第七話 簒奪者の正体
◆
父が死んだ。
母が死んだ。
故郷は滅びた。
皆、死んだ。
「あぁ……」
忘れていたのだ。
忘れさせられていたのだ。
けど、気付いてしまった。
気付いてしまったから……。
◇
黒い女の幻を見ていた。
けど、覚めてしまった。
体が落ちる。
心が堕ちる。
空を飛べず、足場と平静を失った者に、重力から逃れる術はない。
ミコトは十数メートルの高さから落下し、地に体を打ち付けた。
肉が潰れ、骨が折れる音。
命が繋がったのは、奇跡的に頭をぶつけなかったからに過ぎない。
それが救いかどうかは、別として。
死ぬに死ねない苦しみが、ミコトの痛覚を侵す。
呆然と、辺りを見渡す。
サーシャは水の膜に囚われていた。
フリージスの魔術だ。
赤く、赤い水。サーシャの左肩から流れる血液が、水を赤へと染めていく。
サーシャの左腕は、肩から先が存在しなかった。
リースの消滅魔術。
展開できるのは、手の平だけではなかった。
射出もできたのだ。
と、そのとき。ミコトに横に、何かが降ってきた。
ぼとり、ぐちゃり。落下すると、湿りのある鈍い音が聞こえた。
そちらを見たくないのに、ミコトは向いてしまう。
受け入れられないそれを、見てしまう。
何も映さない。虚ろな目が瞬き一つせず、黙してミコトを見つめている。
オーデ・アーデ・ムレイは、まったく身動きしない。
オーデの頭の近くに、彼の右足があった。ミコトの腹の上に、左足があった。
だらりと、血溜まりが広がっていく。
紫紺の極光は、オーデの腹から腰を貫いていた。
上半身と下半身を繋ぐものが消え、さらに足を繋ぐ腰が消えたオーデ。その四肢は、バラバラに散らばった。
ごろりと。オーデの上半身、その切断面から、何かが垂れ落ちた。
赤い紐状の物体。それは小腸だった。
赤、朱、紅、赫。
ミコトの目に、血色が焼け付く。
オーデ・アーデ・ムレイは確実に、生命活動を停止していた。
ミコトの感覚も、そう告げていた。
死んだのだ。
誰がやった?
リースだ。リースの消滅魔術が、オーデを殺した。
リースに命令したのは誰だ?
フリージスだ。フリージスが見逃してくれれば、オーデが死ぬことはなかった。
誰のせいだ?
この事態を招いたのは、誰だ?
(……おれ、だ)
ミコトを庇い、オーデは死んだ。
『再生』するのに。ミコトは死なないのに、オーデが庇った。
ミコトが伝えなかった。『再生』という力を。
だから死んだ。俺のせいだ。
俺が弱かったから。
俺が足りなかったから。
この世界が、弱肉強食だから。
奪い、奪われる世界だから。
「だか……ら。奪い、返さない……と」
ミコトは見る。赤い瞳で。
奪った者を。オーデを殺した者たちを。
リースはかなりの生命力を使ったのか、力なくフリージスにもたれ掛っていた。
フリージスはオーデの死には目もくれず、リースを支えている。
フリージスが感情のない目で、水の膜から解放されて倒れ伏すサーシャを見やった。
「左腕なくとも、暴走しないか。警戒してショックを与えないようにしてきたが、必要なかったらしい。――これなら、出会ったときに四肢を捥ぎ取ってもよかったか」
奴らが、俺が、奪った。
だから、奪わないと、駄目なんだ。
だってこの世は、奪い奪われる世界なのだから。
「フリーぃぃィイイイイ! ジスぅぅぅァァァァアアアア――――ッ!!」
――『イグニスリース』。
ミコトの体が爆散する。
誰かが庇った命が途絶え、新たな命が始まる。
フリージスのほうへ弾き跳んだ肉片が、ぐちゃぐちゃと蠢いて『再生』する。
「『バート・アクエモート』ォ!!」
禁断術式を組み込んだ水属性身体強化。リミッターが壊れ、肉体の崩壊を代償に、絶大な力を得る。
さらに『最適化』が、スロットを大幅に拡張する。
肉体と精神、二つともが暴走する。
次いで、魔術を紡ぐ。
