されるのなら、もう、なんでも――
パン、と心臓が破裂する。
――――死――――
「は――――ぁ」
ほんの一瞬の暗転。
気付く前に、崩壊は始まっていた。
疑問を覚える隙間はない。
体の穴とい痛う穴から魔力と血液が漏れ痛て
穴が開い痛て放出の圧に痛よって裂け痛ていき
肌を引き裂いて痛でも外へと流れ出し痛て
心臓や臓器が膨張する体に圧され痛
しかし臓器は生き残ろうとポンプのよう痛に形を伸縮させ
体の外へ痛と魔力を押し出そうと痛して破裂し痛て
ミコトと痛いう器が壊れ痛ていって
全身から命と痛いう命がミコトを引き裂いて溢れ出し痛て
それは痛まるで限界まで空気を溜め痛た風船が破裂するか痛のよう痛で
ダムが決壊した痛かのよう痛で
筋が断裂し
目蓋が裂け
骨が砕け
肌が破れ
断続的に襲い掛かって痛くる激痛を無視でき痛なくて
死が見え痛て
死に近づい痛て
死に触れ痛て
死に包まれ痛て
死に飲まれ痛て
痛痛痛イタ痛痛
痛痛痛イタイ痛痛痛
痛イ痛痛痛痛タ痛痛痛
痛痛痛痛
ァ痛痛痛
痛痛ギ痛
痛痛痛痛ガ痛痛痛痛
「ががガがあがっがああががががアあっががっがあがッがあががガがっがっがアがっががっがァがあががああァあががあガあがああァァァァああアア!!」
どうして自分は、また同じ目に遭っているのだろう。
死んだはずなのに、なんで。
地面に溜まった己の血の海を見た。そこに映る、崩壊していく自分の姿が見えた。
そうか。『再生』か。死んだらそりゃあ、生き返るよな。俺だもんな。
わかった、次は大丈夫だ。
起きないようにする。だから大丈夫。問題ない。あんな苦しみを味わう必要はない。
だから早く早く早く早ク早く早く早く早く早ク早く早く早くハヤクハヤクハヤクハヤクハヤク死なせて――――
――――死――――
「は――――ぁ」
一瞬の暗転。
また、崩壊は始まっていた。
「だ……でぇ!? ぁンでぇ!?」
『再生』はタイミングを操作できる。
それは死んだ瞬間散っていく、魔力に宿った思念、残留思念と呼ばれるものが、『再生』を抑え付けるからだ。
この魔法陣はなんだ? この魔術はなんだ?
『ライヴ・テイカー』……魔力を吸う魔術だ。散っていった魔力も、例外ではない。
つまりミコトは、死んで終わることも、気絶すら許されない。
これから延々と、無限のように続いていくだろう死生の連鎖を予期して、体内の液体を吐き出していなければ失禁していただろう恐怖が、ミコトの心内を犯し尽くした。
「グがン……でイラ……ラが……お、デ……ざ、シャ……! だデがっ、ダレがッ……あァ!? たず、だずげで、だづげでぇ!!」
みっともなく喚き叫んでも、声が反響するだけ。
ただ二人、それを聞くフリージスやリースは、ミコトが死に落ちて行く様を無表情に見届けるのみ。
「だ、で……ゴないンだァ!? 誰も、だれもだべもばべも……!? 大事、だっでぇ……幸ぜに、なっでほじぃっで……言っでぐれだじゃないぎぁ……!」
もはやミコトに平静はない。
全身を芯まで突き刺す抉り穿ち押し潰し捻り出し切り裂く熱や冷たさ風や土や空や時や心や命や死や魔や偽善や依存や勝手や利己や正義や憎悪や畏怖や恐怖や悪意や殺意や使命や欲望が、何もかもがミコトという存在を捻じ曲げ歪曲させ歪めて壊していく。
叫び、喚き散らす言葉は支離滅裂で言語の体をなしておらず、しかし苦痛の意味だけはあって、固めたはずの覚悟と想いは砕かれた。
そんな中で、思ったのだ。
――どうして、誰も助けに来ないんだろう……と。
本当はわかっていた。この局面で、助けなんてこないってことぐらい。
それでも思ったのだ。その光景が、脳裏に浮かぶのだ。
サーシャが、言うのだ。
ミコトは死なないんだから、我慢してね、と。
レイラが、言うのだ。
アンタはどうせ生き返るんだし、後回しでいいでしょ、と。
グランが、言うのだ。
無限の命がある者より、たった一つしかない者を優先するのは当然だ、と。
ラカが、言うのだ。
テメーのせいでオーデが死んだ、と。
オーデが、言うのだ。
先に言ってくれれば、無駄死にすることはなかったのに、と。
みんなみんな、ミコトを放って、言うのだ。
どうせ死なないから。
生き返るから。
大事じゃないから。
俺のせいだから。
「ぁぅ、ぁぁ……。ぁぁ……」
絶望と失望。実際に言われたわけではないのに、まるで本当にそう言われたかのように、心が死んでいく。
信じたくなかった。それでも、心が納得する。
……そりゃそうだ。死なない人間より、死んじゃう奴のほうが、大事だもんな。
「ぅぇ、ぁぐぅぁ……」
赤い吐瀉物を血の海に撒き散らす。赤い汚物の海に沈む。
絆という繋がりへの期待はなくなった。生への執着すら、もうない。
代わりに湧き上がるのは反骨心。それを心の支えにして、ミコトは殺意と憎悪を吐き出した。
「殺……、――してやる!」
その一言を皮切りに、全てが切り替わる。
生を求める懇願は、死へと誘う殺意に。
『頭痛』の影響もない。自身で生んだ明確な殺意が、心を支配する。
「殺すぅぅぁぁあア――――!! 使命に狂ったクソッタレどもォ! テメェらのもグてきもシメイも意思もォ、全部全部ぜぇンぶゥ、ぜェェェンっぶゥッ! ぶっ殺して捻り殺して殺し潰して斬り殺してゴロして殺してコロじてコロしでコロじでででででデでデデデでぇげデデぶぇ――――」
――――死――――
――――死――――
――――死――――
――――死――――
――――死、死死死死、死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死死死死
死死死死死死死死死――――
◇
……何度、繰り返しただろうか。
幾度、絶望と狂気に陥っただろうか。
幾重もの負感情が絡まる。
一。
激痛の悲鳴を上げた。
死。
殺意を吐き出した。
一三。
救いを求めた。
三七。
とにかく叫んだ。
七七。
笑い声が聞こえた。
一〇八。
狂ってしまった自分の笑い声だと気付いた。
二七七。
期待するのはやめた。
三五七
ただただ、絶望に浸る。
死死死。
死生の境界線が曖昧になった。
五〇死。
女が悲しみに暮れる夢を見た。
六六六。
幻の中、『俺/俺』の目の前で、『知らない/守りたかった』人が死んでいた。
七死〇。
夢から覚めた。けれどそこは、やっぱり死生連鎖の地獄だった。
八死死。
思考が混雑する。
九〇一。
自分が誰なのかさえ、もうわからない。
そして、千を超えて――――
◇
◇
◆
「見ろ」
女の声が聞こえた。
たまに見る夢の主人公が、座り込むミコトを見下ろしていた。
常に覆っていた、黒い靄はない。女の顔が、ハッキリとミコトの眼に映る。
中性的な、ミコトによく似た容姿。
白髪混じりの黒髪。
そして、爛々と血色に輝く、赤い瞳。
――《黒死》の魔女、メシアス。
「見ろ」
メシアスの言葉が、ミコトを夢へと誘う。
深い、暗い、悪夢へと――――