第七話 明るい食卓
お腹の虫が鳴いた。ミコトは頬を掻いて「そういや腹が減ったなぁ」と切り出した。
それを、レイラは呆れた目で見たあと、バッグから布の袋を手に取った。
ミコトとサーシャの視線が袋へ向く中、レイラは袋から取り出したるは、保存・携帯のために固く焼いたビスケットの一種、
「乾パンか。それ、意外と美味いよな」
「アンタの分はないわよ」
「ひでえっ! 悪魔のような所業だ!」
ずいぶんとひどい、レイラのミコトへの対応である。
ミコトの言い草もなかなかのものだが。
「駄目だよ、みんなで分けないと」
が、理不尽な出来事には天使が舞い降りるものなのだ。
サーシャに礼を言ったミコトは、レイラにドヤ顔を向けた。レイラの額に青筋が浮かんだ気がしたが、気のせいだろう。
口の端がピクピクしている(気がする)レイラから乾パンを受け取ったミコトは、一口でもらった乾パンすべてを口に放り込んだ。実に粗雑である。
対してサーシャは一つ一つ丁寧に噛んで食べ、レイラは残った乾パンをポンポン口に放り込む。
食べてから『ヨモツヘグイ』という単語が頭をよぎった。
ヨモツヘグイ。あの世の食物を食べることを意味し、これを食べると地上には戻れなくなるとか。
異世界の食物乾パンは、もうすでに腹の中だ。
……ミコトは考えないようにした。
「お、そだそだ」
先に食べ終えたミコトは、一つ思いついた。
声を出すことでサーシャとレイラの視線を集め、
「魔術って、簡単に憶えられるモンなのか?」
簡単で、ここでも憶えられるものならば、今のうちに修得しておきたい。
またラウスと戦ったとき、運よく『頭痛』がくるかどうかなんて、わからないのだから。
「……人によるよ?」
サーシャが口の中の乾パンを飲み込んでから答えた。
レイラは教える様子はなく、乾パンを黙って食べている。ここはサーシャに任せることにしたらしい。
「才能ってことか?」
「うーん、それも大事だけど……。やっぱり、切っ掛けが大事かな」
「切っ掛け?」
何かの儀式でもするのだろうか。
ミコトが首を傾げると、サーシャは姉が弟を見るような目で微笑んだ。納得いかない。
「そんなすごいことでも、仰々しいことをするわけでもないよ? 生活環境が変わったり、タンスに足の指をぶつけたり……寝て起きたらいつの間にか、ってこともあるみたい」
「んな簡単なことでいいのかよ」
「うん。だから、けっこう魔術が使える人は多いんだよ。一世帯に一人ぐらいはいるんじゃないかな」
ロマンが足りない。
ミコトは呆れたように「ファンタジーが安い……」と呟いた。
「ミコトって、魔術のことあんまり知らないよね? ミコトの世界って、あんまり魔術が発展してなかったの?」
「いや、そもそも魔術とか、架空の存在だったし」
ミコトは軽い気持ちで答えたのだが、サーシャの驚きようはすごいものだった。
目を見開いて、口をポカンと開けている。
レイラも目を丸くしていた。そういえば携帯電話は見せたが、魔術がないなんて話していなかった。
「魔術がないって、無霊大陸みたいに?」
「そのなんとか大陸は知らねえけど、本当に魔術がなかったんだって。代わりに科学技術が発展しててさ」
頬を上気させて迫るサーシャに、ミコトは驚いて仰け反った。
穏やかな少女だと思っていたが、意外と好奇心旺盛らしい。いや、子供らしいと言えば子供らしいか。
ミコトは頬が緩むのを自覚した。
「カガク?」
「そ。さっきの携帯みたいな奴な? あれ、『ノーフォン』みたいな使い方もできんだぜ?」
むしろ、それが本来の機能だ。携帯『電話』なのだし。
「じゃあそれがあったら、元の世界の人とも話せるの?」
「さすがに無理だろ」
画面を見ても、電波は立っていない。そもそも、電波が世界を超えられるはずがないのだ。
それでもものは試しと、親友に電話をかけようとしたが、感情の色のない電子音声が流れるだけだった。
ミコトは落胆した。予想通りだったが、もしかしたらと期待していたのも事実だったのだ。