「『アクアーム』ぅ……!」
水器魔術『アクアーム』。
形状変更によって、その形をあらゆる武器へと変える、ミコトの近接武装用の魔術。
それが鞭のようにしなり、フリージスへと伸ばされる。
当然、フリージスは迎撃しようとした。
構えることもしない。ただ一動作、地を踏み、岩槍を射出し、
「ぐ、ふっ……」
突然だった。
フリージスの口から、ごぼりと血が溢れた。
岩槍の狙いは逸れ、あらぬ方向へと飛んでいく。
その隙にミコトは、真の目的を果たす。
フリージスへ向かっていた水鞭が、突如として進行方向を変える。
地に倒れ伏すサーシャを回収し、手元に引っ張り上げた。
吸い寄せられるように飛んでくるサーシャの体を、ミコトは歯を食いしばって受け止める。
あまり衝撃は与えられない。サーシャの左肩からは、未だ血が流れていた。
「まずは、サーシャを――奪い、返したぞ……!」
しかし、このままでは死んでしまう。
フリージスたちの相手をしている暇はない。早くなんとかしなければ。
(血を……)
それは本能的な行動だった。
あるいは、ミコトの中に眠る何かが、突き動かした。
『アクアーム』は刃物に変えられるが、人体を切断するような硬度は保てない。
だから舌を噛み切った。舌を地に吐き捨てる。そしてサーシャの左肩に、ミコトは口を付けた。
サーシャの傷の上に、ミコトの血を付けていく。
直後、ミコトの血が蠢いた。ぼこぼこと泡立つ血液が、傷を焼いて止血する。
しばらくして、サーシャの血は完全に止まる。
その頃にはフリージスは、体勢を持ち直していた。リースは岩場にもたれ掛っている。
ミコトは口から血を垂れ流しながら、赤い瞳で睨み付ける。
「…………」
「――――」
沈黙が続いていた。
と、そのとき。
地上まで突き抜けた穴から、何者かが降り立った。
褐色肌の巨漢。側頭部に生えた獣耳。炎のような赤い髪。
赤い外套から微かに覗ける左腕に、包帯が巻かれているのが見えた。
《ヒドラ》、グラン・ガーネット。
赤みを帯びたブラウンの目が、左腕のないサーシャを捉えた。その一瞬、瞳が血色に輝いた。
グランがフリージスに向け、クレイモアを構える。
「フリージス。お前は……!」
「グランか。君の仕事は終わったよ」
「ならここから先は、俺の勝手だ。元依頼主」
今まさに激突する――寸前、ミコトは声を張り上げた。
「グラン、サーシャを!」
その一言で、何を言わんとしているかに気付いたらしい。
グランは牽制しながら、サーシャの元に後退。
舌を噛み切ったことで呂律が回らなかったが、ミコトはなんとか言葉を紡ぐ。
「あいつの相手は俺がする。だから今の内に」
「……わかった」
グランが了承した直後、ミコトは咆哮を上げて突撃する。
背後のグランがサーシャを抱え、地上に向かって跳んだ。
赤いオーラを纏ったグランの瞬発力は、《無霊の民》を遥かに超える。
たった一度の跳躍が、地上までグランとサーシャを運ぶ。
しかし、それを見逃すフリージスではない。
ミコトが対処できない速さ、グランが回避できない威力。両者の中間を見極め、狙い研ぎ澄まされた岩槍が、グランへと射出された。
フリージスの想定通り、フリージスに向けて火弾を構えていたミコトは、岩槍へ対処できない。
岩槍は豪速でグランへと突き進む。
しかし、次はフリージスの想定外だった。
今までに見ない、強烈に赤いオーラが纏った大剣。それが、岩槍を斬り払ったのだ。
「っ!? 君にそのような力はなかったはず……!」
珍しく動揺するフリージス。それを尻目に、グランは地上へ脱出を果たした。
フリージスの珍しい姿は続く。苛立たしげに眉根を寄せ、ミコトを睨み付けたのだ。
「何もかも想定外だ。そもそも君がいなければ、このような面倒なこと……。《操魔》と君が離れた瞬間を狙ったというのに、計画は無茶苦茶だ」
「じゃあ、俺がいなかったら、どうしてたんだ?」
「食事に睡眠薬でも入れて――」
フリージスが最後まで言葉を紡ぐ前に、ミコトは無言で左手を向け、詠唱する。
「――『イグニスリース』ゥゥァァッ!」
ミコトの左腕を起点として、炎の上級魔術が発動する。
創造系統ではなく、自身の体を起点とした干渉系統魔術。それはミコトの、大の得意分野だ。
瞬時に現象を引き起こす。
爆音。爆炎。爆熱。爆風。
左手が爆ぜ、莫大な熱量を秘めた炎が、フリージスを飲み込まんと迫り、
「――『ブレイク』」
フリージスが炎に手を触れる。直後、跡形もなく爆発は消失した。
「は……?」
あまりに呆気ない。
『最適化』を最大にして、死ぬ覚悟を構えて、ようやく使える最強の魔術が、簡単に打ち消された。
しかし、驚いている暇はない。
岩槍が迫る。防御する暇もなく、頭部を粉砕された。
『再生』。
「『アクエモート』ぉぉおおおおおお――――ッ!!」
禁断術式を組み込む暇はなかった。
ミコトは唸り、フリージスへ跳びかかった。
魔術が効かないのなら、身体強化だけで挑むだけだ。
雄叫びを上げ、拳を振り上げる。
「――『ブレイク』」
直後、フリージスの魔力を浴びせられる。体から力が抜けた。
体勢を崩したミコトは、頭から地に倒れ込む。
体を動かそうとすると、がくがくと四肢が震えた。
まともに動かせる身体状態ではなかった。
――身体強化の魔術が、消失していた。
このままでは不味い。
魔術が通用しない。《浄火》のように魔術そのものが消されているのではなく、術式から崩されてしまう。
早く離れて、体勢を取り戻さなければ。
再び自爆しようとする。
そのミコトの頭を、フリージスが掴んだ。『イグニスリース』の術式が、発動前に瓦解する。
かつてフリージスから借りた資料の中に、このような技術があったことを思い出した。
術式解体『ブレイク』。対象の術式を完璧に理解し、それに手を加える技術がなければ、決して使えない技術。
「――弟子は師に勝てない」
フリージスが紡ぐ言葉を、ミコトは呆然と聞く。
「とある魔術学者が残した格言さ。師は弟子の成長過程を、完全に理解している。どのような魔術、術式を扱うか、その傾向は、スロットの『型』は。それを教えてきた師は、すべてを理解している」
ミコトの中に、まさか、という思いが生まれた。
「俺に、魔術を教えたのは……」
「僕に勝てないようにするためさ」
本当にあっさりと、躊躇い一つなく、肯定された。
でも、とミコトは否定する。
「俺に勝つ、なら。別に魔術を教える必要なんか、ないだろ……!」
「いや、その必要があった。……君が初めて使ったという魔術を憶えているかい?」
質問に、ミコトは記憶を巡らせた。
初めて使った魔術は……ガルムの谷での、『イグニスリース』。
それはなんの教えもなく、無意識に発動したものだった。
「僕がいなくとも、君は十分な力を身に付けただろう。もしくは、魔術という手段がなければ、新たな異能を発現する可能性があった。けど、それは困る。だから師弟関係になった。僕が師で、君が弟子。――術式解体も簡単だ」
初めから、フリージスの都合のいいように、力を与えられていた。
予測できない未知の力より、十全に理解した既知の力のほうが、御しやすいから。
「なら、捨てればよかっただろうが! どっかの町で置き去りにすればよかったんだ!!」
「そうしようとも考えた。でも、それは無理だろう。君と《操魔》が出会ってしまった以上、離れることなどできはしない。無理やり引き剥がそうとすれば、《操魔》に刺激を与えてしまう。……左腕を潰しても暴走しないところ、僕の危惧は無駄だったみたいだけど」
聞きたくない。聞きたくなかった。
仲間と思っていた人が、心の内にこんな考察を巡らせていたなど、考えたくもなかった。