誰にもばれないように、心の中で嘆息した。
その、はずだったのに。
「あ、ごめん。無神経だったよね」
――サーシャが、沈痛な面持ちで謝罪した。
ミコトは目を見開いて。
……しかし、いつも通りに。
「いや、別に気にしてねえよ。もともと諦めてたことだしな」
ミコトは手を振って返した。憂いは一切出さない。
サーシャは「そう?」と申し訳なさげに言うと、黙って残りの乾パンを食べ始めた。
なんとなく、その姿が寂しそうに見えたから――ミコトは笑みを作って、
「ま、科学に世界を超えるような技術はねえけど、いろいろできんだぜ?」
そう切り出してサーシャの興味を引き付け、
「空飛ぶ乗り物とか、人を轢き殺せるぐらいの速度が出る、馬いらずの馬車とか、いろいろあってさぁ」
「ど、どうやって動いてるの!?」
サーシャが興奮して訊いてきた。
妙に聡いところがあるサーシャだが、誘導するのは簡単だ。
ミコトは口を笑みの形にして、
「まあ、ガソリンとか電気とかで――」
意気揚々と、地球のことを話し始めていた。
何を話しただろう。けっこう誇張が入っていたり、知らない理論を妄想だけで語ったり、オタク文化を熱弁したり。
いらないことまで話したと思う。それでもサーシャは興味津々に聞いてくれたし、レイラも耳を傾けてくれているようだった。
ミコトの脳裏に、最近の食卓の光景がよぎった。
台所で調理する、ミコトの姿。母と別けて調理された料理。
水物の料理を、部屋で寝込む母の元に持っていき、そのあと自分の料理を食べ始めるのだ。
――たった一人で、黙って、黙々と。
「…………」
ミコトは目の前に広がる光景を見た。
粗悪なものだった。
匠もビックリな開放感で、すぐに外が見える。
イスもテーブルもなく、座り心地は最悪。
お腹に収めた乾パンも少なすぎて、正直食べた気がしない。
――それなのに、どうしてだろう。
命を狙われた状況で、不謹慎だと思う。緊張感や危機感が足りないのではないかと思う。
命を失うのは怖い。ミコトは死にかけたが――いや、死にかけたからこそ、死にたくないと強く思う。
けど。だけれど。
――今が幸せだと、感じていた。
ミコトの頬が、知らず緩んだ。
こぼしたため息は、憂鬱な感情ではなく、安堵からのもの。
「――ごちそうさま」
気付けば、ミコトは口走っていた。食べ終わってけっこう経った今では遅すぎる言葉で、この頃はまったく言わなかった言葉だ。
サーシャとレイラが訝しげに見てきた。
これも定番だよな、とミコトは思いながら
「ああ、これは食後の挨拶でな。確か、食材を調達した人たちに対する感謝の言葉だとか」
「アタシに感謝しなさい」
「お前には死んでも感謝しねえ」
ない胸を張るレイラがウザったくて、ミコトは反射的にそう返してしまった。案の定、レイラの目尻が吊り上がったが、ミコトは無視する。
「『ごちそうさま』に対して、『いただきます』っていうのもあってな。確か『俺様のために犠牲となった動植物の命を頂いてやる』って感じだったか」
「たぶん違うと思うよ」
「『多くの生き物を犠牲にして生きている』ことと、偉大な自然への感謝の気持ちを表したもの……だったはず」
なかなかうまく説明できた気がする。ミコトは自画自賛した。
ふと、サーシャが左手の手元を見つめていることに気付いた。見ると、最後の乾パンが掌に乗っている。
「――いただきます」
そう言って、サーシャが乾パンを口に放り込んだ。
目を丸くするミコトの前でサーシャは乾パンを飲み込むと、
「――ごちそうさま」
どうしてか。
心の内から、何かが溢れ出ようとした。
ミコトはそれを、胸にうちに抑え込んだ。
(ああ、そうか)
ミコトは気づいた。
どうして、こんなに今が幸せだと思ったのか。
それが、ようやくわかった。
(――懐かしかったのか)
自然と口が、笑みの形を作った。演技の混ざらない、自然な笑みだった。
ああ、と思う。
いろいろ大変だったけど。これからもたぶん、大変だろうけど。
この世界に来てよかったと、ミコトは思った。