「レイラを助けるのを、協力してくれたじゃないかぁ!? あれも、嘘だったってのかよ!!」
フリージスが言いよどむことを期待した。
けれど、
「利害の一致さ」
ハッキリと。迷うことなく、そう言った。
言われてしまった。
「魔王教の手に落ちた、今代の……いや、今は亡き《浄火》の使徒は、エインルードの頭を悩ませてきた。アレの神髄は、火属性以外の魔術を打ち消すことではない。火属性以外による世界改変を無効にすることだ」
「……ぁ」
「《地天》の力が通じない。消滅魔術も消される。でも、いずれ立ち塞がる。さぁ、どうしようか……そう悩んでいたとき、君が提示してくれた撃退案は、とても魅力的だったさ。なんと言っても、君の提案だったからね」
どうして、こんなことになったんだろう。
フリージスとリースはなぜ、こんなことをしている。
「……俺は、サーシャは、お前は、なんだってんだ!? なんの関わりがあるんだ!!」
我慢できない。こんな理不尽、許容できない。
何をしたというのだ。何も悪いことはしていない。
「君はいつか、言っていたね。『言えない』ことを言えと。そして僕は、エインルードに着いたあとに教えようと約束した」
四カ月前のことだ。
サーシャを人質にして、ようやく引き出せた妥協点だった。
その妥協点に、辿り着いてしまったのだ。
「約束だ、答えよう。まずは、僕らエインルードの正体を言おうか。改めて名乗ろう」
そしてフリージスは、自身の正体を告げる。
「僕の名はフリージス・グロウス・エインルード。《地天》の勇者の末裔さ」
「なっ……!?」
エインルードが、勇者の末裔。
『彼らの祖先と縁があるだけさ』――《時眼》の勇者シリオスは言った。それは、こういう意味だったのか。
「次はサーシャくんについてだ」
その言葉に、ミコトは息を飲んで聞き入る。
「前に教えたね。《操魔》の力は、魔王の能力の一つだと。……けど、そんな単純じゃないのさ。サーシャくんの中にいるのは、異能だけではない」
嫌な予感。最悪の想定。
前々から感じていた違和。知る者が言う《操魔》と、知らぬ者が言う『操魔』。その違い。
「双頭の魔王、《神喰い》エデン。――サーシャくんはその片割れ、《操魔》イヴの宿主なのさ」
魔力を操る『操魔』……では、なかった。
操魔とは。《操魔》とは、異能ではない。魔力を操る『存在』だ。
――サーシャの中に、魔王の半身がいる。
「な、ら……。まさか、おれ、は……」
その《操魔》とミコトの関わり。
使徒の存在。
死からの回帰、『再生』。その力の根源は。
「神を裏切り、魔王の側に付いた勇者、メシアス。《白命》の反転、《黒死》の魔女。――それが君の、力の源だ」
《黒死》の魔女。
魔王の仲間。
その正体は、堕ちた《白命》の勇者、メシアスだった。
そしてミコトは、
「――《黒死》の使徒。それが、君の正体だ」
「あ……ぁ……」
ミコトは、魔女の使徒だった。
世界を壊そうとする者の、遣いだった。
サーシャは、魔王の片割れを宿していた。
世界を侵す者が、その身にいた。
フリージスは、勇者の末裔だ。
世界を守る側だった。
なら、今。自分たちがこんな目に合っているのは、当然の結果だと言うのか。
エインルードの目的は、世界を守ることで。それは正義で、こっちは悪だというのか。
先に奪おうとしたのは、フリージスではない。
簒奪者は、ミコトとサーシャのほう。
「……ぁ……ぁぁ……」
ミコトに体を動かす余力はない。
魔術を紡ごうにも、『ブレイク』が術式を解体する。
自殺しようとも、治癒魔術によって治される。
死ぬこともできず、逃げることもできず、反撃することもできない。
不死身であるはずのミコトはこの日、言い訳できないほど完全に、敗北した。
ずるずると、引き摺られていく。
地下へ。闇の底へ。地獄へと。